説明のつかないことを恐れずに、ありのままを受け入れること、まかせてしまうことが私たちに自由を取り戻します。
古い思い込みを捨てて、手放してしまうことです。
自分の力では、自分自身から自由にはなれないとあきらめることです。
未来を予言したいのは、今の自分で押し通したいからであり、逆に今の自分にしがみつくことが、未来を予測可能にするしかないという悪循環に陥っているのです。
・自分の正しさを主張したいがために苦痛を作り出さないこと。
あなたの正しさが否定されてもあなた自身が否定されるわけではありません。
・他人への思いやりのために自分が苦しいのは、何かが間違っています。
あなた自身への思いやりを忘れていないでしょうか。
・こんなことを考えたらきっと反対するだろうと、反対者を自分で作り出さないこと。
人に話せば反対される確率はせいぜい5分5分、黙っていれば0です。
・他人はケチではありません。あなたがハッキリ欲しいと言っていないだけです。
自分の望みをたいしたことじゃないなどと思わずに大事にし表明してみましょう。
・・・・
◆野の花の装い - 苦しめるのは誰でしょう
6:28 あなた方はなぜ衣服のことで思い煩うのか。野のユリがどのように育つかをよく考えなさい。労したり,紡いだりしない。 6:29 だが,あなた方に告げるが,栄光を極めたときのソロモンでさえ,それらの一つほどにも装っていなかった。 6:30 では,神が,今日生えていて明日かまどに投げ込まれる野の草にこのように衣服を与えておられるのであれば,あなた方にはなおのこと衣服を与えてくださらな いだろうか,信仰の少ない者たちよ。
6:31 「だから,『何を食べようか』,『何を飲もうか』,『何を着ようか』と言って思い煩ってはいけない。 6:32 こうしたものすべては,異邦人たちが追い求めているものだからだ。あなた方の天の父は,あなた方がこうしたものすべてを必要としていることをご存じなの だ。 6:33 むしろ,神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば,こうしたものすべてもあなた方に与えられるだろう。 6:34 だから,明日のことで思い煩ってはいけない。明日のことは明日が思い煩うからだ。その日の悪いことだけで十分だ。
マタイによる福音書六章
書籍名:新約聖書 マタイによる福音書 訳者名:CozoH
自然は努力せずとも、その生命を開花させます。
自然環境が劣悪でも、それなりに出来る限り自分を表現し尽くしているように思います。
なのになぜ、私たちはこんなにいつも悩んでいるのでしょうか。
自然に考えれば、私たちが余計なことをしているからと考えるのが妥当だと思えてきます。
ギリシャの哲学者達は、神話の世界から人間中心の世界を作りあげました。
アリストテレスは、自然を分類し分類し、今日の科学的な思考方法の基礎を築きました。
科学は私たちに、わからないもの、不思議なものを消し去るかに思えました。
しかし、心の問題に関しては、残念ながら古代からほとんど本質的に進歩していないようです。
いくら科学的な思考方法を使える人でも、自分のこころの問題となると、思い込みから自由にはなれないようです。
物理的な世界では、「なぜ」とか「どうやって」という問いかけが有効で重要なことです。
しかし、私たちの心の問題となると、理由を知ったり説明できたりすることが必ずしも解決をもたらしません。
頭で考える限り、理解できないものは恐ろしいものになってしまいます。
頭で考える限り、答えを求め続けないと解決は望めないと思い込みます。
頭で考える限り、過去の経験が道しるべであり、未来がどうなるかを絶えず気にすることになります。
頭で考える限り、自分の正しさが自分を支えると思い込み、間違いを認めることを怖がります。
このように「なぜ」と「どうやって」で生きるだけでは解決できないことがあるようです。
それをやめて、理由を考えずに今のありのままを受け入れないかぎり解決しないことがあるものです。
昔から賢人達は、分からないものをそのまま受け入れることを説いてきました。
老子はタオは人間にはわからないものだがそれに従うのだと言い切ります。
仏陀はすべては空と見抜き、はかないものにしがみつくことの愚かさを説きました。
かつては日本人は、もののあわれやはかなさを尊び、無粋な扱いを嫌いました。
イエスは、前掲のように頭で思い煩うことが無駄であることを教えました。
説明のつかないことを恐れずに、ありのままを受け入れること、まかせてしまうことが私たちに自由を取り戻します。
古い思い込みを捨てて、手放してしまうことです。
自分の力では、自分自身から自由にはなれないとあきらめることです。
まわりの世界は誰にとっても平等です、
それが苦痛に満ちていると思うのは、あなた自身が苦痛を作り出しているにすぎません。
・自分の正しさを主張したいがために苦痛を作り出さないこと。
あなたの正しさが否定されてもあなた自身が否定されるわけではありません。
・他人への思いやりのために自分が苦しいのは、何かが間違っています。
あなた自身への思いやりを忘れていないでしょうか。
・こんなことを考えたらきっと反対するだろうと、反対者を自分で作り出さないこと。
人に話せば反対される確率はせいぜい5分5分、黙っていれば0です。
・他人はケチではありません。あなたがハッキリ欲しいと言っていないだけです。
自分の望みをたいしたことじゃないなどと思わずに大事にし表明してみましょう。
・責任感という名の下に自分を苦しめないことです。
「責任」とは言葉であって、それに従う限りどこまでもあなたを許してはくれません。自分を許せるかどうかは、責任を果たすこととは別のことです。
・苦しいのは自分が「高尚な人間」だからだと思わないこと。
苦しい「高尚な人」ではなく、苦しまない「ただの人」になりましょう。
・恐怖は逃げ道のあるときだけ存在します。
回避策はもはやないと認めれば、新しい見方が出来る様になります。
・まわりが敵ばかりに見えるのは、あなたが自分自身と敵対しているからです。
自分自身を許せば、敵もいつの間にかいなくなります。
・まわりの人が間違っていると思うのは、自分の正しさへしがみついていることの現れです。
あなたも間違えることはあると認めれば、ゆったりした生活が戻ってきます。
・自分はこういう人間だと説明しようと思わないこと。
次の瞬間にも自分は変わるかも知れないと認めてしまえばいいのです。わかっている人はそんなあなたを責めたりしません。
・苦しいのが当たり前と思い込まないこと。
たんに苦しさのない世界になじみがないので恐れているだけです。苦痛の終わりは自分の終わりだと勘違いしないこと。
◆変容がなければ成長しない
「しまった!やってしまった。」
そう思ったとき、私たちの取る態度は2通りあるでしょう。
たいていは、今の自分を何とか守ろうとします。
要するに仕方がなかったんだという理由を探し求めて、今までの自分を弁護しようとするのです。
もう一つの道は、その失敗を試練と受け止めて、今までの自分から変容するきっかけにするというやり方です。
複雑に見える人間の心理も、突き詰めて考えればこういった小さな選択の繰り返しに過ぎないのです。
さっさと負けを認めて、次々起こってくる新しい出来事を受け止めることに、エネルギーを使おうと決めれば、無駄などうどう巡りで貴重な時間を潰さなくても済むでしょう。
無駄などうどう巡りとは、こういうことです。
『とげがささっちゃった!』
ライナス:
イテッ!
ライナス:
とげがささっちゃった!
ルーシー:
どうかしたの?
ライナス:
指にとげがささっちゃった...
ルーシー:
あらそう!それは何かの罰があたったのよ!
ルーシー:
最近どんな悪いことしたの?
ライナス:
悪いことなんて何もしてないよ!
ルーシー:
とげがささってるんでしょ?
それが不幸の兆候なのよ。そうでしょ?
悪いコだったから罰せられて不幸になるのよ!
チャーリー・ブラウン:
ちょっと待ってよ...
ルーシー:
あんたに何がわかるのチャーリー・ブラウン?
これは兆候よ!ハッキリとした天罰の兆候なのよ!
ライナスはとっても悪いことをしたんだわ。
それで彼は不幸な目にあうのよ!
ルーシー:
私、こういうことはよく知ってるのよ!
私は何でも...
ライナス:
あっ、抜けた!
とげがたった今抜けちゃったよ!
ライナス:
かくて今日の神学の講義は終わりね。
とげが刺さったらその痛みを感じ、
とげが抜けたら素直に喜ぶとき、
そこには説明はいらないのです。
【参考】
いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント
エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02
ルーシーは何とかこのとげが刺さったという出来事で、今の自分を権威づけたり役に立つ存在として自分を見せようとします。
しかし、「あっ、抜けた!」という一言で、もろくもその企みは崩れ去り、何も言えなくなってしまいます。
ライナスは幸い「とげ」を大事にしようとは考えていません。
ただとげが刺さったという出来事が起こり、やがてそれが抜けて事件?は何事もなかったように過ぎ去っていきます。
とげが刺さって大さわぎを続け、同情を求めたり、「悪いコだったから罰せられる」ゲームに参加することもできます。
しかしライナスはとげは抜いてしまえばそれで終わり、そんなことよりも他の楽しいことに出会うことを選んだわけです。
ルーシーは起きたことに必要以上に意味を持たせて、時間をストップし、その中に生きようとしたのです。
今自分が持っている才能を発揮するのは重要なことです。
ルーシーがとげの抜き方を教えようとしたのなら、それは有用なことであり、とげを終わりにして変容へ向かう成長の可能性があります。
しかしルーシーの言葉は、もっともらしく見えても、いまの自分にとどまり変化を受け入れない巧妙な罠になりかねません。
ルーシーの「神学講義」にどれほどの意味があるのかはわかりませんが、未来を保証する予言に生きるのは、常に現実を先取りして失敗を怖がりながら生きることに繋がります。
それは同時に依存する対象を持ち続けると言うことです。
つまり、誰かを、何かを信じてしがみつく必要があるのです。
それを外れてしまうことを怖れ、そのような気配を感じると、そんな自分は無視して否認しなければなりません。
「お先真っ暗」という言葉がありますが、先は誰にも見えないものです。
先のことを明るく見せかけようとする工作が、変容を拒否し、いまのありのままの自分すら受け入れられなくしてしまいます。
無理やり明るく見せかけなくても、暗くても明るくても、未来は未知のものだと受け入れてしまえば、新しい挑戦でしかないのです。
未来を予言したいのは、今の自分で押し通したいからであり、逆に今の自分にしがみつくことが、未来を予測可能にするしかないという悪循環に陥っているのです。
そもそも、自分の言ったことは二度と訂正できない生き方なんて、窮屈で仕方ないでしょう。
とげがささったら、とりあえず抜くことに集中して、それを終わらせてしまいましょう。
◆確かさに依存しない
「天気予報が100%当たるようになったら信じよう。それまでは信じない。」
こんなことを思う人はあまりいないでしょう。
それなりの確率があれば、有用なものだと思って利用するのが普通ですね。
そして「100%なんてどだい無理だよ」と思うのにも抵抗はありません。
もしかすると実現するかも知れませんが、それには膨大なコストがかかりそうですし、そこまでする必要があるかどうかを考えるでしょう。
しかしそう思っている人が、意外なことで100%信じられないと困るという罠にはまっているのです。
私たちは確かなものをほしくて、正しくありたいと思い、安定した地位に就きたくて、いつも何かを探し求めています。
そういうものを手に入れたら安泰だと信じているからです。
そのことは容易に、今自分の持っているもの、今自分が所属しているグループ、今自分が信じている観念が絶対正しい、と信じたい欲求を作り出します。
人は客観的な真実よりも、自分が信じたいことを信じるものです。
「信じたいことを信じる」というのは、一見自由に選んでいるように見えますが、その実体は、確かなものを手に入れて、安心したいという気持ちから来ています。
言い換えれば、確かなものが見えないことが不安でたまらないという恐れがもとになっている選択であるわけです。
その根底に怖れがあるかどうかは、容易にわかります。
その考えが正しくないという脅威にさらされるとき、つまり他人の異なる意見や批判を耳にしたときなどに、自分がどう反応するかを見てみればいいのです。
本当に信じていることなら、それと異なる考えを聞いても平然として、不安な気持ちや自分への脅威を感じたりはしないはずでしょう。
ちょっとでも批判じみた声を聞いた途端に、不安が表れ動揺したり、憂鬱な気分になるというのは、自分が必死で「その考えが正しくあって欲しい」としがみついているからです。
しかし、それでは本当に信じられるものを見つければいいのか、というとそういうわけにもいきません。
なぜなら、ものごとは常に変化するもの、自分自身だって常に揺れ動いている存在です。
そのことから考えれば、固定した絶対と言える正しさは存在できないということになります。
どんなに権威があろうと、時代や国が違えば全くのたわごとになってしまうかも知れません。
つまり、「どうやっても揺るがない確かさを手に入れることは不可能である」と認めてしまうのが正解でしょう。
確かなものにしがみつきたいという恐れからの行動を続けていれば、いつになっても不安から逃れることはできません。
それは、本来不可能なことを「これだけは間違いない」と信じたくて信じているということです。
「これが正しくなくては、自分はどうしていいのかわからない。だから信じるしかない。」というのがその実体なのです。
そして、本来根拠のないことを信じようとしているわけですから、いつか自分を騙して信じていることに気がついて、安心感はもろくも崩れ去っていきます。
1つの確信が揺らいでくると、すかさず他の権威を探して、またしばらく空しい安心感の時期を過ごそうとします。
そして、しがみつく度合い、恐れの強さがあるほど反対するものへの反発は大きくなり、他者を攻撃したくなるのです。
実際に人にあって話を聞かなくても、ネットの様々な考えを目にしているみなさんなら、自分と同じ考え、違う考えを目にしたときに、自分がどのように無意識的に、意識的に反応しているかを考えれば、以上のことはお分かりになると思います。
さて、何かを信じたいと思ってもダメで、しかし無条件に信じられるものなどないと言われたら、お先真っ暗ではないかと思われるでしょうか。
そう思うことが、まさに何かの権威にしがみつきたいという心理そのものがもたらす怖れであり、失望感なのです。
ですから「確かなものに依存したい」という衝動を理解して、その存在を表に引っ張り出してしまえば、「確かなものがないと生きられない」という思い込みから解放されます。
実は自分を怖がらせている原因は、怖さへの防止策と思って取っている行動にこそその源があったと言うことです。
確かさを求めたい気持ちを理解して、それを超えることを考えるなら、何かにしがみつこうとするときの怖れが見えるようになってくるでしょう。
こんな伝統や慣習になぜ縛られなくてはいけないのかと感じることがあると思います。
それでも、それから自由になれないのはなぜかを追求していけば、自分の中の怖れが発見できるでしょう。
「この権威があるから自分は安心だ」と信じたい気持ちこそが、延々と続く不安定な権威への渡り歩きをもたらすのです。
「確かさなどなくても平気」と思えたとき、無条件の自由が得られます。
何かにしがみついていることで得られる偽物の安心感は、常に「これであっているだろうか」という問いかけや確認を自分に強いてくるのです。
この安心感は、どこから来るのかと考えなくてもすむものこそが、本当の安心だといえるでしょう。
それは皮肉にも、確かなものを求めるのをやめることで得られるのです。
何かの信念をたえず言い聞かせていることも、多くの場合同様の恐れからの行動です。
そのとき必要な投資だと思っている不安との戦いも、実はなくてもいいもののはずなのです。
不安というのは何かしら必要があって備わっている感情でしょうから、それを根絶やしにしようと言うことではありません。
しかし、逆にそれに様々なもっともらしい名前をつけて自分を駆り立てるモチベーションにしようとするやり方は、長続きするとは思えません。
そして、そのようなやり方の裏には、その報償としての「権威」や「確かなものを保証する」というごまかしが隠れているのです。
威勢が良かった人も、守りに入ってしまうと途端に弱くなります。
それは、何かにしがみつこうとし始めてしまうからです。
それまでは、不安定ながらも特定のものに依存しない強さがあったのです。
その時起きた変化に、怖れの正体を探る秘密が隠されているでしょう。
期待しないものは最強です。
どんな誘惑も、権威も歯が立ちません。
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