★あせること、イライラすること
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『何かをあせってやろうとすると、かえって空回りばかりで、いつものようにうまくできない。』
こんな経験、どなたにもあるのではないでしょうか。
こんなとき、あなたはあなたの決めた時間でものごとが起こっていくのを期待していませんか?
しかし、ものごとは、まるでそれに特有のスピードを持っているかのように、あなたの思いなど関係なく起きるべくして起きていきます。
たとえば、あなたがせっかちな人だとします。
そして、あなたの前には時間など気にせずに、自分の決めた手順が変わるのを嫌がってものごとを非常にていねいに行っている人がいます。
あなたは、それをみているとだんだんイライラし始めるのです。
人と人の関係では、せっかちな人もいれば、のんびりした人もいます。
そして、それはわかるけれど、ものごとが自分の決めたスピードで進んでいかないと、あせったりイライラしたりし始めるのです。
ものごとが運んでいくスピードに、特有のスピードがあるものかどうか、それはわかりません。
しかし、単に見る側の心理的なスピードだけで、ものごとが起きていくわけではないでしょう。
それが起きていくには、様々な無数の要員が非常にからまって進んでいくはずです。
ですから、あなたがいくら自分で「○○までに結果が出る」と決めたところで、期待通りに起きてくれるとは限りません。
植物の種をまいて、いっぱい水や肥料をやったんだから早く芽を出せと言っても仕方がありませんね。
またそんなことをするから、あなたはあせったり、イライラしたりするということもありそうです。
別の言い方をすれば、あなたはものごとに対する見方が「荒く」なっているのかも知れません。
落ち着いているときのあなたは、もっと「こまやかに」ものごとを見ていられるのかもしれないのです。
「荒く」見ているから、細かい変化が目に入らない、なんでこんなに変化しないんだということになる。
あなたが、自分で時間をコントロールすることをやめて、ものごとが起きていくスピードに任せて見ていられるなら、必要以上にイライラせずにゆったりと過ごすことができるでしょう。
さらに発想を広げれば、あなたはものごとの結果についても、同じよう「にコントロールしようとしない」という選択もできるわけです。
起きることに逆らわずに、それが起きるのに任せるということです。
「そんな受け身ばかりの生き方などごめんだ」といわれるかもしれません。
ときにはあせったりイライラしたりするのが、逆に楽しみにつながることもあるでしょう。
たとえば、あなたがプロ野球やサッカーの試合を見ながら、ひいきのチームを応援するようなときです。
あなたが、いくら逆立ちしようと、あなた自身がピッチャーやバッターになれるものではありません。
しかし、あなたがどちらが勝とうがかまわないと思うのなら、興奮もしない代わりに応援する楽しみもありません。
それは、もはや応援とは言えないでしょう。
不安とワクワクすることは紙一重です。
コントロールしたいという思いと、イライラすることは、お互いに切り離せない関係にあるのでしょう。
ですから、すべてあきらめようとか、すべてコントロールしようとか、2つに1つで片方だけに決めようとしないことです。
心配しなくても、あなたはイライラから完全に解放されることもないでしょうし、無理をして何事にも無気力になる必要もありません。
ただ、イライラしたり、あせったりすることが、必要以上にあなたにストレスをかけていないかをチェックすることは役に立つでしょう。
ときには、ものごとが起きていくスピードや結果を、そのまま受け止めてみてはいかがでしょう。
それが、いかにあなたにとって重要で差し迫ったことでも、あなたにコントロール出来ない事なら、手を出そうとせずにまかせてみましょう。
「あなたの力」で、おきてくることをコントロールしようとおもうことが、結果に影響を与えるかどうかを冷静に考えてみましょう。
「あなたの力」で、「あなたの意志」で成し遂げたから、だから価値があるというのは、ひとつの考え方でしかありません。
そして、あなたが自分でコントロールして成し遂げたと思っていることも、単に起きるべくして起きているだけかも知れないのです。
「さからうのはやめた!」と思ったときの開放感、あなたにも経験があるのではないでしょうか。
★一緒に雨やどり
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=123885667691386>
一緒に雨やどり
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かたつむりと
かたつむりを見ているこのわたし
かたつむりの気持ちをわたしは知らない
わたしの気持ちをかたつむりは知らない
知らないもの同士だけど
もう、ずっとこうしてそばにいて
一緒に雨やどりをしているよ
違うってことはもっと仲良くなれること
著者: 山元 加津子 樹心社 / 2003-04
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この詩から何を感じ取るかは人さまざまでしょう。
ここでは、「相手の気持ちを知らない」と言う部分について考えて見たいと思います。
かたつむりの気持ちをわたしは知らない
わたしの気持ちをかたつむりは知らない
人間の私と、かたつむりの間ですから、お互いに気持ちがわからないのは別に不思議ではないでしょう。
そもそも、かたつむりは何かを考えたりするだろうかということもあります。
しかし、それならこれが人間同士だったらどうなのでしょうか。
これがたとえば親子で雨宿りしているなら、何か共通の気持ちを持つだろうと思うのでしょうか。
これが恋人同士で雨やどりだったら、また違った共有するものがあるのでしょうか。
しかし、それは本当かどうかはわかりません。
相手の気持ちがわかると言っているのは、そう言っている側の人の考えに過ぎないとも言えるわけです。
どんな関係にある人同士でも、同じものを見て全く同じことを考えると思うのは無理がありそうです。
お互いが、それまでに経験してきたことは、同じではあり得ない。
当然何を思うかも違っているのが当たり前です。
あるいは、そもそも「同じものを見ることが出来るのか」といえば、それすらも疑わしいと言わざるを得ません。
まあ、その点はそれ以上追求しないとしても、
簡単に相手の気持ちを知っているなどと思うよりは、所詮は別の人が考えていることを正確にわかることはできないと考えた方が現実的であり、余計な誤解やトラブルを生み出さないと思うのです。
「その気持ちわかるわ」と言われてうれしく思う一方で、どこか違う解釈をされていると感じ始めて戸惑うこともあるでしょう。
しかし、この詩のかたつむりと私の関係のように、たとえ相手の気持ちがわからなくても、一緒に同じ場所で、同じ時間を経験したということに、何かの意味を感じてしまうのはなぜでしょうか。
第三者が、この詩の情景を思い浮かべたとしたら、何か両者に通じ合うものがあったのではないかと感じてしまう。
それは、先ほどの相手を知っているという独断的な判断ではなく、当事者でないそれを見ている人が感じるものであるわけです。
同じ時間を共にしたということに感じ取るものは、実は「相手を知っている」などという余計な考えが入り込まない方が純粋に感じ取れるという気さえしてきます。
すこし目の前にいる人のことを、頭で理解し自分の側で説明するのをやめてみたら、どんな風に相手が自分の中に飛び込んでくるだろうか?
そんなことを考えてみたのです。
相手を知らなくても感じ取れるものと、理解したつもりの私の考えた相手は別のもの。
相手は「かたつむりだ」くらいに思っている方が、素直に感じ取れる世界がそこにあるのです。
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生き方023:少し自分のペースを外してみようか001
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