『ちゃんと見ている、あなたがいるから!』「ちゃん見る」シリーズ第3弾 好評シリーズ第3弾は「自分と向き合ってみよう」

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「タオに生きる」やFacebookページで掲載した文章が、電子書籍になりました! 『ちゃんと見ている、あなたがいるから!』

「ちゃん見る」シリーズ 好評のシリーズ第3弾は『自分と向き合ってみよう〜その1』

他人との関係は、実は自分が自分自身とどう付き合っているかを反映したものであるとも言えます。

そのためにも、まずはあなた自身との関係を見直し、それがいかに自分の人間関係に表れているのか確かめてみることです。

自分の周りにいる人には、やけにこういう人が多いな、と思っていたら、実はそれは、自分の自身とのつき合い方が、そのまま外側に現れていたのだと気づくかもしれません。

 Amazon.co.jp: ちゃんと見ている、あなたがいるから! 「ちゃん見る」シリーズ No.003 自分と向き合ってみよう~その1 eBook: 高田佳和, YUKKI: Kindleストア

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『自分と向き合ってみよう〜その1』 本文をのぞいてみましょう。

☆問題は、いい結果が得られることにあるのではありません。 もちろん結果も重要なことには違いありませんが、それよりも重要なのは 「自分の挑戦をあえて実行するか、それともいつものように諦めるか」 という点にあります。

☆変化しないのは、 変化したがらない自分がいて、 どこかでそれに加担してくれる人を探し求めているかもしれない

☆自分を責めていれば、なにか改善の努力をしているように勘違いするかもしれません。 しかし問題点がわかったら、それ以上責めることには何の意味もないこと。 責めて立ち止まっていても、何も変わらない。

☆一歩先に進むのが、許すということ。 そこにとどまって動けなくなるのが罪悪感。

☆自分を責めている人間に、人を褒めることなど出来はしない。 無理に人を褒めようとしているのなら、その前に、自分の中の小さな子どもを抱きしめてあげよう。

☆いまの自分の誇れる所も、多くの後悔を踏み台にして出来上がったものかもしれない。 いま責めている自分も、多くのよかれと思ってした行動がちょっとした行き違いに出会ったに過ぎない。 いまの自分を認めないのは、今までの自分も否定することにつながってしまう。

☆過去の過ちをいつまでも持ち出す人がいたら、かかわらないことです。 できないことを、いつまでも何とかしろと言うのは拷問にすぎない。 自分の解消できない不満を相手にぶつけているにすぎない。

☆誰がなんと言おうと、 いま起こっていることに生きよう。 それしかできないのだから。

☆しかし、見方を変えれば、退屈は他にやりたいことがあると告げている警告だと考えることもできます。 結果がどうなるかわからなくても、「いい加減そこから一歩踏み出そう!」と決心できれば自由が待っています。 それは恐いけれど、どうやっても出来ないと言うものでもないでしょう。

☆もし誰かが、その考えは正しい、やってみれば必ずうまくいくと応援してくれるならそれを実行するだろう、 そう思えるなら、やはり今いったことが当たっているということでしょう。 そういってくれる人が、現れそうにもないのなら、その許可を自分で出すしかないのです。

☆自分への要求が、相手に投射されて相手を責めるのは、本当は要求を出すべき相手が自分であることを隠したいからかもしれません。だから、自分にないものほど、相手にそれを持つべきだと唱えたくなるときがあるのです。

☆ちょっとしたことでも落ち込みを感じるとき、あるべきことを満たせなかった自分を責めている。 それは「あるべきこと」であって「あるがまま」ではない。 「あるべきこと」が、当たり前の自然な真実であると勘違いしているのです。 ☆いまやっていることが、いまできる最善のことだと信じればいい。 実際その通りなのだから。

    

☆それでも、怒りというのはあなたへの訴えです。 痛みや熱さを感じることで、あなたの身体を危険から守るのと同じように、それはあなたへ何かを訴えようとしています。 痛みと同じように、それに耳を傾ける必要があるはずなのです。

☆自分には才能がないと本気で思っているのなら、いつまでもその衝動を引きずっているとは考えにくい。そう思いませんか? あなたに衝動があるのは、自分にもそれをやれるという気持ちが隠れているからこそ、ではないでしょうか。

☆「怒り」は、品のいい友達ではありません。 あなたに親切な態度で情報をくれる友達でもありません。 それでも貴重な「あなた」を、見捨てるわけにいかない「あなた」を律儀に知らせ続けてくれる友達なのです。

☆「いい加減」とは、これでもう十分だと見極められること。 実は、私たちはもともと必要なことを必要なだけ手に入れたら、これで十分だと感じてそれ以上ほしがらないものではないでしょうか。

☆本当はどこかで「もうこんなにいっぱい欲しくない」と思う自分がいるのだと感じていませんか? しかしその一方で「もっと」手に入れろと主張する「我」が存在するのです。

☆「いい加減とは争わぬこと」 争うというのは、その本質は「私の方が上である」と主張したがることでしょう。 「もっともっと」と欲しがる我にまかせていれば、成り行きとして、他人よりも多く強くなることを目指すようになってしまうのです。

☆本当は「いつも、いつも求め続けることから解放されたい!」と叫んでいる自分がいるのです。 このことに気がついて欲しがる自分を放り出してみましょう! そうすると、そこには何がありますか?