生き方006:こうあらねばならないなんて馬鹿げている001


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2012-09-15_180320


◆こうあらねばならないなんて馬鹿げている

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「雨の日は嫌いだよ」

「何にも出来やしない..」

「だけど考えてみると、こんなにいい天気になったとしても、やっぱりやることなんて何もないんだなあ。」

 

 

最初のセリフからは、「雨だから」という理由でなにもしない自分を、つい説明せずにはいられない気持ちが感じ取れます。

 

このような自分の状態を説明したくなる気持ちは、どこから来るのでしょうか。

 

「自分にはやるべきことがある。」

「私は何もやることがないような人間ではないはずだ。」

「雨でさえなければ、バリバリやることがあるんだよ。」

 

こんな言い訳を考えながら、自分にはやるべきことがあると言い聞かせたいのです。

 

じつは、やることなど何も無いと認めたくない、そんな現実に直面したくないと思っているのかもしれません。

 

そのあたりの事情は、人によって変わってくるでしょうが、どこかで「やるべき事を持っている」ことを自分の存在価値と結びつけて考えているのではないでしょうか。

 

それはいつのまにか、本来の目的を離れて一人歩きするようになり、人はやるべきことを持っているものだと考えるようになります。

 

しかし最後のセリフでは、スヌーピーは正直に「何もやることなどない」ことを認めています。

 

そんなスヌーピーを、どこか羨ましいと感じながら、しかし犬と違って、人間である私にはそんなことは許されないんだよといいきかせるのです。

 

しかし、実はそう決めてしまわないかぎり、やるべきことがあるはずと考える根拠は実は何も無いのです。

 

もっともらしく聞こえる説明も、そのように考えたほうがなにかメリットがあるという程度のものなのです。

 

ですから、自分にはやるべきことが思い浮かばないからといって、何も悩む必要はありません。

 

正直に考えるなら、そんなものはもともとないのだと知っているのですから。

 

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「私もスティックホース(馬の頭がついたおもちゃ)がほしいなあ。」

 

「みんな持ってるのに、ないのは私だけよ」

 

そこへ、スヌーピーがスティックホースにまたがって通りすぎます。

「ええ!ほんとに誰でも持ってるじゃない!!!」

 

最初は、「あればいいかもしれないな」で始まるのですが、みんなが持っているのを次々見せられたり、あるいはテレビのCMで毎日のように訴えかけられると、「これは自分にも必要だよ、持ってないと取り残されてしまう」と不安になってくるのです。

 

私たちが、「これはぜひとも必要な物」と言い出す根拠も、案外このようなところから発生してくるものがほとんどでしょう。

 

人の真似ばかりするものじゃない、自分は絶対に持たないと言いはるのもまた、気になっていることへの裏返しです。

 

別にまわりに影響されて自分も欲しくなったとしても、それは自然なことです。

 

今までも、まわりを真似ていくことで、生きるのに必要なことを身につけてきたのですから。

 

問題なのは、その後に必要以上にこだわりを持ってしまうことです。

 

「持っていればいいことがある」と認めたとしても、それがないと許せないとか、生きていけないと言い出すと問題になってくるのです。

 

あったほうがいいけれど、自分は持っていないものはそこらじゅうにあるのです。

 

こだわり始めて欲しくなったものにしても、それは同じことのはずなのですが、その時は夢中になって冷静な判断がつかなくなっているのです。

 

手に入れたとしても、いずれ飽きてくればその他のものと同様になってしまうのですけどね。

 

それはともかく、このような働きは「あるべき人生のモデル」についてもあてはまるのではないでしょうか。

 

みんなが、「こう生きるべきだ」と言っているのを聞き続ければ、そこからはみ出してまで自分なりに判断するのは難しくなってきます。

 

しかし、そのような信念も、それほど根拠があるものばかりでないことや、人が思いつくことなど所詮限界があることを知っておけば、熱狂的にその考えにのめり込むことはありません。

 

今の自分にとっての現実が重要なのであって、あるべきことのために生きているのではないことを思い出すことです。

100万人がそうだと言っても、自分の直感が拒否するなら、密かに信じるのをやめておけばいいのです。

 

人生はこうあるべきだと考えるのはやめて、

人生をありのままに受け入れてみよう。

こんな人生でいいはずがないと

思えば思うほど不幸になる。

現実をありのままに受け入れれば、

人生はこうあるべきだという思いこみから解放される。

 

コメディアンのレニー・ブルースはこう言った。

「あるがままでいい。

こうあらねばならないなんて馬鹿げている」

 

 

今日が楽しくなる魔法の言葉 (32ページ)

著者: アーニー・J・ゼリンスキー ダイヤモンド社 / 2003-09-20



◆賢者の答えは「どちらも正しい」

どちらが正しいといがみ合っているふたりが賢人に聞いて決着をつけようとします。

 

賢人はそれに対してどのように答えたでしょう。

 

こんな話です。

 

ふたりの男が表で何かについて言い争っています。

 

賢人は家の中でその言い争いを聞いていたのですが、そのうちふたりのうちのひとりが怒って立ち去ってしまったようです。

 

残ったひとりは、怒りが治まらない様子でしたが、やがて賢人の家に気づいて訪ねてきます。

 

賢人に「今の争いを聞かれましたね、どちらが正しかったか教えて下さい」と言います。

 

「わたしは、きちんとあの男に理由を説明して見せたのです。

 

どう考えても、私の考えには間違いはありませんが、あの男はわかろうともせずに、自分の非を認めないのです。」

 

 

この「私の考えには間違いはありません」とか「わかろうともせずに、自分の非を認めないのです」という言い回し、口論が起きたときに必ず出てくる典型的な言い方ですね。

 

この言い方が登場してくると解決は難しくなってしまうのですが、それはともかく、話を続けましょう。

 

賢人は、男に「それはあなたが正しい」と言い切ります。

 

男は、理解されたことに喜んで帰って行きました。

 

しばらくすると、今度は先に帰ってしまった方の男がやってきて、同じことを賢人に尋ねます。

 

自分の立場がいかに理にかなっているか、相手がいかに理解がないかを訴えるのです。

 

それを聞いた賢人は、こちらも同じように「それはあなたが正しい」と言い切ります。

 

男は、理解されたことに喜んで帰って行きました。

 

さて、一体どういうことなのでしょうか?

 

「どちらも正しいなどということはない」と思われるでしょうか。

 

たしかに、これが裁判の場であったら、大岡裁きでもなければどちらも正しいでは済まないのかもしれません。

 

ですから「どちらも正しいなどということはない」と言う考えも、また正しいのです。

 

「正しさ」というのは、どういう観点から見るかで変わってしまうものです。

 

ふたりの男の、それぞれの立場から見れば、それぞれが正しいのです。

 

そもそも違う立場から主張し合うから争いになるのであって、どちらが正しいかを判断した所で、お互いの考えが変わることは望めないのが、こういった口論の典型的な結末だと言えるでしょう。

 

そこでは、どんなに理論的に正しさを主張し合った所で、お互いが自分の主張を収めると言うことはほとんど望めないのです。

 

それは、私たちが一度「私の正しさ」を言い出すと、それはもはや客観的な正しさだけではなくなり、私の自我を守らなければならないものに変化してしまうからです。

 

ですから、両者とも相手の主張を冷静に聞ける自分を持っていたとしても、そのような正しさよりも自分の立場を守ることの方が優先事項になってしまいます。

 

お互いの自我を守るための争いに変化してしまえば、どれだけ客観的な論争をしたとしても、どちらが勝ってもしこりが残ってしまうのです。

 

このような人間性を理解するなら、「話せばわかる」ということが成立する状況かどうかを判断して、ダメだとわかったらすぐに争いを中止するのが賢明だと言うことになりますね。

 

さて賢人は、なぜどちらに対しても、「それはあなたが正しい」と言い切ったのでしょうか。

 

それは、先程述べたように、お互いの立場に立てばどちらも完全に正しいからです。

 

それぞれの相手が話すことを偏見を持たずに聞いてみれば、どちらも彼の立場に立てば正しいことを言っているものです。

 

そして、自分の正しさを守りたいという欲求は、自分の身体を傷つけないように守ろうとするのと同じように必要なことでもあるのです。

 

つまり、このような口論は、やるだけムダであると言う結論になるわけです。

このような状況になってしまえば、正しさの証明は何の解決にも導かないのです。

 

賢者はこの事をふまえた上で、どちらが正しいかと聞かれたから、あなたが正しいと答えたのです。

 

それは、事実をねじ曲げたわけでもないし、自分の考える正しさを抑圧したわけでもありません。

 

口論は何も解決に導かないことを理解して、それぞれの立場の正しさを一歩離れた位置から見ることが出来たからこそ、両者の間違いを指摘するような無駄なことをやめて、「あなたは間違ってはいないよ」と答えるわけです。

 

その口論から離れて、お互いが頭を冷やせば、そこで始めて本当の解決の可能性も見えて来るでしょう。

 

だから、さっさと矛を収めてしまうのが第一なのです。

 

 

自分の意見を冷静に主張できることと、口論の場で自我の主張を収めないこととは、意味が全然違います。

 

ところが、発端は冷静な意見交換であっても、どこで後者の自我のぶつかり合いになるかは、なかなか予測出来ませんし、厳密に言えば区別するのは難しいものでしょう。

 

口論になってしまった後で、自分の方から意見を引っ込めるのはなかなか難しいものです。

 

自分の方が正しいと思い続けながら、自分が引くことは人間性から言ってほとんど不可能に近いのです。

 

しかし、口論しているときの自分がどんな状態になってしまうかを離れて見られるように訓練してみれば、必要なのは「私の正しさ」ではなくて、事態を好転させることにあると割り切ることも出来る様になってきます。

 

またそれが出来る様になれば、ものごとには多様な見方が存在することを認めるのも容易になってきます。

 

自分でも、そのいろいろな観点に自分をおいてみることが出来る様になるからです。

 

そういった意味では、素直であることや、ありのままであることは、決して単純なだけでは出来ないものだと言うことになるかも知れませんね。

 

多様な観点に自分をおいてみるためには、天性の率直さだけではなく、経験を積むことも必要でしょう。

 

「正しさ」や「信念」などという言葉にとらわれていては、このような多様さを受け取る余裕が持てません。

 

「ふところの深さ」を持つには、邪魔なもので場所をふさいでいてはダメだと言うことですね。

 

「徳」という言葉にはなにか説教じみたものを感じがちですが、そうではなく人間性の理解だという観点から見てみるなら、抵抗なく何をすればいいのかも見えて来るものではないでしょうか。

 

誰しもいったん「私の正しさ」を主張し出すと、事実はどこかに置き忘れられてしまうもの、その前にそこから離れて自分を見ることが出来るかどうかがポイントですね。



◆水たまらねば月も宿らず

「朝顔に つるべ取られて もらい水」  千代女

 

ご存じの方も多いこの句を詠んだ千代女(ちよじょ)、こんな逸話があります。

 

 

ある夜に、千代女は井戸から汲んだ水を桶に入れて運んでいました。

桶の中を見ると、きれいに月が水面に映っています。

 

しかし、当然少しでも動くと、水面が揺れて見事な月のかたちは崩れてしまいます。

 

私の心の乱れが、月を崩してしまうのだろうか。ありのままに、崩れないように映せる鏡に私はなれないのだろうか。

 

そんなとき、虫が飛んできて桶の水に飛び込んでしまいます。

月は崩れます。

 

風が吹いてきて水面が揺れます。

月は崩れます。

 

再び思い直して、桶を運びはじめようとしたとき、桶の底が抜けて水はすっかり流れてしまいました。

 

もはや月も消えてしまいました。

せっかく運んだ水もすべて流れてなくなってしまいました。

 

 

千代女はここで悟り、大笑いします。

 

桶の月は消えてなくなった。

水もなくなり桶は空っぽ。

 

しかし、私の心配などと関係なく、月は空を見上げれば存在したのだ。

 

水面の月にとらわれて、私の心のせいで月が左右されるなど馬鹿なことを考えたものだ。

水を溜めなければ、そもそも月も映らなかったというのに。

 

「とにかくにたくみし桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず」

 

☆~⌒☆

 

私たちが、ふだんからよく陥っている悩みというのもこのようなものです。

 

◆月の姿かたちを崩さないようにしたい。

 

私の心が乱れるから、月もきれいなままでいてくれない。

いや写真に撮っておけば、ずっと私のものになるじゃないか。

 

※その時追っかけているのは、水に映った月なんですけど。

 

◆せっかく運んだ水が、全部流れてしまった!

 

なんて世の中は意地悪なんだろう。

もっとしっかりした桶を作ろう。

いや、桶のたがを点検しなかったのがいけなかったのだ。

 

※どのように準備しても、起きるときには起きるのです。

 

☆~⌒☆

 

水面に映る月をうっとり見つめたところまではよかったのです。

 

しかし、この月を「私」のものにしたいと執着心を持ちはじめる。

 

その時点で、月は空の上にあることを忘れてしまいます。

「私の月」は、この目の前の水に映る月なんだと。

 

いつまでも変わらないものなど何もない。

そうわかっていながら、このまま「私の月」を保存しておきたいと思い出すとき、私の悩みが始まります。

 

せっかくここまで水を運んだのに。

桶さえ壊れなければ、今は水を家の中に運べていたのに。

 

なぜ、私に意地悪するんだと思えば、世界は私に敵対するものに見えてきます。

 

しかし、どのように注意深くしていようと、底が抜けることもあるでしょう。

そして、そこで起きたことは、水にとっては自然に重力に従って地面に流れ落ちただけです。

 

「私」がどのように解釈しようと、起こるべきことが起きただけ。

なんで、世界を恨む必要があるのでしょう。

 

すべては「私」がからんでいるから、起きてきた迷いごとにすぎません。

 

月は、私が生まれる前も、いなくなった後も、空の上に存在し続けます。

水は高いところから低いところへ流れます。

水面は「私の心」にかかわらず揺れるときには揺れ、波を立てるのです。

 

「私」の望みと違うことが起きて、「私」のこころがざわついただけなのです。

 

今悩んでいることはなんでしょう?

それは、どんなふうに自然をねじ曲げようとしているのでしょう?




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