★思った通りにはならないが
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=125494487530504>
思った通りには
ならないが
やった通りには
なる
It does not turn out the way you thought,
but it turns out the way it was done.
以無所得故(いむしょとくこ)
得る所無きを以ての故に。
「了寛」
羅漢さんの絵説法〈2〉般若心経―空即是色 花ざかり
著者: 荒 了寛 里文出版 / 2001-05
自分でこうなろうと思って努力したとしても、なんでも思った通りにはならないものです。
しかし、自分の意図がどうあろうと、日頃自分がやり続けていることは、現実となって現れてきます。
はたして、どちらが価値があり意味があることなのでしょうか。
そして、自分の意図したとおりに何かが達成されるということに、特別な価値を見いだそうとする理由は何なのでしょうか。
以前何かの本で読んだ、ある画家志望の男の話です。
その人は、画家を目指してせっせと自分で絵を描き、それを売りに出します。
しかし、なかなか絵を買ってくれる人は現れません。
何とかしようと考えた男は、自分の絵を引き立てるために立派な額縁に入れてみようと思います。
自分の手で彫刻を施した独自の額縁を作っては、自分の絵を入れて売りに出します。
しばらくして、絵が売れ出しました。
男は努力の甲斐があったと、大変喜びます。
しかし、そのうち男は、画家を目指している自分にとっては、残酷ともいえる事実に気がついてしまいます。
「私の絵を買ってくれた人達は、私の絵を気に入って買ってくれたのではなく、額縁の方が欲しかったんだ。」
一時はその現実に失意のどん底に陥った男でしたが、新しい光明を見いだします。
「私の額縁を気に入ってくれる人達のために、額縁の職人としてやっていこう。」
今までの夢ではなく現実を受け入れた彼は、その後、独自の額縁を作り出す職人として成功するのでした。
この話を、「何でも頑張っていれば努力が実るものだ、諦めるな」という方向に解釈するのも一つではありますが、
ここでは彼の意志と、最後に彼が受け入れようとした現実の関係というものを見直してみたいのです。
思った通りにはならなかったのは、「画家になりたいという彼が自ら抱いた願望や意志」。
やった通りになったのは、「目指したわけではなく、副次的に発揮された額縁や彫刻への才能」。
私たちが、大事にしていきたいのはどちらなのでしょう。
「私はこれをやります」と宣言して、その言葉通りのことを為し遂げることが立派である。
このように考えるのが、今の社会では暗黙裏の常識であるかのようです。
しかし、なぜ意図したことが叶うことだけを、特に価値があるように考えるのでしょうか。
自分でやりたくてやったことだから、その通りになって嬉しいと思うのはたしかにあるでしょう。
しかし、それ以上に自分の意志を叶えることに意義を見いだすのは、社会がそのように期待するからでしょう。
今の社会というものは、個人が自分でやると言ったことに責任を持つことをベースに成り立たせているから、宣言して実行することがより正しいやり方で価値があると見なされるだけなのです。
また、私たちはそのような社会に生きている影響もあるのでしょうが、何もかも自分の意志でやっていると信じようとします。
たまたまそのようにことが運んだだけだとしても、後から振り返れば、大抵は自分がそのように意図していたからそうなったのだと説明をつけることは出来るものです。
また逆に意図しないで達成されたことは、たまたまうまくいったことで、偶然の副次的な成果としか見ようとしなくなりがちです。
さらにこれを押し進めれば、「無理にでも自分の意志で目標を持ち、その通りに達成できる人間が価値があるのだ」と考える方向に圧力をかけられていくのです。
般若心経は、全く違った見方で私たちを諭します。
以無所得故(いむしょとくこ)
得るところなきをもってのゆえに
真理は私たち人間の知力で推し量ったり、具体的なものとしてとらえられるものではありません。
それは、私たち人間の意志やはからいを遙かにこえたところにある知恵なのです。
だから、自分でわからないからと抵抗しないで、わからないが故に、その深い世界に身を委ねるのです。
私たちの意志の力が、その真理の代わりを出来ると思い上がるとき、「思った通りにならない現実」があなたを不幸にします。
意図してやって失敗した場合に自分を責めて、意図しないで手に入れた幸運の方は素直に喜べない、
というのは不幸なことじゃないですか。
自分の意志とその結果に責任を持つという常識に、あまりにもとらわれ過ぎないようにした方がいいでしょう。
自分の意志とは関係なく起きてくる現実の方も、受け入れたり楽しんだりするという余裕も持つことも大事です。
そうすれば、社会的に成功した人にあこがれと共に嫉妬やねたみを感じ、一方でそれと比べた自分を責めてしまうような不幸な循環に陥ることも少なくなるでしょう。
画家にばかりあこがれて、額縁の職人では不満だと思うのが、そのような考えがもたらす結果なのです。
あなたにとっての「彫刻」の腕を見落としたり、価値がないと思って邪険にしてしまっていないでしょうか?
「やった通りに」なっている現実を素直に見て、その価値をもっと見直してみてはいかがでしょうか。
★眼明らかなれば、途に触れて皆宝なり
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=125733767506576>
心暗きときは、すなわち遇(あ)うところ、ことごとく禍(わざわい)なり
眼(まなこ)明らかなれば、途(みち)に触れて皆宝なり
空海「性霊集」
自分のこころが落ち込んでいたり、疑心暗鬼になっていれば、
その人が見る世界は危険がいっぱいの不安だらけの世界になってしまいます。
しかし、その同じ世界、何も変わっていない世界も、自分のこころが清らかで澄んでいれば、
見るもの聞くものがことごとく自分を豊かにしてくれる素材に見えてくるものです。
あなたが他人を疑っているとき、まわりにいる人はあなたを騙そうとする人に満ちあふれているように見えます。
まったく油断のならないのがこの世の中であると感じるのです。
あなたが自分ばかり損をしている、自分ばかりこき使われていると思っているとき、
まわりの人は楽ばかりしている様に見えますから、あなた自身の望むこともどうやってサボるかというずるい考えになってしまいます。
実際は、「自分が手を抜こうと考えているから、まわりの人が同じことをしている様に思える」という順序なのかもしれません。
あなたがうまく人を操ることができれば、利益を上げるのは簡単だと考えていれば、まわりは簡単に騙されそうな人達に見えてきます。
しかし、そんな考えにとりつかれているあなたは、気がつくと詐欺まがいの話に乗って、自分が騙されていることになるのです。
まわりが敵ばかりだと感じている人は、その人を助けようとしている人も拒絶してしまいます。
番犬は見知らぬ人に出会えば吠え立てますが、敵ではないことがわかれば攻撃をやめるのです。
もはや排除しなければならない存在ではなくなるからです。
やたらと吠えようとしている自分に気づくときはないですか。
一方で、あなたが世の中の人を信頼できているとき、いまの現状がうまくいっていなくても、そのうち何とかなるものだと世の中を信じることが出来ます。
あなたが被害妄想に陥っていなければ、他人から批評も自分へのアドバイスと聞き取ることが出来ます。
応援の言葉は何か企んでいるなどと思わずに、素直に賞賛として受け取る事が出来るでしょう。
周りにいる人達は、すべて自分と同じチームの仲間だと信じることができるのです。
そんな濁りのない心の眼でいるとき、たとえつらい出来事に出会っても、自然の流れの中での一つの変化でしかないと受け入れる事も出来るでしょう。
それは、自分の都合のいいように解釈しようというような、小手先のごまかしとは別のものです。
比較することで「自分の方がまだましだ」と考えるような、相対的な解釈でストレスをかわそうとするやりかたでは、同じことが続いたりすればすぐに耐えられなくなってしまいます。
相対的な見方ではなく、絶対的な意味で、嬉しいことを嬉しいと感じ、悲惨なことはそのまま悲惨さを受け取るのが「眼明らかな」見方だと言えるのでしょう。
いまの自分のこころはどのような状態でしょうか?
もし暗さが見え隠れしていると思うのなら、自分の中の明らかな眼を使うことを考えましょう。
自分の世界の見え方を裏返してみれば、その暗さの原因はすぐに見つかるでしょう。
しかしその原因を取り除こうというやり方は、多くの場合効果を生み出しません。
原因となっている自分と同類の自分がいくら考えても、同じ場所から外を眺めていては、抜け出すのは難しいからです。
そのような見方をしている自分を、きっぱりと切り捨てて、自分の「明らかな眼」を使おうと決心することです。
手垢にまみれていない新鮮な視点から、まっさらな世界を見直してみましょう。
あなたのこころが映し出された結果である「禍」と、現実の「禍」は区別しなければなりません。
いつもあなたを恐れさせているのは、現実の「災難」ではなく、あなたの想像が作りだした架空の「災難」なのです。
そうすれば、かつては疑いを知らずに見ていた希望に満ちた世界は、今もそこにそのまま存在していることを発見できるでしょう。
★心得たと思うは、心得ぬなり
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=126921787387774>
心得たと思うは、心得ぬなり。
心得ぬと思うは、心得たるなり。
蓮如
世の中には、ずいぶん確信を持ってものごとを語る人がいますが、「絶対まちがいない」という言葉を多用する人はどうも信じたくなくなってしまいます。
もちろん状況によっては、曖昧な言い方ではなく、確信のある言葉を相手に言ってあげないといけないということもあるでしょうから、一概には言えないと思います。
しかし聞いていて特定の前提を絶対視していると感じたら、どんなに魅力的に聞こえても偏りがあると疑ったほうがいいかもしれません。
そんなに確信を持って言えることは世の中にないはずです。
過去にとらわれ、未来を予測することの出来ない人間にとって、確信を持って信じたいという願いがありますから、信じたいから信じてしまうということがあるわけです。
「心得たと思うは、心得ぬなり。」とは、自分はもうすべてわかったと言い切るような人は、実はわかっていないのだという意味です。
ものごとは深く知れば知るほど、最初に思っていたほど確信をもって断定できるものではないことがわかってきます。
何の分野の専門家でも、やっていくうちにわかることの限界ということが見えてきますから、そのあたりを心得ていて、不用意に断定する言葉は使わないものです。
それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということです。
なまじ聞きかじりの知識を持った人ほど、自分はわかったつもりになって断定的な物言いをしたがるものなのです。
私たちは、自分の詳しく知らないことについては、専門家が言うのだから正しいに違いないと思いがちですが、そこには、せめて専門家には確信を持ってもらいたいという願望が含まれているのかもしれません。
だいたい何かの分野を掘り下げたことがある人なら、わかることには限界があることが見えてくるわけですから、そこから類推して、他の分野であってもいくら専門家でも限界を持っているだろうと想像がつくわけです。
ところで、断定的な言い方をする人は、「心得たと思って心得ていない人」の場合もありますが、職業的な必要性から断定的に言わざるをえない人の2種類が考えられます。
例えば患者を安心させて気力を持たせるために「大丈夫ですよ」といってみせる医者のような立場の人が考えられますね。
あるいは、何かを販売するために「当社の商品なら絶対です」と言い切ってみせないといけない、という立場に置かれた人も考えられます。
断定的な言葉や「約束します」が満載の本は、一見魅力的には見えますが、期待して読んでみると、薄っぺらで結局何も得るところがなかったということもあります。
中途半端な知識を得て、やたらと確信のある言い方を撒き散らす人には注意した方がいいでしょう。
それを見分けるには、相手が何を前提にしているかを見ぬくことです。
その前提を明らかにしていけば、たいていはそんなことを断定できるはずがないことが見えてきます。原子力の安全神話も、実は起こりうることも、起こるはずがないという前提にしていたことがばれてきました。
また「私はいろんな経験をしてきましたから、これは絶対大丈夫です」と言われる場合があります。
その人が実際に経験したと言われたら信じたくなってしまうものですが、その人の経験はあなた自身に全部当てはまるかどうかはわからないのです。
「未来は誰にもわからない」という弱みがありますから、人はそれを保証すると言われると、嘘でもいいから信じたくなるものです。
だからこそ、何かを信じる前に、それを信じるのは根拠があるからなのか、それとも信じたいからなのかを自分に問いかけるべきなのです。
確信がもてない状態を抜け出したくて、何かを信じたいという思いを持ちたいものですが、だからといって断定的な言い回しを簡単に信じてしまうのは注意した方がいいでしょう。
はっきりと騙されたと分かるような詐欺に引っかかることは、もちろん避けたいです。
しかし、その後の人生を苦しくしてしまうような信念、思い込みを植えつけてしまうことの方が、むしろ被害は大きいかもしれません。
すぐに不安を解決してくれると謳うものに飛びつかずに、不安なままの自分と向きあって、自分が本当は何を求めているのかを自分で見つけることが大事なのです。
そして、それが誰であろうと、「何の不安もなしに確信を持てるようなことは、そうそう世の中にはない」のだと知っておいたほうがいいでしょう。
知れば知るほど、絶対的な確信など持てないものであるということがわかってきます。
それと同時に、自分には知らないことがいっぱいある、ということをわからせてくれるものです。
それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということなのでしょう。
※続きはダウンロードしてお楽しみください。
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