生き方025:ありのままに見られるとき、自己非難はなくなる001

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★難しい人と接するには

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どのように接していいのか、困ってしまう人というのがあるものです。

 

たとえば敵対的な人たち、こうした人たちは相手が誰であっても攻撃的になるようです。

 

しかしそのような人たちが攻撃を続けるのは、相手に弱さを見つけたときであり、相手がそれに反応してくるときだということを知っておく必要があります。

 

相手は最初はあなたの反応にかかわらず、一方的に攻撃しようとします。

 

しかし誰か特定の人を狙っているのではないので、あなたが自分にそのような原因があるからだと悩むことはありません。

 

またその人は、誰かを攻撃することで満足を得られるわけではなく、どうにもならなくてそのような形で自分を表現するしかなかったのです。

 

 

したがってあなたの方は、相手のいいなりになる必要はありません。

 

攻撃相手であるあなたが自分に弱みがあることを認めて反応すると、相手の狙い通りになってしまいます。

 

しかし、あなたが自分にはそのような攻撃を受けるいわれはないと思って平然としていれば、相手は攻撃目標を見失っておとなしくなります。

 

攻撃する人は、自分が攻撃する側の役割を演じることで相手との関わりを持とうとしていますが、相手が犠牲者の役割を受け入れないでいると手応えを失って、それ以上どうしていいのかわからなくなります。

 

相手が思っている様に反抗してくれば、そこを狙って攻撃しようと待ち構えていたのですが、それをかわされてしまえば、もはやひとりでゲームを演じることは出来なくなるわけです。

 

あなたが攻撃的な人の役割に反応すればするほど、相手のゲームは白熱していき、彼のエゴは増大していきます。

 

ひとしきり相手を攻撃し尽くして疲れ果てるか、相手が降参するまでこれが続きます。

 

しかし攻撃側にとっても、そのあとの状態というのは、またやってしまったという惨めな気持ちを感じて終わってしまうのです。

 

どちらのためにもならないゲームには、例えその時は相手が不満そうでも、こちらは断固として関わらないのがお互いの利益になります。

 

たいていの人は非難され攻撃されてしまうと、何かしら自分に非があるのではという気になってしまうものですが、それが攻撃的な人が誰かれかまわず標的にしようとする理由でもあります。

 

言われのないことには、断固犠牲者にはならないという姿勢を崩さないことです。

 

 

ところで、攻撃側の役割を演じやすい人がいる一方で、犠牲者になろうとする人達もいます。

 

相手の言葉にちょっとでも非難めいたものを感じると、いっきにへこんでいじけてしまうか、相手に傷つけられたことを強調して反撃しようとします。

 

それはまるで、自分が被害者でこんなにひどい目にあったと認めてもらいたがっているかのように見えるのですが、だからといって被害者だと認められても満足するわけではないのです。

 

子ども達が遊んでいる中、A君はこれは自分だけのおもちゃだと主張して仲間から離れてひとりでいじけています。

 

あなたが先生の立場なら、A君をどう扱えばみんなにとっていい関係が取り戻せるでしょうか。

 

A君の主張通り彼専用のおもちゃだと認めて、みんなも仲良くするようにと言ったところで誰も納得しないでしょう。

 

A君にすれば、自分のしたいことはおもちゃを独占することではないはずです。

一時的にはそのような気になったとしても、望んでいることはみんなの仲間に入りたいわけです。

 

しかし、仲間に参加するやり方がわからずに、自分が知っているやり方で自分に注意を集めようとしたかったのでしょう。

 

また周りのなかまは、おもちゃのことよりもA君のやり方にどう接していいのかわからず戸惑っているだけなのではないでしょうか。

 

自分が被害者になっていじけてしまう人を扱うには、相手のいいなりになったとしても何も解決しません。

またそれは相手にとっても、そのようなやり方を助長することを手助けしてしまうので為にはならないはずです。

 

一時的には不満を示しているようでも、本当に望んでいる関係を取り戻せるように手助けするのが正解ではないでしょうか。

 

 

一般に、たとえそれで表面的な交友関係が途絶えたとしても、あなたは本来のあなたのあるがままのやり方を放棄すべきではありません。

 

誰かを自分のもとに留めておこうとか支配しようとかいった理由で、自分のやり方を歪めたり妥協すべきではありません。

 

逆に言えば、まわりの期待に合わせて自分を振る舞わせるなら、その報いを受けることを覚悟しておく必要があります。

 

報いとは、本当のあなた自身がわからなくなることです。

そして期待した反応が得られる間は喜んでいても、まわりの気まぐれで自分の気分が左右されてしまうことに気づき、どうしていいかわからなくなると他人を恨むしかなくなるという悪循環を繰り返すのです。

 

ある程度はまわりに合わせることも必要だというのは、もっともらしく聞こえますが本当にそうかどうかは自分で確かめた方がいいでしょう。

 

押しつけられることを期待してしまうのは、あなたがどこかでゲームを演じたいとまだ思っているからなのです。

 

相手に無理に合わせたあなたは、その見返りを相手に期待するのです。

 

逆に自分のやりたいようにしている人は、他人に期待して何かを恩に着せることもありません。

 

恩着せがましく何かを押しつけてこない人は、あなたにとっても受け入れやすい人でしょう。

また、彼自身もまわりに左右されないし、かといってまわりから孤立するわけでもありません。

 

無理にがまんして従順になることは、あなたが必要だと信じない限り必要なことではないのです。

 



★罪悪感に取り組んで元気を取り戻す

https://www.facebook.com/note.php?note_id=168869493193003

以前のノート「非難感情に取り組めば驚くほど楽になります」では相手のある感情でしたが、今回の罪悪感は自分自身を相手にした苦しいやりとりで、非難感情と同じようにやはり実りのないゲームです。

 

罪悪感というのも、やはり自分でどうにもならない感情として放置しておいていいものではないでしょう。

 

なんとか、その正体を知って自分を痛めつけることは避けたいものです。

 

目の前の現実に対して寛大な見方ができないときというのは、攻撃が自分に向けられてしまいます。

 

柔軟な発想に切り替える余裕がなく、ひとつの思い込みだけを信じてしまう結果、自分をいじめてしまうことになるのです。

 

罪悪感とは自分自身に向けられた怒りの感情です。

 

自分はこうすべきなのにしていない、あるいはやるべきでなかったことをやってしまったということで自分に対して腹を立てているのです。

 

この感情も繰り返すたびに自分の中にため込まれていきます。

 

同じ失敗を繰り返してしまう自分に対して、イライラはどんどんひどくなり、わかっているのにできない自分が腹立たしいのです。

 

今回もまた同じ失敗をしてしまわないかと怖くなり、今度失敗したら自分で自分をひどく傷つけてしまうに違いないと思って不安になっったりします。

 

自分の怒りでありながらどうにも出来ない自分をさらに責めてみたり、自分の無力感を強めてしまいます。

 

また、まわりの人への八つ当たりとして表す人もいるでしょう。

 

否定的な感情のサイクルは、自分を憎む感情に変わったり、心身共に自分を痛めつけるストレスのもとになってしまいます。

 

 

このように罪悪感は何もいい結果をもたらさないものなのに、なぜ人はこのような感情を繰り返して抱いてしまうのでしょうか。

 

それは、自分でその感情の働きに気づかないうちに、自分を非難する感情や反応のセットを心の中で蘇らせているからなのです。

 

自分で重苦しい感情に気づいた時には、何か理由があって自分の失敗を悔いているのだと無理やり納得させているかもしれません。

 

非難感情と同じように慢性的な罪悪感もまったく不要なものです。

 

そのような感情は、起源をたどれば小さい頃に「自分は~することを守るいい子です」と自分に刻み込んだ信念や期待感なのです。

 

大人になってからであれば、強迫的な「~でないといけない」という信念に縛られることはないでしょうが、まだ小さかった自分には親や教師などの指示することは受け入れるしかなかったわけです。

 

もちろん大人になってから、そんな考えはもはや必要ないと切り捨てたものもあるでしょう。

 

しかしその多くは、ぼんやりとした感情や身体反応がセットになった形であなたの心の中に潜んでいます。

 

ちょっとした禁止事項をあなたが破ってしまうと、あなたは意識しないうちに過去の状況を思い起こしその状態に入り込んでしまいます。

 

 

あるいは疲れていたりして気力がないときには、落ち込み気味の気分に誘発されて罪悪感に入り込むかもしれません。

 

意識してやっているわけではないので、気がついたときには、実際に何か後悔するようなことをやってしまったような気分になっているわけです。

 

油断していると、天候や部屋の明るさなどにまで影響されてしまいます。

 

「自分は~することを守るいい子です」という決まりから、~できなかったあなたは悪い人間で、罰せられるべきだというのが罪悪感を呼び起こす図式です。

 

もちろん悪いことをしたと感じる場合でも、そのやったことがあなたや他人を傷つけるような行為であったとしたら、それに対して何も感じないというのは、これまた困ったことになります。

 

しかしそのような反応は、現在起きた出来事に対する正常な反応であり、ここでいう罪悪感とは別のものです。

 

ところで罪悪感というのは、単純に決まりを破って悪いことをしてしまった後悔だけでなく、それを変形させた他のゲームをやっている可能性があります。

 

「自分は~することを守るいい子です」という決まりは、もし私が「~することを守らなかったら」罪悪感を感じるべきだというパターンを作るでしょう。

 

そして実際の罰ではなく、罪悪感を感じるという代償を払うことで、自分は決まりを守ろうという気はあるのだと言い訳できるのです。

 

真っ向から自分の中に染みついた遵守しなければならない決まりを破ることはしませんが、ときにやり損ねておいてから罪悪感を感じることで「まだ決まりを忘れてはいないぞ」と開き直ります。

※その当時の交流(たとえ否定的なものでも)を思い起こすことで、今のなにも起こらない状態を抜け出したいのです。

 

こういう逃げ道を覚えてしまえば、決まりを守ろうとする正しい自分を維持しながらも、時としてそれが出来ないダメな自分を演じ、その後で罪悪感を使うというゲームを作り上げてしまいます。

 

いきなり自分自身を極端に罰してしまわないためには、罪悪感を小出しにすることは必要悪のような存在にもなりますが、やはりそのようなやり方はあなたに本当の満足感をもたらしません。

 

 

それでは罪悪感を解決するために、2つの対策を取り上げてみましょう。

 

◆1つは、罪悪感をゲームに使うやり方をやめて、自分は時には決まりを守れないことがあることを認めることです。

 

非難感情のところで出てきた「そうでないこともある」という言葉をつけてみるテクニックを思い出して下さい。

 

非難感情の場合は、相手がいつも期待通りではないことを思い出すために使いましたが、同じように自分自身もいつもいつも正しいわけではないと認めるためにこれを使って見るのです。

 

私はいつもは~を守っていますが、時として「そうでないこともある」と認めて開き直ってしまうのです。

 

そしていつもなら罪悪感に入り込んでいる習慣を阻止して、正直に失敗を認めることです。

 

ハッキリと失敗を認める方が、ズルズルと失敗を繰り返す習慣を打ち切ることが出来るのです。

 

◆もう一つは、自分が罪悪感からいやな気分に入り込んでいることに気づいたら、「いまここ」に意識を集中し直してみます。

 

いま現在進行している出来事にだけ意識を向けて、何となく感じるいやな気分は現在のものではないことを確認します。

 

もし何かの失敗をしたのなら、いまここで出来ることをすべてやってしまいましょう。

それが終わったら、もうそのことは完結したのだと宣言することです。

 

そして、いま目の前のことに意識を集中させます。

次に何をしようとしているか、目の前にある物をよく観察してみましょう。

 

ぼんやりとした罪悪感には耳を貸さないことです。

そうすれば、今と関係ない物は徐々に姿を消していきます。

 

いまここに関わっている自分だけが実在するのだとハッキリ意識するのです。

 

最初からスパッと切り捨てることは出来ないかもしれませんが、フリ戻されそうになったらすぐに「いまここ」へ意識を戻すようにして下さい。

 

その他以下の様なこともピンと来るようなら試してみて下さい。

 

◆身体を動かす作業を始めてみましょう。

 

身体を動かしながらだと、いやな気分にいつまでも浸ってはいられなくなります。

いやな気分に浸ってしまう時間を強制的に減らしてしまうことです。

 

罪悪感を感じていない時間もまた、自分にとってのリアルな現実である感触をとりもどします。

 

◆しつこい罪悪感には、全面降伏してしまいましょう。

 

「私がすべて悪かったごめんなさい、罰が必要なら与えてください」と開き直って宣言すればいいのです。

 

「部分的には私は間違っていなかった」というような逃げ口上は逆効果です。

そういうやり方が、今までの習慣に引き戻していたのだと認識することです。

 

◆あなたは「正しい」人になりたいですか?それも何を犠牲にしてでも?

 

この問いかけは、あなたの本当に求めているのが何かを思い出させてくれるでしょう。

 

「正しさ」など一定の条件の下にだけ成り立つ決まりに過ぎません。

いまは「正しさ」を守るべき時なのか、そうでないのかを見極めましょう。

 

正しいことが、あなたになにをもたらしてくれるのか、また逆になにを縛り付けているのか、曖昧にしないで振り返って見ることです。




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