★怒りや悲しみは消え去るのでしょうか?
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=329273733819244>
私は怒りっぽい性格をなんとかしたいと思っている人もいるでしょう。
その人は、怒りとの対比で、いつも穏やかな人に憧れるかも知れません。
あるいは私は悲しく沈んでいることが多くていつも陰気に見られる、もっと陽気で明るい性格になりたいと思う人もいるでしょう。
そこでもやはり、悲しみの対極にある明るさ、陽気さに憧れているのです。
そして、自分を変えようとして、自分の理想の状態を増やしていこうと考えます。
その時、そこに時間という概念を登場させて、穏やかでいられる時間を増やしたり、陽気でいられる時間を増やせば、自分の理想像に近づけると考えます。
そうやって時間のトリックに騙されてしまいます。
どういうことかといいますと、「穏やかでいられる時間」と考えたとき、そこにあるのが、「穏やかさ」だけを持った自分が存在する時間を仮定しているのです。
そこには、同時には怒りは存在しないと思っています。
つまり、「穏やかなだけの時間」と「怒りだけの時間」の2つが存在し、「穏やかなだけの時間」の方を増やしていけば、やがて怒りは消えていくだろうというように錯覚するのです。
ですが、実際には、「穏やかなだけの時間」や「怒りだけの時間」など存在しないのです。
それは頭の中で創り上げたモデルに過ぎません。
怒りがあるから、それとの対比で平和なときが存在し、悲しみがあるから、陽気さも存在するのです。
実際には、「怒り」と「穏やかさ」は常に共存します。
別々の時間など存在しないのです。
単に、片方がもう一方よりも目立っている状態があるだけだと考える方が現実的でしょう。
ですから、「穏やかな時間を増やそう」作戦は、失敗に終わります。
そもそものモデルが間違っているからです。
ですが、努力や訓練によって、自分が望む方向に自分を変えるというのは正しいように思えます。
実はそのように思う背景には、学習曲線というモデルがあるのです。
心理学などで学習の効果を表現するのに、「学習曲線」という概念を使います。
例えば、ネズミが迷路を通って入り口から出口までたどり着く時間を測定し、それと訓練の度合い(試行回数など)との関係をグラフに描いたのが学習曲線です。
ご想像の通り、「学習曲線」は右肩上がりになります。
単純な比例関係ではないにしても、努力の度合いが増えれば、成果も向上するという関係がそこに表れます。
一般的な言葉で言えば、頑張れば頑張っただけの成果が現れると言うモデルです。
先ほどの「穏やかな時間を増やそう」作戦もこのモデルをあてはめて考えているわけです。
ですが、なんでも学習曲線型のカーブを描くわけではありません。
つまり、何でもかんでも「頑張れば頑張っただけの成果が現れる」というものではありません。
そもそも、今相手にしている対象が、そのような関係が見込めるものかどうか、その見極めを最初に行うことが肝心なのです。
それを無視して、乱暴に何にでも「頑張れば頑張っただけの成果が現れる」と考えるやり方は要注意なのです。
そのようなモデルで、「怒り」をゼロにしたり、「悲しみ」をゼロに出来た人がはたしているでしょうか?
あるいは、今までにそのような努力をした経験のある方も、少なくないと思います。
しかし、それは失敗に終わったはずです。
あてはめるモデルが間違っているからです。
さて本題に戻って、それでは、「怒り」や「悲しみ」やあるいは、「嫉妬深さ」や「頑固さ」といったやっかいな対象にどのように対処すればいいのでしょうか。
それらは、個別に考える必要はありません。
例えば、「悲しみの時間」と「陽気な時間」のような間違ったモデルを使うのをやめて、それらが同居する自分をありのままに、作為なしに見つめることです。
自分の中の「怒り」の感情を否定せず、また一瞬後には「穏やか」な自分に変化している様子を受動的に見つめることです。
たとえば、いったん怒りだしてしまうと、その後怒りが納まっても、それを引きずって素直に穏やかな自分に戻れなかったりします。
しかし、そのような時には何らかの作為が入り込んでいます。
受動的に、ありのままの自分を観察するとき、そこに他者を意識したりせず素直に変化しつつある自分を感じることができます。
頭で考えた「理想の自分」に近づける様な努力を一切やめて、ありのままの自分にあくまで従うやり方を取ったとき、その時初めて「自分が怒りの虜になってしまう」などの問題や怖れから解放される可能性が生まれるのです。
そこで必要なものは、努力や訓練ではありません。
理想に向かわせようという作為的な働きをやめるという、反努力、ありのままを受動的に見つめる姿勢だけが必要なのです。
押さえつけた穏やかさや、陽気さなど付け焼き刃にしかなりません。
学習曲線のモデルに騙されて、無駄な努力はやめましょう。
またそのような作られた無理なふるまいは、他の人から見て不自然で作為的であることがすぐにわかってしまいます。
一緒にいて疲れる人、窮屈な人になってしまいます。
またそのような訓練をしてあげましょう的な誘いに乗ってはなりません。
努力すれば向上するのなら、だれかに助けてもらう必要などありません。
そして、自分が相手にしているのが、そのようなモデルに当てはまるかどうかを見極めることを忘れてはなりません。
間違った方向での成功は、成功すればするほど、それだけ大きな失敗を意味しているのです。
そして、努力したほど、今までが失敗だったことを認めるのが難しくなるという、やっかいなオマケまでつきまといます。
以上、今回はそれ以上の話は省略して、その方向性ということだけを書いて終わりにします。
★怒りや悲しみは消え去るのでしょうか?#2
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=329792107100740>
前回は「頑張れば頑張っただけ向上する」的な思考に不用意にはまらないこと、自然な自分の感情を素直に見つめることが必要なことなど、大まかな指針をお話ししました。
今回はそれの続きで、もう少し補足的な話をしたいと思います。
ところで「頑張れば頑張っただけ向上する」的な思考は、その親戚みたいなものですが、「頑張れば何事も叶う」という発想に繋がっていくのは成り行きでしょう。
そして、自由の国、誰でもが望みを叶えられる可能性があることをスローガンに建国したのがアメリカという国でした。
「アメリカン・ドリーム」とは「誰でも頑張れば可能性があり、何事でも叶えられる」ということです。
それの裏付けとして、成功哲学というものも生まれてきました。
やがてそれは、その人がどれだけ望むかが成功の目安であるかのように考えられていきます。
そして、大胆な目標を立て、それに一直性に向かうことが、すべての困難を排除してくれる魔法の杖のごとく考える様になります。
この考え方の批判をすることは、ここでの本題ではないので、関係がありそうな点だけを取り上げます。
まず、すべてのことが、このルールで片付くわけではないこと(右肩上がりの成長曲線が該当することは一部に過ぎません)。
それからもうひとつ、この哲学では、今の自分を新しい自分に変えるという色彩が強いという点です。
今の自分が満足出来ないから、目指す自分に変わればいいではないかという発想になるわけです。
ですが、今の自分を捨てられるわけはありません。
また、目指す理想の自分とは、現在自分がそうだと見えている自分への、反動やアンチテーゼのようなものに過ぎないということです。
反動は、もとになるものを超えることはありません。
敵対するものを作ることで、その反対を自分だと認識するようなものだからです。
それに今の状態に不満な自分がひねり出した理想など、今の自分を超えるものではないわけで、たどり着くところはやはり今のままの自分なのです。
この発想をきっぱり捨ててみましょう。
そして、新しい自分を創り上げるのではなく、本来の自分を取り戻すという、見方によっては正反対の方向を考えて見ましょう。
本来の自分は、いまは様々なしがらみで見えなくなっています。
そのまま見えている自分など、ほんの一部だと考えた方がいいでしょう。
社会の一員として、様々な関係の中で成長してくる中で、本来の自分を隠して社会的に望ましい自分を創り上げてきました。
そんなガラクタの中から、自分でも見えなくなっている自分を表に出すことが、実はあなたの本当の望みではないでしょうか。
本当に不満を言っているのは、素直に表に登場できない自分なのです。
先ほどの理想の新しい自分像の中に表れていたのは、きっとこれら虐げられてきた自分への復活の思いが反映していたはずです。
人は全く新しい今の自分に縁のない自分に変わりたいわけではないのです。
本来の自分を取り戻す試みは、まず今までに出てきた、変えたいと思っている自分を手がかりにすればいいでしょう。
その望みを、新しい自分を創り上げるという発想ではなく、そこに表れている表に出たがっている本来の自分を見つける手がかりにするのです。
たとえば、今あなたが、普段沈みがちで暗い自分を、活発で明るい自分に変えたいと望んでいるとしましょう。
この発想は、実は先ほどの新しい自分に変えてしまおうという発想から来るものです。
そしてそこには、暗いより明るい方がいいというような社会的な意味での価値観が含まれているでしょう。
今説明のために、一方の端に悲しみ、反対の端に陽気さを置いた尺度を表す直線を想定してみましょう。
さて、実は、社会的な価値観を含めなければ、悲しみを感じることも必要だし、陽気な自分になれることも必要なのは明らかです。
そして、人はこの直線上を絶えず揺れ動いているものでしょう。
なにかのイベントが発生して、一気にどちらかに大きく移動することもあるでしょう。
ですが、自分で無理やりひきとめない限り、どこか一ヶ所にとどまり続けるのは不自然な状態です。
明るい自分になりたいと思っているあなたは、自分が悲しみの端の方にいつも寄っていると思っているのですが、実際には他の人と同じように絶えず揺れ動いているのです。
そして、たとえとどまることの多い位置が、悲しみ近かったとしても、それは他の人と比較したり、他人からとやかく言われる筋合いのものではなく、その人らしさ、その人の個性のようなものなのです。
ですが、あなたはそれでも今の自分が不満なのです。
そこには何があるのでしょうか。
あなたは、実は過去の出来事での悲しみを、解決しないまま抱えているのではないでしょうか。
あなたは、その悲しみを何とかしようと思って、すぐ近くにまで行くのですが、自分がいざその悲しみそのものになると思うと、反射的に飛び退いてしまうのです。
悲しみと一体になった自分を想像して怖れを作り上げてしまっているのです。
ですから、悲しみの近くに絶えず近づいては、いざとなると離れると言うことを繰り返します。
また、その悲しみを解決していないという思いから、心から陽気になることを禁止しているのです。
あの悲しみを解決するまでは、私は心から楽しんではいけないと、無意識に自分を制限してしまいます。
ですから、充分に悲しむことも出来ず、また心から楽しむことも出来ない状態を繰り返すのです。
そう考えるなら、あなたが行きたい場所は、明るさではなく、置き去りにしてきた悲しみとの対面なのです。
自然な感情というものは、あなたを傷つけたりしないものです。
有害な影響を及ぼす感情とは、作為的に作られ、歪められ、繰り返し強化されたような不自然な感情なのです。
あなたの残したままの感情がどんなものかはわかりませんが、元々の感情は怖がるようなものではなく、それ以上でもそれ以下でもない、そのままの大きさの、あるひとつの悲しい出来事なのでしょう。
それと向き合わずに避けてきたために、いつのまにか巨大で恐い存在に創り上げられてしまったのです。
自然にその悲しみの中に入っていけば、その時は辛い思いを伴うかも知れませんが、いつまでも続くものではありません。
そして自然にその納まるところへ納まったら、それ以上あなたを悩ませることはなくなるでしょう。
あなたはもう解決したのです。
そして、不自然に悲しみの端に近づくことも自然となくなるでしょう。
もはやそんな必要がなくなったからです。
陽気な方に自由に飛んでいくことも出来ます。
もちろん反対に悲しみに沈むことも制限しないで出来るようになるのです。
あなたの望みは、特定の陽気さの位置にとどまることではなかったと気がつくでしょう。
自分の望みは、自由に悲しみと陽気さを行き来できる、本来の自分を取り返すことにあったのだと確信することでしょう。
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