人間関係003:まわりに振り回されないために001

私たちはまわりの意見に振り回されていて、ややもするとなにが自分の考えなのかわからなくなり、迷子になった子どものように感じてしまいます。
自分の中心を見失ってしまうと、耐えず不安を感じながら世間の動向に脅えつつ生きていくことになるのです。
問題は自分が誰よりも正しいと思えることでは解決しません。
誰よりも正しいことを望むことは、他の人との比較を作り出し、それがまた別の問題を作り出してしまいます。どこまで行ってもどちらが正しいかという不安がつきまといます。
表面的な正しさにとらわれずに、自分の中心を取り戻さない限り迷子状態から抜け出せません。

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◆まわりに振り回されないために - 5つの問いかけ

私たちはまわりの意見に振り回されていて、ややもするとなにが自分の考えなのかわからなくなり、迷子になった子どものように感じてしまいます。

 

自分の中心を見失ってしまうと、耐えず不安を感じながら世間の動向に脅えつつ生きていくことになるのです。

 

問題は自分が誰よりも正しいと思えることでは解決しません。

 

誰よりも正しいことを望むことは、他の人との比較を作り出し、それがまた別の問題を作り出してしまいます。どこまで行ってもどちらが正しいかという不安がつきまといます。

 

表面的な正しさにとらわれずに、自分の中心を取り戻さない限り迷子状態から抜け出せません。

 

それでは、迷子にならずに本来の自分を取り戻すために、何を気をつければいいのかを考えてみましょう。

 

1.「なぜ私のまわりには、自分をイライラさせる人が登場するのでしょうか?」

 

あなたは「人はこうあるべきだ」という信念を抱えています。

そこであなたのまわりにその基準に反する人を見つけてしまうと、目の前にあなたをいらつかせる人が誕生するわけです。

 

あなたは、あなたの考えとは全く関係なくその人が現れたと信じています。

そこで、よりによって自分の前にそういう人がいることが許せなくなるのです。

 

それは、あなたの基準にまわりが合わせるべきだという無理な思考に基づいていますが、あなたがまずは他の人をあるがままにみて、自分の判断を後に回すなら、不要な苦しさを生み出さなくても済むわけです。

 

あなたの「人はこうあるべきだ」という信念にしたって、しょせんは外から取り入れたものなのですから。

 

2.「こんな大変な世の中でどうやって自分を守ればいいのか?」

 

どうやって守るかではなく、自分の何を守ろうとしているのかを問いかけることです。

 

あなたが「今までのやり方のままで困難を解決できるべきだ」と信じているから、今までのやり方に固執しないといけなくなるのです。

どこかで身につけたやり方が唯一の対策だと信じないことです。

そして決まった対処法で処理するのではなく、本来の自分の臨機応変な対応力を信じることです。

 

あらかじめ解決方法が分かっていないと不安だと思っている限り、毎回不安がつきまといます。

初めて取り組んだときのやり方を思い出しましょう。自信はなくても迷いもなかったはずです。

 

どう動くかが分かっていなくても、今までも何とかしてきたわけですし、これからも解決できると信じることです。

 

3.「どのやり方が正しいのか分からなくなってしまった。」

 

あなたは、外側の解決方法を次から次へと取り入れるために、なにが正解なのか分からなくなってしまいます。

 

一度借り物のガラクタを整理して、自分自身で考えてみる力を取り戻しましょう。

そうしないと簡単な判断をすることまで自信を無くして自分で決められなくなってしまいます。

 

4.「今のやり方でこれからも大丈夫だろうか?」

 

そもそも「あらかじめ方法が分かっていないと不安である」と思い悩むことが必要なことかどうかを考え直してみましょう。

 

新しいことに取り組むときには、わからないまま進むしかありません。

わからないことをわかったフリをしてやり方を固定してしまうから、現実と合わなくて悩んでしまうのです。

 

5.「なぜあの人はあんな行動を取るのだろう?」

 

その人がどう行動するかは、その人が決めることです。

あなたがそれが気にしているのは、なぜなのかを考えることです。

 

たとえば、あなたの気に入らないやり方を取る「あの人」が正しいと、あなたが間違っていることになると思っていないでしょうか。

 

表面的な正しさなど、しょせん相対的なものです。

誰かにあなたの方が正しいと言ってもらえたとしても、一時的な安心でしかありません。

 

あなたの気にする「あの人」の方が本当は正しいのかも知れないと思うから、あなたの自信がぐらついているのです。

 

そんなあてにならない確信を欲しがるのをやめれば疑心暗鬼を断ち切ることが出来ます。

 

 


◆束縛されたくないと言うけれど


ほとんどの人は、自分が他人から束縛されることを厭がっていると思います。

 

しかし本当に束縛を全部嫌っているかと言うと、時には全く自由にしろといわれると戸惑ってしまったり、寂しく感じたりします。

 

どこかで相手に依存している部分があるからです。

 

その意味では「自由にさせろ、束縛するな」というのは、勝手なときだけ使っているとも言えます。

 

別の見方をすると、自分の自由を完全に主張するためには、相手の自由も完全に認めなければなりません。

 

相手には言うとおりにしろと言っておいて、自分だけは自由にしたいというのは、相手が納得しないし、自分でも後ろめたいところがあってうまくいきません。

 

本当に自由にしたいのなら、相手にも完全に自由を認めなければなりません。

 

また、たとえ相手がどのようにあなたを批判しようと、それは相手の自由で、その責任は相手にあるのだから、それに対して自分は何も反論する必要もないと思える覚悟も必要です。

 

これは、権利の問題ととらえる事も出来ますが、実際には権利以前に人間の心理というのは、自分と相手の自由の片方だけを取るということが出来ないもののようです。

 

実は、多くの場合逆をやってまずい結果をまねいていることが多いのですが、これをふまえて、この原理をうまく使うことを考えた方がいいでしょう。

 

たとえば、相手の自由を充分に認められないうちに、自分を束縛するなと主張しても失敗します。

 

先ほど述べたように、相手は納得しないし、おそらく相手の自由を認められないうちは、相手の反論があることを薄々わかっているものだからです。

 

ですから、どこかでこんなことを言ってもダメだろうなと思いながら主張しているのです。

だからといって相手に完全に自由を認めるだけの踏ん切りもついていないのです。

 

これは一種のゲームを演じる関係を作り出します。

 

表面的には「なんで言うとおりにしないんだ」と怒って見せ「だったらこっちも勝手にするからな」と主張しますが、完全に自由に行動することは実際には出来ないのです。

 

場合によっては、それでうまくバランスを取っている場合もありますが、真正なやりとりではないので、曖昧でこじれた関係になってしまう危険もあるわけです。

 

次に、相手からの不当な主張に対しては、そのまま受け取って自分の責任を感じるのではなく、主張するのは相手の自由だがその責任をもつのも相手自身だということをはっきり認識しておくことです。

 

そうしないと、自分を責めてしまいやすい人は、根拠もなく自分が悪いことをしたような気になってしまうからです。

 

なんとなく自分も悪いような気になってしまうと、相変わらず自分の信じることを主張できないので、本当に自分が何をしたいのかが、わからないという悪循環を続けてしまいます。

 

日本の社会は欧米に比べて共依存の傾向が強いと言われます。

 

部分的に相手に期待することを前提に動いているところがあるのですが、余りあてにしすぎては、暗黙のうちに相手と了解しあっていることが崩れてしまえば、関係はこじれてしまいます。

 

そのあたりは、「いいかげんさ」とか「あうんの呼吸」が必要なので、誰に対しても使えるわけではありません。

 

使う相手を間違えて痛い目にあうと、人間全般を嫌いになりかねません。

 

最初のテーマに戻ると、自分の自由を認めたいのなら、同じだけ相手が自由にすることも認めることが必要だと言うことです。

 

自分を振り返って、どこまでその認識があるのかどうか確かめておくことは重要ではないでしょうか。

 

それと、身近な人と、仕事関係の人、通りすがりの人とでは当然関係の仕方も変わってきます。

同じようなことを言われても、受け取り方を切り替える必要があるでしょう。

 

「誰に何を言われようと」と言う表現はありますが、「誰」に言われたかでその影響力は当然違うわけですから、言葉に騙されない方がいいでしょう。

 

自分を知らない人から言われたことをどう考えますか?

 

「よく知らない人からもそう見えているということは、やっぱり自分には問題があるんだ」と受け取る人もいるでしょう。

 

しかし、そういうこともないとは言えませんが、むしろそれを言った人は部分的な類似点から、自分の知っているパターンを思い浮かべたに過ぎないと考える方が当たっていそうです。

 

知らない人に出会ったとき、できるだけ早く相手のことを掴もうとして、自分の知っているパターンで分類しようとするのが普通だからです。

 

むしろ、すぐに自分の責任だと受け取りやすい自分の傾向があるなら、それをよく承知しておくことです。

 

自分を煩わせる人というのは、あなたの内面を教えてくれる人でもあります。

 

すぐに誰が正しいとか、誰の責任かということに意識を向けてしまわないで、自分のこころの動きを確認する機会と受け取れば、イライラしたり罪悪感を感じたりすることもずっと少なくなるはずです。

 

 


◆窮屈な人間関係から抜け出すには

「あの人のやり方は間違っているから何とか変えてあげたい」

 

あなたはこう思って相手のためにアドバイスしたくなるかも知れません。

 

しかしこんな当たり前のように思える考えにも「わな」が潜んでいます。

 

相手があなたが保護すべき人ならば、このような考えは正当なものと言えるでしょう。

たとえば、相手が子どもで毒になるものを口に入れようとしていたら...

 

あなたが相手にやめさせようとするのは当然のことでしょうし、相手の意志だから好きなようにさせようと思う人はまずいないと思います。

 

しかし、いま問題にしているのはそのような関係ではなく、一般的な独立した大人の関係についてです。

 

では問題を作り出しそうなポイントを考えてみましょう。

 

「間違っているから」とか「変えてあげたい」というのは、あなたの意見なのです。

たとえどんなにあなたの意見が正しそうに見えても、相手は自分の選んだことをする権利があります。

 

相手の反応しだいではありますが、2つの問題が発生します。

 

A.あなたの意見とは違う考えを持っている場合。

 

相手にもよりますが、どちらが正しいかをあなたと議論することになる可能性が高いでしょう。

そして、議論が終わっても、お互い自分の方が正しいという確信をより強めて意地になる可能性が高いのです。

 

当然このあとはお互い気分が良くありません。

 

B.相手が自分の意見に自信がない場合。

 

あなたの説得によって、表面的にはあなたの意見に従って行動を変えるかも知れません。

 

しかし、そのあと相手は徐々に問題を感じ始めます。

自信を持って自分の考えを決められなかったことに惨めさや劣等感を抱きます。

そして、相手に従わされたやり方に満足出来なくなってくると、こんな気分になるのは無理に従わせたあなたが原因なのだと思い始めるのです。

このようなタイプに人は、自分の考えを主張せずにいて、後から従わせた相手を責めるというおなじみのパターンを繰り返すのです。

 

実はあなたの方も、自分のやり方にそれほど自信があるわけではないのです。

もしかしたら、相手に指示しなかった方が良かったのではと後悔を始めたり、あなたの考えに威圧的に従わせた自分に嫌気がさしたりするのです。

結局相手を自分に従わせたとしても、本来のあなたはいっこうに満足感を感じられないのです。

 

あまり極端な結果にならないまでも、相手が間違っているから相手を変えようとするやり方は、多くの場合あなたに満足感をもたらすことはないでしょう。

 

 

では、どう考えればお互いが間違わなくて済むのでしょうか。

 

それは、「他人の誤りから自分を守るには、自分の誤りから自由になるしかない」ということです。

 

つまりあなたが巻き込まれる他人とのトラブルは、あなたが抱えている誤りに呼応するものに他ならないのです。

 

あなたが自分を「正しい人間」と見なそうとする誤ったイメージにとらわれていれば、それに反応する相手を引き寄せてしまいます。

 

とはいっても、誰しも自分が「正しい人間」であると信じたいわけですから、自己イメージを壊されることは不快をもたらすショックであり、なかなか認めることが出来ません。

 

それでも自分を解放したいのなら、なぜ自分が特定のイメージにしがみつこうとするのかに気づくのが第一歩であるといえます。

 

実はあなたが本当に望んでいるのは、本来のあなたを自由に表現できることではないですか。

 

相手を自分に従わせることなど、どこかで拾ってきたいい結果をもたらすと思い込んでいる習慣でしかなくて、ちっともあなた自身を満足させるものではないのです。

 

人と関わるうちに、あなたはその関係性の中で自分のイメージを作りあげていきます。

 

「あなた」と「わたし」は独立した存在と言うよりも、「わたし」が作り出した対象が「あなた」であり、それは「わたし」にたいする対照的な関係を持つ存在であるということなのです。

 

「あなた」とは「わたし」の友だちであったり、敵であったり、助けてくれる存在であったり、守るべき存在であったりするのです。

 

そのような関係が作り出したのが、人と関わるときの作られたあなたのイメージなのです。

社会的な「わたし」とは「あなた」とどのように関わる存在であるかを規定したイメージなのです。

 

一見対立する存在に見えますが、じつはあなた自身が自分を好きな部分は、相手の中にあっても好きな部分であり、あなた自身が自分を拒んでいる部分は、それを持つ相手も拒むことになります。

 

ですからもとになっているのは、相手ではなく、あなた自身の持っているもの次第ということなのです。

 

それらが交互に入れ替わることで、お互い引かれ合ったり拒み合ったりする関係なのに、あなたは一方的に相手がその感情を引き起こしているのだと感じるのです。

 

ですから、このような関係を見るとき、どちらが感情の持ち主であるかを決めるのは、ほとんど意味がないことなのです。

 

 

それよりも、自分自身の感じていることを正直に自分でとらえることが、唯一間違いのない拠り所になるのです。

 

社会的な作られた「わたし」を本当の自分だと同一視しなければ、本来の自分とそうでないものを見分けることが出来るようになってきます。

 

本来の自分でないものを自分自身と切り離せば切り離すほど、あなたは他人が仕掛けてくる作られた関係に巻き込まれることがなくなり、自由に離れた所から見ることが出来るようになります。

 

そうなれば目の前の相手が誰でも、あなたは平然と自分自身でいることに恐怖を感じなくなり、本来の自分自身を表現することに後ろめたさを感じなくても良くなるのです。

 

こんなことを言っても大丈夫だろうかと、毎回躊躇したり、言ってしまった後に後悔や罪悪感を感じることがなくなってきます。

 

あなたが自分自身でいてもいいのは、同時に相手もそうであっていいと認めることであり、相手を自分の考えに従わせたいという強迫感からも解放されるわけです。

 

目の前の相手とは、「受け入れるか/拒むか」という二元的な選択をする必要のない存在になってきます。

 

そして見せかけの自己イメージを持たなくなったかどうかは、あなた自身が自分の中で自己矛盾を感じなくなったかどうかを調べれば判断できるでしょう。

 

それは、人に見せかける自己と本来の自己を区別する必要を感じなくなるからです。


・・・・
※文字数の関係で、残り(「個人的に受け取らない/ネットでのやりとり」「嫉妬とはどんな感情でしょうか」)は「まわりに振り回されないために(続き)」をご覧ください


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