人間関係006:認められることを少し忘れてみよう001

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◆「見返りを求めない」もっとわかりやすくならない?

この文章は次の記事を読んで思ったことを書いたものです。

文字数制限などもあるので、ノートにしてみました。

 

『ばかばかしい。感謝するの、やーめた!:日経ビジネスオンライン』

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110725/221663/

 

この記事では、夫婦間のコミュニケーションから始まって、相手の反応にどう対処すべきかというテーマが書かれています。

 

夫婦間の交流というのは、相手を目の前にした情報量の多い関係です。

 

実際この記事でも、多すぎるほどの情報をどのように処理しようかということが問題になっています。

 

ここで「私」の側で実際にやっていることは、どんなことでしょうか。

 

相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」から見た相手の人物イメージを作り上げているのです。

 

「あの人は~な人である」という記述があります。

 

ごく当たり前に使われる表現です。

 

そしてこの記述から私たちは「あの人は客観的にみて~な人である」と受け取るのです。

 

ですが先ほど述べたように、この文は『相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」が作り上げた相手の人物イメージ』だと言うことです。

 

実はとても客観的といえる代物ではないのです。

 

そのまま信じると、言葉は、簡単に私たちを騙し混乱させてしまいます。

 

ところで、私たちがネットの上で人と交流する場合、実際に会ったことのある人だと事情は大きく違いますが、ネットだけでの知り合いの場合は、どのように相手のイメージを作り上げているのでしょう。

 

Facebookのように相手の情報が多めのSNSもありますが、それにしたところで、相手のことは、写真と文字情報だけを頼りに作り上げています。

 

先ほどの、夫婦間の情報は多すぎるほど多かったわけですが、今度は逆に相手のイメージを作り上げるのに充分とは言えない情報量です。

 

足りない情報はどうしているかと言えば、「それはわからない」として扱っていればいいのですが。。。

 

私たちが実際にやりがちなのは、「私」の知っている人物イメージで相手の不足した情報を補ってしまうということです。

 

ネット上の関係でも、やはり最終的には、『相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」が作り上げた相手の人物イメージ』を使っているのです。

 

「あの人は~な人である」という表現を、簡単に客観的な判断だと勘違いしないことです。

 

これは、「私」が主観的に作り上げた人物像であると思っているくらいでちょうどいいのです。

 

 

さて、以上をふまえて、相手の人物像を出来るだけ「はずれ」のないように、現実と大きくずれないように描くにはどうすればいいのか?を考えて見ましょう。

 

◆まずは、「あの人は~な人である」という表現を客観的な判断だと勘違いしないこと。

 

あくまで「私」の人間観で補って作り上げたものであると認識しておくこと。

 

◆「わかっていない情報」がたくさんあることを認めること。

 

隙間があると、私たちはすぐに自分の側で補ってしまうものです。

 

そうしないと、相手をひとりの人間としてイメージできないからです。

 

当然、人の数だけひとりの人に対する人物イメージが存在するものであるというのが現実です。

 

◆前項をふまえて「わかっていない情報」をブラックボックスとして扱うこと。

 

ブラックボックスとは中身が見えない箱です。

 

中身は見えないけれど、インプットすれば、それに対して出てきたアウトプットは知ることが出来るというものです。

 

ですから、「ブラックボックスとして扱う」という姿勢は、見えない中身を自分の知っていることに置き換えないでブラックのまま扱うということです。

 

あくまで、あてにできるのは、インプットに対するアウトプットであるという態度です。

 

つまり相手が描き出してくる人物像を、わかってくるにつれて描いていくという姿勢ですね。

 

◆情報が多くても、少なくても、私たちは「私」の作ったイメージで相手を見がちであるという傾向をいつも忘れずに、できるだけブラックボックスとして扱う。

 

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。

 

ここでいわれているのは、親しくなるとすぐにわかっているつもりになって、ブラックボックスをただちに「私」のイメージに置き換えてしまう傾向が強くなることを言っているのでしょう。

 

 

以上述べたやり方は、最初は違和感があるかもしれません。

 

どこか冷たく相手を観察していると思うかもしれません。

 

ですが、勝手に「私」のイメージで相手を扱うことが、どれだけトラブルを巻き起こしているかを知れば、どちらがいいかということです。

 

ところで「見返りを求めない」という言葉は、わかった気にはなりますが、一段階抽象度が上がる感じなので、実際に行動しているとすぐに忘れてしまいます。

 

相手のイメージを描く、まさにその段階で「私」を入れないようにする姿勢、見えないことを見えた気にならない姿勢をを心がければ、人間関係はずっとスムーズになります。

 

また、相手が親しい人なのかどうか、目上の人かどうかなど、複雑に相手によってルールを考えるのではなく、シンプルに共通して持てる姿勢でもあるのです。

 

おそらくこの姿勢でいれば、はじめて会う人に対しても、緊張感も少なくなる効果もあるでしょう。

 

わかってもいないことを「私」の解釈で補うことが問題を作り出す。

これは、人間関係だけでなく当てはまるのではないでしょうか。

 

 


◆認められることを求めているから解放されない

私があなたから認められたいと願っていると、

あなたの答えが「イエス」か「ノー」かだけ気になって、他の事が見えなくなる。

 

他の話題にそれたりすれば、私は答えばかり気になってイライラし出すことになる。

 

期待する見方で人と接すれば、自分は相手に依存して、あなた次第で振り回されることになる。

 

それは、たとえほめ言葉であっても同じこと。

 

相手の言葉に一喜一憂するようになれば、相手次第で自分の気分をあずけてしまうことになる。

 

 

 

自分がどう振る舞うか、ということも同じようなことが言える。

 

「誰が見ても好ましいと思う自分を作り出そうとする。」

 

このやり方は、誰しも良さそうに思って無意識に従ってしまう。

 

嫌われるようなことをしていないから、自分は好かれるだろうという論理だ。

 

しかしこれは、思っているほど役には立たない。

 

害にはならない人間を作り出すけれど、みんなが同じになって面白くも何ともない人間を量産することになってしまう。

 

「誰が見ても好ましいと思う」ということを表面的に捉えてしまうから役に立たない。

 

他の人に認められたいと思う人が多い社会ほど、嫌われることを怖がる度合いを高めて、それがみんなに伝染する。

 

その結果、だれもが素直に自分を表現することを躊躇して、「誰が見ても好ましいと思う」ことを装うことに夢中になる。

 

出会う人、出会う人、みんな危険はないけれど、またかと思う反応を返す人ばかりになる。

 

 

本当に出会いたいのは、自分を仮面で隠していない人だ。

 

ありのままに自分を表現している人を見れば、その正直さに自分もうれしくなり、ほっとしてしまう。

 

「誰が見ても好ましいと思う人」よりも、そういう人と一緒にいたくなる。

 

一緒にいれば、自分もそうなれるかもしれないと思うからだ。

 

つまり、自分もありのままでいたい、解放されたいと常々思っているということ。

 

だれも「誰が見ても好ましいと思う人」になどなりたいと思っていない。

 

そうしないと、周りから受け入れられなくなるのを怖がっているだけだ。

 

だとすれば、外側にそういう人を探すよりも、自分がそういう人になればいいのだ。

 

それは、奇抜なことをして目立とうということとは違う。

 

目立ちたいのも、自分を作っていることに変わりなく、そこにあるのは、別のやり方で自分を注目して欲しいという欲求に過ぎない。

 

最初は人の気を惹いても、やがてそれはその人本人ではないとわかってきて、作りものはばれてしまう。

 

不自然な奇抜さは、すぐにあきられて、だんだん見るのも嫌になってくる。

 

 

もちろん、自分らしさは人から教わるものではない。

 

教わったやり方を使うのは、誰かのコピーになろうとするだけだから。

 

あまりそういうやり方を教えますという誘惑には乗らない方がいい。

 

 

無条件に自分らしさを出すのを怖がる時、そこには自分への信頼とか、自己評価がからんでいる。

 

自分自身に対して、自分を隠して見ようとしないでいる部分が、その不信感を作りだしている。

 

この人は何か隠していると感じるとき、その人を信用しないものだ。

これと同じ理由で、自分を欺いている部分が、自分自身を信頼することを阻害している。

 

隠しているのは、これがばれたら人から嫌われるだろうと思っているからだ。

 

しかし、皮肉にもそれがほかの人に対して拒絶する部分を作りだしている。

 

実は、その部分を見せれば、その正直さに人はあなたを好きになるというのに。

 

つまり、行き着くところは、自分自身へ正直に向き合うことだ。

 

ここから出発しない限り、「誰が見ても好ましいと思う人」を装い続けて、自分も周りも満足出来ない関係を作り続けることになる。

 

外側に解決があるなどと騙されて探し回るのは、いい加減やめた方がいい。

 

それよりも、素直に自分を表現したときの、ほっとする満足感を大事にするだけでいいのだ。

 

あなたがまずそういう人になればいい、周りにそれを望む人が集まってくる。

 


◆社会の期待だけで生きようとしない

頑張ってしまう人ほど、社会やまわりの人への期待に応えなければと、ついつい無理をしてしまいがちです。

 

他の人の役にたつことを目指すのはいいのですが、それが前面に出すぎると、自分自身の欲求を無視したり、押さえ込んでしまうことが強くなりすぎてしまいます。

 

それがあまりに高じると、「他の人の期待することが自分の願いでもある」と信じ込むようになってきます。

 

そして、自分は期待に応えられる人間であることを証明することが、自分の日々の活動のすべてになってしまうので、自分の奥底からの声に耳を傾けることが、だんだんおろそかになります。

 

これを続けていれば、残念ながらバランスをくずしてしまって、いつもなにかもの足りない、どこか苦しいと感じながら、それを抑えつけてしまう生活を耐えきれなくなるまで続けてしまうことになるのです。

 

それは、体の不調や、すぐ疲れるといった症状、あるいは「うつ」の症状を招くかもしれません。

 

 

そんな無理をしながらも、こんなことではダメだと思って、もっと自分を奮い立たせるような方法はないだろうかと探し求め、見当違いのハウツーを信じたのでは、症状をより悪化させてしまうかもしれません。

 

元気がでないのは、自分が怠けているからだと思って、一時的にから元気を出すような訓練をしても、いっこうに改善されるはずはないのです。

 

元気がでないのは、自分の中で認められない自分が悲鳴をあげているのに気づかないからであり、これ以上耐えられないと無言の抵抗をしてくるからなのです。

 

そんな状態から抜け出すためには、今の自分が忘れている、押さえつけてしまった自分の欲求を外に出られるようにしなければなりません。

 

本当に望んでいるのは、自由になりたい自分を解放することにあるからです。

 

ところで、無理を重ねてしまうと、外に向けていい顔をしながらも、時おり見せる一貫しない態度にほかの人は気づき始めるかも知れません。

 

いつもにこやかだった人が時々覗かせる不自然な行動に、不審に思いだす人が出てくるでしょう。

 

ですが、そんな無理をしすぎて他の人のことを考える余裕がなくなった人を、自分のことしか考えない自分勝手な人というように、道徳的な目で決めつけるのは早計です。

 

その人は、自分を守ることに手一杯で、他の人のことを考える余裕がない状態なのです。

 

その人が関心があるのは、まわりの期待(実は自分で作り上げてしまった期待なのですが)に答えることです。

 

ですから、それが必要だと言い聞かせて、期待に応えるように他人の手助けもするのですが、自分のことをうまく制御できなくなっているので、なかなか一貫して続けることができなくなってきます。

 

他の人から見た場合、一貫しない態度を不思議に思い、このあいだはあんなに親切にしてくれたのに、今度は冷たくあしらわれた、どういう人だかよくわからないという印象を持たれてしまうかもしれません。

 

 

そこまで自分が無理を重ねてしまったことに気がついたら、なんとか押さえつける一方だった自分を解放することを目指すべきです。

 

それには、いままでの関心の向け方を変えることが必要です。

 

いままでどうすればよく思われるか、どうすればまわりが喜んだり、自分に関心を示してくれるかばかりに注意を向けていました。

 

寛大であることがいいことだと教えられ、自分の寛大さを証明しようとして、やりたくもないことばかりやって、不満を感じながらもこれが正しいやり方だと言い聞かせようとしてきたのです。

 

それを一旦ストップして、自分の望みの方に関心を向けるようにしてみましょう。

 

苦しい思いをして相手に合わせるのではなく、自分の要求を表に出してみる練習をするのです。

 

もしかすると、自分の要求を口にだすことが非常に難しく感じるようになっているのに気づくかもしれません。

 

頭では、こんなちょっとしたこと何でもないと思っているのに、実際に誰かに頼もうとすると声にならず、なにか頼まなくてもいい方法を探しだそうとしてみたりするのです。

 

何でこんな簡単なことが頼めないのか不思議に思いながらも、実際にできなくなっている自分がそこにいるのを正直に認めることです。

 

これがまずはバランスを取り戻すための第一歩です。

 

ごまかしていないで、自分には人に頼みたいことがいっぱいあるのを、正直に認めてしまいましょう。

 

そして、人にしてあげることばかりでなく、それとは逆に、人にものを頼むことを増やしていくのです。

 

頼みたいと感じている自分を、理屈をつけて見ないようにしようとしてはいけません。

 

少しずつ気がつくたびに、軽く人に求めることができるようにするのです。

 

こんなことをしてもらっては悪いなどと気にせずに、気楽にものを頼んでみるのです。

 

そうすれば、人は思っている以上に何かを頼まれることに好意的であることを発見するでしょう。

 

そのうち、人に求めることに抵抗を感じなくなってくると、不思議なもので、自分が頼んでばかりいないで、自然に他の人になにかを与えたくなってくると感じ始めます。

 

以前のように、人から認められたいがために、無理して相手に与えるのではなく、そうしたいから思わず行動してしまうようになるのです。

 

無理をしないで、ただそうしたくて、人のために動いている自分を発見するでしょう。

 

今までは人に喜んでもらえるためだと頭では思っても、なんでこんなに苦しい思いをするんだろうとなんとなく感じていました。

 

そしてそんなことを感じてはいけないという自分と葛藤を起こしては、一人相撲をとっていた自分がいたのです。

 

そんな自分から脱却すれば、今度は自然に与えたいと思って与えることができるようになります。

 

求めることと与えること、ギブとテイクのバランスが正常に戻ったということです。

 

もはや、義務感から与えないといけないと苦しむことはなくなってくるでしょう。

 

すぐに疲れて気力が出なくなることも少なくなってくるはずです。

 

そして、今までよりも何でも自分で望んでやっているという実感が、本当の満足感をもたらしてくれるはずです。

 

「今までやってきたのは、何だったんだろう?」といえるようになれば、社会は苦痛を与えるばかりの存在ではないと思えてきます。

 

社会が先にあって、自分が従うのではなく、自分が社会を作り出せる存在であることを目指すようになるのです。


◆自分の判断に不安を感じるのはなぜだろう

誰かに対して自信ありげに見せている自分。

 

しかし、ひとりになってから自分だけと向き合って、それでも自信は揺らぎませんか?

 

ふとしたときに「これでいいのだろうか?」と不安になってくる。

 

これはどこからくるのでしょう?

 

そこで、実際には自分は何を頼っているのかを振り返ってみましょう。

 

◆自分の人生を生きるつもりなら、最後は内側から出てくる指針に従おう。

 

外側の方針に従ったら、どこまでも自分ひとりでは何も出来なくなってしまう。

決断を下す存在が外側にあるのでは、自分で判断するたびにストップがかかるのは当然である。

 

◆自分が自然に選択したことは、いちいち振り返らずに進んでいくもの。

 

正しいかどうか不安になるとしたら、なにかが自然の流れから外れている。

どこかが間違っていると思って他のやり方を考えよう。

 

◆自分でよくわかっていない権威に従うと、いつまで経ってもわからない存在に引きずられることになる。

 

自分で考える権利はいつになっても巡ってこないだろう。

 

◆そうではなく、自分を成長させればもっと視界が広がって自分で判断できるようになることを信じる。

 

いまの自分だけで判断して、自分では決められないと判断したり、誰かに頼ろうとするのはやめておこう。

 

◆社会の常識だからといって人を手助けしようとしないこと。

 

自分が本当に助けたいと思えることに限って、相手に親切にしてあげよう。

相手が自分で判断できるように手助けするのが、一番の親切だと忘れないこと。

またそれは、裏返しで自分も不必要に人に頼ることになるのを防げる。

 

◆「いまは、これなしでは生きられない」というものを作らない。

 

多少の不都合はあっても、依存と引き替えに何かを手に入れようとするのを極力避けたい。

そうしないといつまでも頼るものを作り出す生き方になってしまう。

 

◆弱気になっているのは、まだ外側の手近なものに頼ろうとしているから。

 

頼りにする何かを持つのをやめたら、不安や弱気は消えてしまうもの。

それは意志の力の強さでもないし、強がってみせることでもない。

それらを手放して自分の弱さを認めたときにあらわれてくるもの。

 

◆今の生き方で疲れを感じるとしたら、上記の何かをやっている兆しだと思って見よう。

 

「疲れた」とため息をついたら、何が原因かを探ってみよう。

 

◆自分の内側から来る自信だけが本物だと考える。

 

外側の何かに頼った自信はかんたんに崩れ去る一時的なものでしかない。

 

◆自分に頼って生きるのか、だましだまし何かに頼りながら生きるのか、どちらかはっきりさせよう。

 

いまの自分に自信が持てないという理由で後者を選べば、いつまでも充実感は得られない。

 



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