欲しがっている自分に気がついたら、「いい加減」という言葉を思い出してみる。
本当は「いつもいつも求め続けることから解放されたい!」と叫んでいる自分がいるのです。
「もっともっと」と欲しがる我にまかせていれば、成り行きとして、他人よりも多く強くなることを目指すようになってしまうのです。
自然界においても競争とみられることはあるでしょう。
しかし「いい加減」を超えてまで争うことをエスカレートさせるのは、おそらく人間だけでしょう。
人間の争いは、どこかで限度を超えてしまって何が目的だったかももはやわからない、競争のための競争になってしまうのです。
◆どちらを選ぶか迷うとき
『選択とはすなわちこれ取捨の義なり』 法然
私たちは、どちらにしようかと迷う時、どちらが得かという点ばかりに目がいってしまいがちではないでしょうか。
こっちはこの部分が優れているが、あっちは別の捨てがたい特色を持っている。
どちらも手放せない。なのに片方を選ばないといけない。
どうすればいいんだろう?
選ぶ方にとらわれていれば、選ばなかった方には未練が残ります。
あとになって、あの時むこうを選んでいればと思い出すと、未練は後悔を生み出すのです。
さきほどの法然の言葉は、「一つのものを選ぶとは、他のものを捨てるという選択なのだ」ということを言っています。
選択する行為は、選ぶだけでなく、むしろ何を手放すかを選ぶことであるというのです。
この観点から見ると、私たちは選択するというときに、後者の何を手放すかという点を忘れてしまうようですね。
「何を手放すか」という視点から考えるのに、以下3つほど注意したい点を挙げてみたいと思います。
ひとつは、それを選んだ場合に、どんなマイナスをもたらすかという面もしっかり見極めるということです。
いいことばかりを探して迷っていた状態から抜け出すために、なんとなく直面するのを避けていたマイナス面に正面から向き合いましょう。
どれほど優秀な面があるとしても、マイナス面を正当に評価してみれば、「そのままそちらを選び続けると困った状態に陥る可能性がある」ということがはっきりわかるかもしれません。
それが避けるべき理由になるとはっきり理解すれば、いまの迷いから一気に違った見え方ができるようになるかもしれません。
2つ目は、「この選択を機に、いままで捨てられずにいたことを思い切って手放そう」と新たな決心するということです。
ものごとには、両方を立てるわけにはいかないことがあります。
どちらも魅力があるから、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしていたわけですが、この機会にその迷いからお別れしようと決心するのです。
手放すというと、なにか失う方ばかりが目立ちますが、何かを手放せばそこには新しいものが入ってくるスペースが生まれるのです。
また、手放せないでいることは、思っているよりもずっと、あなたの負担になっているかもしれません。
失いたくはないけれど、「これを維持することの煩わしさから逃れたい」という気持ちもどこかにあって、ずっとそれを願っていたかもしれないのです。
おもいきって手放せば、こんなにせいせいするのなら早く捨てればよかったと思うかもしれません。
それは、過去においては大切な意味があったのかもしれませんが、いまはもう役目を終えて退いてもらうのがいいものになっていたのでしょう。
何かを手放すという選択は、時には何を取り入れるかというよりも重要な選択にもなるのです。
最後に3つ目ですが、何かを選択するときには、かならずそれを選んだ時の自己イメージを思い描いています。
こちらを選べばこんなイメージ、あちらを選べばこんなイメージというように、ここでも新しく取り入れたことからばかりイメージする傾向があります。
今回は、そうではなく、手放したらどうなるかという観点からも自分をイメージしてみましょう。
うまくフィットすれば、手放したときの自分をイメージしただけで、「これだ!」と迷いが断ち切れるかもしれません。
いまの状態に満足できないために、あれこれ新しいものを探し求めていたのですが、実はいままで抱え込んでいた何かを手放すことが本当の望みだったということもあるわけです。
このように「捨てる」「手放す」という選択は、何かを取り込むことよりもずっと積極的な行為にもなりうるのです。
そして、手放してできた空間には、いままで想像もしなかった新しいものが、入ってくれるかもしれないのです。
『選択とはすなわちこれ取捨の義なり』
もう一度考えてみたいものです。
◆いい加減を知るということ
智恵とは
いゝ加減を
知る
ことです
いゝ加減
とは
争わぬ
ことです
Wisdom is to understand
moderation;
moderation is to prevent
from fighting.
羅漢さんの絵説法〈2〉般若心経―空即是色 花ざかり
著者: 荒 了寛 里文出版 / 2001-05
「智恵とはいい加減を知ること」
「いい加減」とは、これでもう十分だと見極められること。
実は、私たちはもともと必要なことを必要なだけ手に入れたら、これで十分だと感じてそれ以上ほしがらないものではないでしょうか。
しかし、いろんな経験から知識を刷り込まれて、いつのまにか「もっともっと」と手に入るだけ手に入れようと考えるようになってしまいます。
蓄えておけば、いざという時に困らないという発想から来るのかもしれません。
しかし、最初はそうであっても、気がつくと果てしなく求め続けるようになってしまう。
それは時間の問題のようです。
「もっと」という言葉はいくらでも繰り返して使えますが、このような言葉や思考が持つ性質は、自然を離れて人間の思考の対象を果てしないものにしてしまうのです。
本当はどこかで「もうこんなにいっぱい欲しくない」と思う自分がいるのだと感じていませんか?
しかしその一方で「もっと」手に入れろと主張する「我」が存在するのです。
仏教的には「諸法無我」というように我は実際には存在しない仮のものと捉えます。
我の主張する要求に騙されない様に、「いい加減」の限度を超えないことが智恵なのです。
「いい加減とは争わぬこと」
争うというのは、その本質は「私の方が上である」と主張したがることでしょう。
「もっともっと」と欲しがる我にまかせていれば、成り行きとして、他人よりも多く強くなることを目指すようになってしまうのです。
自然界においても競争とみられることはあるでしょう。
しかし「いい加減」を超えてまで争うことをエスカレートさせるのは、おそらく人間だけでしょう。
人間の争いは、どこかで限度を超えてしまって何が目的だったかももはやわからない、競争のための競争になってしまうのです。
ややもすると「いい加減」を忘れてしまう私たちですが、それを思い出させてくれるのが「智恵」というものです。
欲しがっている自分に気がついたら、「いい加減」という言葉を思い出してみる。
本当は「いつもいつも求め続けることから解放されたい!」と叫んでいる自分がいるのです。
このことに気がついて欲しがる自分を放り出してみるのです。
そうすれば、ほっとする自分がそこにいたことを思い出すのではないですか?
世の中は
難儀が
あるので
有難い
We are thankful for the difficulties in our lives.
能除一切苦(のうじょいっさいく)
能く一切の苦を除き、
羅漢さんの絵説法〈2〉般若心経―空即是色 花ざかり
著者: 荒 了寛 里文出版 / 2001-05
「有難い」とは「有ることが難しい」、「有ることがまれ」だからこそ感謝の念を抱くという意味ですね。
世の中が難儀に満ちていることは、だからこそ、その中から「有難い」ことを見つけ出すこともできるわけです。
もし世の中が「有易い」ことばかりで出来ていたら、そんな中から「有難い」ことを見つけ出すのは難しくなります。
同じことを経験しても、「こんなことは当たり前にそこら中にあることだ」と思っていたのでは、ちっとも有難いとは感じられませんね。
たとえば、24時間営業のコンビニ、今は当たり前のようにどこでも存在しますが、そんなものがなかった時代ではどうだったでしょう。
夜になってから、必要なものが足りないことに気がついても、「もうお店は閉まっているから明日買いに行くしかないわね。」というのが常識でした。
あるいは、昼間であっても今日は日曜日だからお休み、月曜日まで辛抱するしかないわねといったこともあるでしょう。
次の日になってから、ようやく欲しいものが手に入った時の「有り難さ」は、今の時代とは比較にならないものがあったわけです。
しかし、いったんコンビニが当たり前の時代になってしまえば、世の中の難儀がその分少なくなったわけですが、すぐにその状態にも慣れてしまいます。
コンビニ時代に「有難い」ことを探すとしたら、たとえば今まで15分歩いていたところを、もっと近くにコンビニができたので、これは「有難い」と感じるのです。
さらには、サービスの内容でしょうか。
コンビニAで新商品がスタートしたと知りますが、「家の近くにはコンビニBしかないなあ、コンビニAができてくれれば有難いのだけど。」と感じたりします。
しかし便利になればなるほど、ありがたさの基準はレベルアップしてしまい、それまでありがたかったことは、大したことではなくなってしまうわけです。
これは、一概に喜ぶことばかりではないと感じ取ります。
この教訓は、欲望にはキリがないという話にも取れますが、「有ることが難しい」から「有難い」という意味を考えて見れば、その本質は「相対性」ということにあると考えるべきでしょう。
仏教では「縁起」という考え方がありますが、私たちの存在は自分だけ独立してあるのではなく、その周りの環境に「依って立つ」ことを忘れてはなりません。
わたしが「有難い」と感じるのは、わたし個人の存在が単独で感じているのではなくて、
周りのものごと、周りの人々に依存して成り立つわけであり、
さらに言えば、この国、この時代の社会で、たまたま生きていることもその要因になっているのです。
「そのような様々な要因(縁)があってこそ、今の自分も存在している」
このことを思い起こせば、今のわたしがありがたいと感じたり、苦しいと感じたりすることも、すべて相対的なものであることに気がつくでしょう。
いまのわたしが「ありがたい」と感じているのは、思いもしなかった「難儀」があってこそ、それを成り立たせているのかもしれません。
あなたは「この厄介ごとさえなければ、もっと幸せだったのに」と自分の不運を嘆いているかも知れません。
しかし、自分の環境、成り立ちを振り返るならば、「そのことがなければいまの喜びは存在しなかっただろう」という方向からも見てみるのが公平というものでしょう。
今の自分から見ていれば「いいことばかり起きてくれれば、もっと幸せなのに」と思ったりするかもしれませんが、その状態になればなったで、それなりのあたらしい「難儀」も登場することも忘れてはなりません。
むしろ今の自分を成り立たせている「縁起」を振り返ってみれば、この一見嫌な要因があってこそ、いまの自分が成り立っているのだと発見するかもしれません。
たとえば、その困難を経験してこそ獲得できたあなたの能力、他の人は羨むかもしれませんが、あなたは嫌な思いをして強制的に経験させられたのです。
それは二度と起きてほしくないという経験だったのかもしれません。
歓迎する気には到底なりません。
とても自分からは望まない経験だった。
しかし、あなたのいまの能力をもたらしたのは、その経験があればこそでした。
それがあったおかげで今の自分がある。
そう思えば、その「難儀」も必要なもの、かけがえのないものだったのだ。
そのようにも思えてきませんか。
単に嫌な経験、起きてほしくなかった出来事とみて排除しようとするのは、いまの自分も否定してしまうことになります。
いまの自分を創り上げてくれた、貴重な経験だったのだとみてみれば、むしろ歓迎するべきことだったのかもしれません。
世の中は
難儀が
あるので
有難い
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自己の心理008:いい加減を考えてみよう!001
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