生き方019:こころのゆとり/あまりに物な欲しがりぞ001

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★こころのゆとりとは
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=173452006068085>


毎日何時間もパソコンに向かって作業しています。

 

検索エンジンを利用すれば、目的の情報はおもしろいように手に入ります。

必要な情報のみを取り出して、さらに調べていくことも出来ます。

実に効率のいい世の中になったものです。

 

しかし、目的を追求することは、目的に合わないものを容赦なく切り捨てていくことです。

ときどき、そのようなやり方に、余裕のなさを感じて、関係ないことを調べて見たくなります。

 

少し前に、パソコンソフトの講習を行うための講座を受けたことがあります。

有名なソフトを使いこなすやり方を教えるのですが、やはりそこにはそのソフトの検定試験というものがあるわけです。

 

そのような講座を受講する人の中には、当然ながら検定試験を目指すという人が、多く含まれます。

 

検定試験は、そのソフトを使いこなすことが目的に作られていますが、そこでは最短の手順で、一番効率よく使えることが正解になります。

 

試験というものの宿命かも知れませんが、個性的なソフトの使い方など評価されず、ソフトの構造に忠実に従って、最も効率のいい模範的な手順を覚えないといけないのです。

 

「どうして、誰かの考えたメニュー階層に従って使わないといけないんだ!」

わたしは、こんな反発を感じてしまいました。

ソフトの開発をやっていた人間だからの偏見があるのかも知れませんが。

 

しかも、バージョンアップするたびに、気まぐれとでも言いたくなるようなメニューの構成の変更があります。

そのたびに、お金を払って試験を受けて、お金を儲けるそのソフト会社に忠誠を誓わないといけない仕組みなのです。

 

最短の手順で効率よく目的を達成する、もちろんその意義は認めますが、なにか釈然としないものを感じてしまいます。

別にソフトなど、自分のやり方で使いこなせばいいだろうと思ってしまうのですが。

 

おそらく、ここで感じる反発とは、「自分のやり方」に価値がなく「模範解答」が正解というところや、目的へ最短距離が価値があるというところにあるのだと思います。

 

 

徒然草にこんな話があります。

 

こ ういういなか者が賀茂の祭を見るときはみっともないね、「行列がおくれている。くるまでは桟敷にいることはないぞ。」といって、奥の間で食べたり酒を飲み ながら囲碁・双六の遊びにふけり、桟敷には見張りをおいて、「行列がきた。」ときくと、大さわぎで先をあらそって桟敷へ上がり、落ちそうになるまですだれ を押しだして、おしあいへしあい、すべてを見落とすまいと見物し、「ああだ、こうだ。」と批評して、行列が終われば、「またつぎの行列がくるまでおくにい よう。」とひっこんでしまう。

こういう連中は行列そのものだけを見ようとし、その前後の雰囲気をあじわおうとしない。

 

徒然草 第百三十七段より

 

 

兼好は、無粋な人間は、いなか者と見なしていたのは、おもしろいですね。

 

「目的だけをゲットしたい」、少なくとも兼好はこういう風情のなさを嫌ったわけですし、目的の合間にあるものに価値を見いだしていたようです。

 

「目標まで最短距離」を売り文句にしたがる社会ですが、そんな中に生きる私たちも、兼好から見れば目を覆いたくなるような「いなか者」に見えることでしょう。

 

そして、目的の合間に潜む大事なものをなくしてしまいたくないものです。

 

 

最後に口直しに、同じ段から引用してみましょう。

 

す べてのことは、まっさかりよりも、始めと終わりがいいんだね。男女の恋も、その恋がうまくいくことだけがいいのではない。恋がうまくいかないつらさを味わ い、長続きしなかった恋をなげいたり、長い秋をひとりさびしく過ごしたりさ、遠くはなれている恋人を恋しく思ったり、あるいは草がしげり荒れはてた家で、 むかしあった恋人のことを思いだしたりね、そういうことのほうがしみじみといいんですよ。

 

徒然草 第百三十七段より

 

 

「引用」

徒然草・方丈記 (少年少女古典文学館) 嵐山 光三郎 三木 卓 講談社 / 1992-04-09

 



★至道無難(しいどうぶなん)
- 私の悩みの元は?

<https://www.facebook.com/note.php?note_id=174697342610218>

至道無難・・ 至道(しいどう)は無難なり

 

唯嫌揀択・・ 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う

 

纔無憎愛・・ 纔(わずか)に憎愛無くんば

 

洞然明白・・ 洞然として明白(めいばく)

 

一般的に悟りを開くということは、大変な修行を伴い苦修錬行があって容易に得られるものではないと云う受け止め方をされるが、仏祖の大道と云うのは何の難きものではないのだ。

 

唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ。その揀択がいけないのだ。

 

わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう。

 

だが、いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である。

 

今まで妙法といい、如来の真実義は百千万劫に遭い難しなどと云われ、その仏道には深遠な哲理があり、至難な実践がなされなければならないという思い込みがあった。

 

だが、そんな既成の観念を打ち砕き、何にも難しく考えることはいらないよ、悟りに至るのは実は簡単なことなんだよと一蹴してしまう言葉が「至道無難」である。

 

禅語に親しむ より

 

 

ところで江戸時代初期の禅僧であり、至道無難(しどうぶなん)を名乗った人がいました。

 

無難は師である愚堂禅師から「人間本来無一物」の公案を授かります。

 

無難は、この公案に30年間取り組んだ末、47歳の時、無一物を徹底できたと回顧しています。

 

そしてその時に出家するのですが、そこで愚堂から授けられた号が至道無難であったということです。

 

その無難の説いた言葉に次のようなものがあります。

 

凡夫めら あまりに物な欲しがりぞ

我が身さえ我が物ならぬぞよ

殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて

何もなき時 人の師となれ

身の業の尽き果てぬならば何も無し

仮に仏というばかりなり

何もなき心を常に守る人は

身の災いは消えはつるなり

 

至道無難 より

 

 

無難は「無一物」を徹底した、言い換えれば人間にとって悩みの根源が欲であることを見抜いていました。

 

「殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて」でいっているのは、私(エゴ)を無くせということです。

 

私たちは、いつも「私(エゴ)がやったこと」が自分の生きた証しだと思っています。

 

自分の力でやり遂げてこそ生きがいを感じるのだ。

自分の選択こそが、私の存在する意義だと思っています。

 

確かに、結果を振り返った場合には、そのように見えることもあるでしょう。

 

しかし「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源でもあるのです。

 

結果的にあなたが人の役に立てることや、為し遂げたことを振り返るのはいいとしても、行動しているときには「私」がやっているのだと思わない方がいいのです。

 

一度「私(エゴ)がやったこと」とは何かを振り返って見るといいでしょう。

 

私がやったと思っていても、実は周りの人達に支えられて初めて出来ていることに気づいているでしょうか。

 

今日一日を振り返って見て、どれだけ本当に「私の力」でやり遂げたことが見つかるでしょうか。

 

このところ話題は「iPad」ですが、あなたが発売初日に何時間も並んで苦労した末でiPadを手に入れたとします。

 

やっと苦労して私は「iPad」を手に入れたといいます。

これこそ私の行為だと思うのです。

 

しかし「iPad」は、あなたが作ったわけではありません。

またメーカーが「iPad」を作り出すためには、それが生まれるだけの時代の背景が必要でした。

 

そしてあなたが「iPad」を欲しいと思ったこと自体、いろんな情報に影響を受けて思ったことです。

 

このように見たとき、私の意志など、どれほどかかわっているのでしょうか?

 

 

なにも、このような豊かな時代に生きていて、その恩恵にあずかるなということをいっているわけではありません。

 

別に私は禅僧になるつもりはないから関係ないよ、と思わずに考えてみて下さい。

 

時代がどうであろうと、やはり「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源なのです。

 

「私」を捨てて、我が身を殺したときに悩みのない世界が開けるということです。

 

あなたは「私」を捨てられた分だけ悩みから解放されるのです。

 

・「私」が結果を左右できると信じていることが、あなたをやきもきさせるのです。

 

・「私」が大事にしているものが、なくしてしまうことへのの恐れを作ります。

 

・「私」の主義を守るために、反対する人間を攻撃したくなるのです。

 

・「私」の会社を悪く言われると腹が立ち、その会社が私を大事にしてくれないことでまた悩むのです。

 

・「私」の意見を批判されるのを恐れ、その一方で意見を主張できない自分を責めるのです。

 

・「私」が嫌われることを恐れて、自分の正直な行動を差し控えます。

ちょっとしたことでもやって大丈夫だろうかと気になるし、やらずじまいに終わったら、それでまた自分を責めたくなるのです。

 

・「私」の思ったことを気軽にやると失敗するのではないかと恐れ、軽くやってのける人をみると人生の辛さを知らないんだと批判して自分を正当化したくなります。

 

・「私」は人に与えているばかりだと思い込み、人から受け取っていることがなかなか見えてきません。

 

・「私」の生き方を変えるのが怖いので、これしかないとしがみつきます。

 

 

もっとも「その煩わしさに生きがいがあるんだ」と仰るなら、それもまた生き方ですし、それはそれで正しいことなのでしょうが。




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