人間関係021:私の責任はここまで!001

やるぞ



★自分の責任はどこまでかを見極める
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=345098685570082>

 

人間関係においては、いろんなタイプの組み合わせでドラマが行われます。

 

必ずしも、同じタイプの人がくっつくわけでもないようです。

 

第三者的に見ていると、片方が一方的に相手を責めていて、どうして相手はそれにつきあっているのか不思議に思うことはないでしょうか?

 

しかしそのような関係においては、どちらも自分の弱点をさらけ出さないために防御しているので、一見奇妙に見える関係が成立してしまうのです。

 

パティー:マーシー、あんたは私をあの学校に行くのをとめずに、笑いものにしたのよ!

 

マーシー:私が何か言ってもどうせ聞かなかったでしょう。

 

パティー:あんたの努力がたりないのよ。

 

パティー:ほんとに私をとめる気だったら、とめることもできたのよ。

 

マーシー:本気でとめようとしたら、私のことぶっていたでしょ...

 

パティー:あんた身をかわすこともできたのよ。

 

パティーのように、何を言おうと相手の責任にしてしまうことが反射的になっている人もいるものです。

 

マーシーがどうであるかは、これだけではわかりませんが、彼女の立場の人間が自分の方に責任があると思ってしまうタイプだと、一方的な攻撃に負けて自分が悪いと思い始めてしまうものです。

 

さて、その場合パティーのような人間に出会ったから、かわいそうにマーシーは犠牲になったのだ、と考えればいいのでしょうか?

 

表面的に見ればそう見えますが、パティータイプとマーシータイプが出会うとき、このようなゲームは毎回繰り広げられることになるのです。

 

パティーは表面的には「迫害者」の立場をとる人です。しかしそれは力の強い側が弱い側を迫害するというものとは違います。

 

パティーの方も実際には自分の中にマーシー的なものを抱えています。

そして自分の中のマーシーが痛めつけられるのを防ぐために、自分が先に攻撃に回ることでそれを回避しようとするわけです。

 

そんなとき逆の立場をとりがちなマーシーという存在は、ゲームを仕掛けるのに絶好な相手であるわけです。

 

マーシーの方も、自分の中で「犠牲者」的な自分と「迫害者」的な自分を抱えています。

しかし、パティーとは逆に、まずは「犠牲者」側にまわりがちな適応方法を身につけてきたと言えるでしょう。

 

オフェンスとデフェンスがそろったのでゲームが始まります。

 

ところで「犠牲者」と「迫害者」を括弧付きで書いているのは、心理的な役割だと言うことを示しています。

 

本当に迫害者になりたいわけでも犠牲者になりたいわけでもありませんが、いままでその役割を演じることで自分を守る方法を身につけてきたわけです。

 

そして、この役割は別の要因が生じると簡単に逆転してしまうこともあります。

 

よく「いじめ」の問題で言われることですが、自分がいじめられる立場になりたくないので、自分もいじめる側になってしまうと言うことがあります。

「迫害者」は自分の中に「犠牲者」の役割も抱えているのです。

 

 

本当はもっとストレートに自分の望みを伝えたり、あるいは不満を表明したいのです。

ですが、人生のどこかでそれは効果がないと思い込んでしまった。

実際にそう思うような機会を経験したのです。

 

しかしその多くは幼い子どもの頃に身につける姿勢、態度です。

そして、やってもだめと思い込んでしまったのは、自分が幼くて力がなく、それと比べて大人があまりにも巨大な存在に見えただけかもしれません。

 

どんな理由からにせよ、私達はそういった姿勢、構えを身につけてしまうものです。

 

大事なことは、このようなゲームの関係は、偽物であることを見抜くことです。

本気で迫害者になりたいと思ってもいないし、犠牲者になりたいわけではないのです。

 

さて、それをふまえて、「自分の責任はどこまでかを見極める」と言うテーマを考えたいと思います。

 

特にマーシー側になりがちだと思う人は、容易に自分に責任のないことまで罪悪感を感じてしまいがちです。

それはその結果、自分が「犠牲者」に身を置くことで、本当の自分の気持ちに直面しないでその場を乗り切るやり方を習慣にしてきたからです。

 

もしかしたら、哀れな自分を救ってくれる「救助者」が現れてくれるかもしれないと期待し、「犠牲者」に身を置こうとするのです。

 

ですがゲームを続けている限り、本当の自分の気持ちはわからないままです(少なくとも表面的には)。

それは、いつも満足のいかない形で、終わります。

 

それでも「誰からも無視されるよりはまし」と自分を納得させて、再びゲームの機会を持つような状況に身を置いてしまうのです。

 

自分の本当の気持ちを確認するためには、一つは「自分の責任はどこまでか」を問いかけてみることです。

 

「私は私の感情には責任を持つけれど、あなたの不満はあなた自身が責任を持たないとならない。」という事実をしっかり見極め、そう主張できる自分を持つことです。

 

とくにパティーのような相手に対する場合にです。

パティータイプは簡単に、自分の問題をあなたに押しつけてくるからです。

 

「それは私の問題ではない」とはっきり宣言することです。

それを言うことに、何も罪悪感を感じる必要はないのです。

 

ですが、マーシータイプは、なにかと自分が悪いと罪悪感に入り込みがちです。

うまく罪悪感を呼び覚ますコツをわきまえているのがパティータイプの人間だからです。

 

そして、いったん罪悪感が発動されると、「それは私の問題ではない」と冷静に判断出来る自分がどこかに飛ばされてしまうのです。

 

それでも、どちらのタイプであるにせよ、それは今までに身につけた姿勢や習慣に過ぎないと思って、繰り返し「自分の責任はどこまでかを見極める」ことにチャレンジすることは出来ます。

 

どんな習慣も、新しい習慣に置き換えられるときがきます。

今のままでいいとか思って、不満を抱える関係を続けないことです。

 

たしかにそれは、ある面であなたが絶望に陥るのを守ってくれたやり方だったかもしれません。

ですが、今の自分には他の選択もあるのです。

新しい姿勢があることを認めて、偽物の関係を捨ててしまう方がずっとずっとメリットは大きいのです。

 

『ゲシュタルトの祈り』

 

私は私のために生きる。

あなたはあなたのために生きる。

 

私は何もあなたの期待に応えるために、

この世に生きているわけじゃない。

 

そして、あなたも私の期待に応えるために、

この世にいるわけじゃない。

 

私は私。あなたはあなた。

 

でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。

たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。

 

 

※なおここで「ゲーム」は、交流分析(エリック・バーン)、「迫害者」「犠牲者」「救助者」は交流分析(カープマン)の意味合いで使っています。

 

※引用:「いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント」

エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02

 



★マイナスの影響を与える人
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=351013994978551>
 

 

 

その人と会って話をしたり、ネットなどで文章を読んだとき、なぜだかわからないけれど、いやな気分が残ったり、イライラしてきたりするってことありますね。

 

どこが原因かわからないから、余計に始末が悪いんです。

 

ですが、自分の変化には何か原因があったはずです。

 

相手の言っている言葉は、表面的には直接原因を表すようなものでなかったのですが、巧妙にこちらの心理の何かを引っかけてしまっている可能性があります。

 

たとえば、社会的に望ましいことと自分が思っている基準から、相手の行ったことに反論することを控えてしまう様な場合です。

 

そこで私は言いたいけどやめておこうと我慢する。

ですが相手は巧妙に反論したくなる要素をちりばめているのです。

 

中には、下手に反論すると待ってましたとばかり、その反論の不備を突いてくる。

抑えるのもいやな気分にさせられるけれど、反撃してもやり返されて余計にひどくなる。

 

実はこういった相手は意識的か、習慣になってあまり意識がないかどうかはわかりませんが、結果の計算は出来ているのです。

 

その結果とは、相手の苦しむ顔、悔しがる様子であることが多いのです。

 

話さなければよかったと思う人の多くは、たとえばこのような人ではないでしょうか。

 

・こちらの言ったことに、何かとケチをつけてくる。

・せっかくの達成や気分の良さが台無しになるようなことを思い出させる。

・皮肉を言うことに楽しみを感じているような人。

 

 

皮肉屋さんというのは、自分の言葉で相手の痛いところを突いたと感じられることに快感を感じているように見えます。

 

そしてまた、それは打ち上げ花火のようなもので、相手をぎゃふんと言わせて、その一瞬の快感のためにやっているようなものです。

 

それが終わってしまうと、もう相手にも話題にも関心は無くなってしまいます。

当然、解決や後がどうなるかなど考えてもいません。

 

相手の痛がっている顔を眺めながら、自分は他の獲物を求めて、その場を立ち去っていこうとしているのです。

 

ですから、皮肉屋さんの言った内容は、そんなに考えた上で生まれてきたものではないし、本人もその続きがどうなるかなど考えていないのでしょう。

 

その意味では、皮肉屋さんに対して「あなたならどうすればいいと思いますか?」と聞いてあげましょう。

相手への仕返しではなく、相手のために聞いてあげるのです。

 

おそらくちゃんとした答えは出てこないでしょう。

なぜって、「痛いところを突く」と言うことがゴールであり、問題を解決しようと思って言っているわけではないからです。

 

あなたが一生懸命考えて、努力して積み上げたことは、誰かの一言で台無しになったりはしません。

 

実際にやったことは、実体のない一言などよりも重みがあるし、価値があることは明らかではないですか?

 

相手は自分が優位に立とうとしているのでしょうが、あなたまでそれに付き合って、だめな役に自分をおとしめる必要などないのです。

 

 

優位にあるか劣勢にあるかは見かけだけ。

 

容易に立場は逆転するものだし、そのような優位とか劣勢ということを超えて、対等な位置からものを見ることが出来なければ本当のことは見えてこないものです。

 

そして見かけの優位さなどに気を取られないで、本質を見抜くことを忘れなければ、相手の引っかけに惑わされることはありません。

 

ゲームに引き込むための「引っかけ」が存在していることに気づきましょう。

 

たとえばわざと曖昧な言い方をしていながら、「こんなにはっきり言ってるのにわからないの?」と言って挑発します。

 

誰しも自分に自信のないところがありますから、そういう言い方をされると自分の理解力が不足しているのかなあ、と自信をなくしてしまいます。

 

ですが、ゲームの場合は巧妙に話をぼかしているのであって、あなたの理解力の不足ではないのです。

 

それでも、自信をなくしたあなたは、細かく確認しにくくなるので、自分なりに考えて理解しにくい部分を補って意見を言います。

 

そうなれば、あなたは相手の引っかけにはまってしまったのです。

 

「そんなこと私はひと言も言ってないよ。全くあなたの理解力のなさには困ってしまうね。」みたいなゲームの仕上げをするのです。

 

あなたは、「そんなつもりじゃないのに」と思って悔しい思いをしますが、ますます相手のペースにはまってどんどん不利な状況に追い込まれてしまいます。

 

あなたの弱みは、たとえばあなたの信じている社会的な望ましい人物像にあるのです。

普通の相手ならそれは正しく機能しても、このような相手だと通用しなかったわけです。

 

たとえば、あなたが曖昧な言い方に対して確認を躊躇したこと、それはおそらくあなたの優しさ故なのでしょうが、相手は引っかけるための餌に、まんまとはまってきたぞと思っているのです。

 

罠にはまらないためには、あくまで自分を信じることです。

曖昧でわからないと思ったら、その自分の感覚を信じて、確認しましょう。

もし相手が、きちんと応えないのなら、その人とは話を打ち切ればいいのです。

 

相手はあなたの弱点を見抜く達人だけれど、まともなやりとりに戻ってしまえば、その企みは通用しなくなります。

 

あくまで自分を信じてぶれないことです。

あなたの本当の望んでいることが何かを忘れないこと。

 

あなたの弱点を突かれたのですから、動揺してしまうのは当然なのです。

間違っても、それをあなたの能力や価値のなさと結びつけないことです。

 

一息ついて、ちょっと動揺しただけだと思って、自分を信じる原則に従って仕切り直せばいいのです。

 

このようなゲームにはまってしまえば、それが相手の仕掛けだろうと、自分の仕掛けだろうと、本物の交流にはなりません。

 

自分が被害者だろうと、攻撃する側だろうと、あるいは助けようとしている人であろうと、どれも同じように偽物の関係に過ぎないということです。

 

さて、こういった相手に対しては、今は相手にしたくないと思ったら、相手とは関わらなければいい。

 

それでも、相手をしなければいけないのなら、あくまで自分を信じて自分の弱点に注意しながら接することです。

 

その意味では、自分の弱点を知っておくのは大事です。

 

その弱点は、普段はうまく正しく機能するし、自分でもそれは自分の良さの現れだと思えるようなものである場合が多いのです。

 

ですが、相手によっては、あなたのその原則を守ろうとするこだわりを、逆手に取られてしまうのです。

 

ですから一般に使われる表現で言えば、優しさもいいけど相手によっては厳しさも必要だよということですね。

 

もちろん同じ相手であっても、普通に流せばいいときもあれば、この人がこれを言い出したときは接し方に注意しようと思う必要があるでしょう。

 

◆なんのためにこの人と接しているのかを思い出しましょう。そこから外れてきたら、話を打ち切ることです。そのことを相手に悪いとあなたに思わせるのは、あなたの弱点と相手の引っかけの相互作用なのです。

 

◆ゲームの仕掛けにはまらないこと。また自分の仕掛けやすいゲームにも気づきましょう。

ちなみに相手のゲームとあなたのゲームが対照的で、相補的な(攻撃側といじめられる側のような)場合お互いにゲームを仕掛けることも多いのです。

 

◆あなたの優しさや良い面も、相手によっては引っかけの道具にされてしまうこともあることを知っておくこと。たとえ良さであっても、こだわりすぎずにニュートラルに戻れるようにしておくことです。

 

◆同じ人でもいつでも論理的であるわけではありません。変化に対応するには、頼れるのは自分であり、自分に忠実であるという軸をぶれないようにすることです。

どんな立派な見解であっても、外側に基準を持っていたのでは、簡単に揺れ動いてしまうし、ゲームに入り込んでしまうのです。




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