人間関係005:傷つく・許す001

人を許すことで得られるもの

※最初の2題は文字数制限で前編をご覧ください。
生きるヒント~人生を変えるコラム集ストレージ : 傷つく・許す

◆傷つけられた!

◆敵意/裏側の構造

※※※※※

◆人を許すことで得られるもの

もしあなたが許せない人がいるのなら、許せないことがいかにあなたを苦しめているかを出来るだけ早く考えて見ることです。

 

恨みを終わらせるには、どろどろした感情を抱えたままでは、いつまで経っても解決しません。

 

許すことは妥協でも退歩でもなく、むしろあなたを解放するためのもの、あなたの利益のためにあると積極的に考えた方がいいでしょう。

 

「恨みを晴らす」とか、「かたきをとる」という言葉があるように、このような行為は日本の文化にも昔から根付くものです。

 

いまでも、悪代官を懲らしめるという時代劇は人気があります。

水戸黄門が印籠を見せる場面や、仕事人の復讐劇、それらの現代版のドラマなども多く作られ人気は依然と強いようです。

 

しかしこのような復讐はドラマだけにして、自分の現実生活には適用するのはやめておきましょう。もちろん心理的な意味においてもです。

 

 

 

理不尽な父親や母親を許せないと思っている人は、問題があるのは父親や母親であって自分の問題であるとは考えません。

 

しかし、実際に問題を抱えているのはその人自身であるのは明らかです。

その人が恨みを手放せばそれは誰のこころにも残らないのです。

 

恨んでいる人自身がどのような問題を抱えているかは、その人固有の問題であって恨んでいる相手の感じていることとは無関係です。

 

しかし、恨んでいる人というのは、自分が恨みを思い浮かべることで相手の人に影響を与えていると錯覚しているかのように見えます。

 

当の本人はあなたの恨みなどまったく知らずに何も気にせず生活を送っている一方で、あなただけが自分の抱え込んだ感情に苦しめられているという構図になっているわけです。

 

いつまでも恨む気持ちを持ち続ければ、被害を受けるのはあなた自身です。

 

それはあなたの身体を痛めつけ、胃潰瘍になったり、不眠症になったり、憂鬱な気持ちやそんな自分自身に対する悪感情を抱くといったことが、すべてあなた自身に返ってくるのです。

 

そしてそのことは、相手には何も直接には影響を与えないのです。

 

 

 

それから人を許せないでいるときに、関係してくる問題として、相手に問題の責任があることにして自分の責任を回避するという心理です。

 

あなたが許せないと思う出来事が起きたときには、相手に何らかの問題があったのかもしれませんが、それをいつまでも抱えるのは自分自身の責任であることを認めるしかありません。

 

いまあなたがどのような感情を持ち続けるかは、相手にはどうしようもないことなのですから。

 

問題の責任を外側に押しつけるとき、あなたはそれに便乗して自分の責任をとることを避けてしまうということまでやってしまいます。

 

つまり「こんなひどい目にあったのだから、何も出来なくても仕方ないだろう!」と言ういいわけを使い出すのです。

 

そんなことを言って自分の責任を果たさない人に対して、まわりの人は最初は同情したとしても、いつまでもそれを免罪符にはしてくれないでしょう。

いくらあなたの最初の状況がひどいものであったとしてもです。

 

それから「人を許す」ことに条件をつけていては完全な解決には至らないものです。

 

「許します」と言っていても「でも忘れないよ」と思っていたのでは、なにか状況が変化すれば、またそれを持ち出すつもりだといっているようなものです。

 

許すなら全面的に手放すしかありません。

 

「私の場合は特別だから」という別のパターンもあります。

 

私のようなひどい目にあった人間は、例外であって恨みを手放せなくても仕方がないという主張です。

他の人の場合は、被害など大したことはないから「許しましょう」などと言えるんだと思っています。

 

しかしどれだけ悲惨な状況だったとしても、それによって許さないことがもたらす被害の例外となるわけではないでしょう。

 

許さないでいつづけることは、その人の選択ですがダメージを受けるのは自分自身であるという原則は変わらないのです。

 

 

恨みを持ちながら、なんとか自分を抑えているというのは、それが積み重なると復讐を実行するという考えにつながる人もいます。

 

このような心理を交流分析では「スタンプを集める」という表現を使っています。

スタンプのシートいっぱいにスタンプを埋めれば景品と交換できることに例えた表現です。

 

恨みの気持ちを少しずつこころの中にため込んでいって、もうこれで充分だと思った時点で復讐の行動を実行することになります。

その結果は、軽い口論から殺人にまで至る悲惨な結果までさまざまです。

 

「人を呪わば穴二つ」(墓穴が二つになる)というのは、あながち誇張した表現ではないのです。

 

 

「許す」という選択が「恨み」に対する唯一の解決となるでしょう。

 

ノーマン・カズンズ(アメリカの著名なジャーナリスト)は不治の病を笑いの力で克服したことで有名です。

 

入院生活でテレビのコメディ番組を見続けるなど、笑いとユーモアで痛みを和らげ、生きる気力で難病を克服して奇跡的な復帰をとげました。

その間の事情を綴った『笑いと治癒力』という本も書いています。

 

彼は難病に対して人まかせにせずに自分でも治療法を選択しながら病気を克服したわけです。

 

そもそも不治の病と診断されて、それでも生きる気力を失わなかったことがすごいところですが、彼が実行して復帰を遂げたという実例が人々に勇気を与えるのです。

 

ここでこの話を持ち出したのは、自分が不治の病気にかかることなど許せないと思い、病気になってしまったことを恨んで、運命を呪っていたとしたらこのような本を書くことはおろか、病気から復帰することもなかったのではないかということです。

 

生への意欲とは、責任の回避や人を恨むような方向とは真逆なことです。

 

病気を恨むことも、人を恨むことも外側の要因のせいで自分は思うように生きられないとする点で、自分の生への意欲を歪めるものということでは同じです。

 

病気を恨む場合は、特定の人を対象にしていないかもしれませんが、人を恨むという場合もそのきっかけは誰の責任とも言えない場合が多いわけです。

 

たとえば親の育て方が悪かったと責任を押しつける人がいますが、最初からベテランの教育者である親などどこにもいないでしょう。

 

限られた知識やまわりの手本を頼りにして、自分の経験の範囲で親としての精一杯のことをして来たわけです。不充分な親だとしてもそれで自分が責任を持たないと言う理由にはならないのです。

 

     

 

 

そもそも人に責任を押しつけることで一体何が得られるでしょうか。

 

誰かを許せないから、仕方なくでたらめなことをしているんだという主張をしたところで、すべての結果を受けとるのは自分自身でしかありません。

 

人を許せない思いで1日のうちのどれだけの時間を使ってしまうでしょう?

今日の恨みは今日のあなたを痛めつけるだけです。

 

恨みを抱いていれば、まずやることは相手のことを思い出し、いかに自分にひどい目にあったかをチェックし直し、さらに相手は罰を受けるべきだと考えます。

 

これらの一連の復讐モードに入ってしまえば、あなたはいまここで起きていることから遊離して別世界に生きているようなものです。

 

相手を罰したいという思いは、巡り巡って自分に返ってきます。

たえず罰を与えようと相手を探していれば、すぐに一番身近な自分の落ち度を責める対象にすることにたどり着きます。

 

それから今を離れて別世界に生きるあなたは、今の自分を生きることが出来ません。

今起きていることにはいい加減に対応するようになるし、今の自分の感情など邪魔な存在でしかなくなってしまうのです。

 

楽しむなんて事は復讐の邪魔だから排除されます。

 

やがて自分が楽しんだり、喜んだりすることにも罪悪感を感じる様になります。

復讐を果たすまでは、自分を生きてはいけないとでもいうようになっていくのです。

 

まさに「許せない」自分が、その他の自分を排除して自分であることの破壊を続けているようなものです。

 

ノーマン・カズンズが病気のことを閉め出して「笑い」にすべて置き換えたように、許せない相手のことを考える時間を作らずに、今の自分に注意を集中しましょう。

 

今起きていることに、それに反応する自分に注意を集中すれば、毎瞬起きてくる新しい出来事がいかにたくさんあるか、自分が今やるべき事がどれだけあるかに驚くでしょう。

 

また許せない思いが禁止してきた、数々の無関係な感情をいだくことも自分に許せるようになります。

怒って意地を張っている子どもが、一緒に笑いたいと思うのを隠してしまうような真似をしなくていいのです。

 

そして、今はもう何も影響をもたらさない相手のことを、自分で蒸し返しては苦しい時間を過ごすことの無意味さを感じるようになってきます。

 

だんだんそんなことに時間を使うよりも、目の前に起きてくる出来事にすべての自分の関心は向かっていくでしょう。

 

そうしてこそ、ようやく自分自身を生きることを取りもどせたわけです。

 

そのとき「許せない」という思いは、自分が繰り返して呼び起こさない限り、すでに存在すらしなくなっていたものだったと信じられるようになるはずです。

 


◆自分らしさに戸惑う人に

自分らしいとは、どういうことかわからない。

 

そんなふうに思って悩む人がいるかも知れません。

 

その一方で、「自分はこういう人です」というのを、立て板に水で紹介できるような人もいるものです。

 

しかし、そのような違いというのは、いままでどんな家庭環境で育ってきたかで大きく左右されるものです。

 

家族のだれもが自分の意見を表現することを賞賛する環境にいれば、自分とはどういう人間かを言葉で表現する機会も多くなるわけだし、そのストックを取り出して人に示すことも簡単です。

 

逆に、下手なことを言ってしまうと、咎められたり、笑われたりするのを気にしながら育ってきた人は、自分について表現するのが難しく、思い浮かべるだけでも困難を感じるかもしれません。

 

 

しかしながら、それでは自分を言葉で表現するのが上手な人が、自分のことをよくわかっているかと言えばそうとは限りません。

 

じつは、表現できる自分というのは、自己の一部を無理やり言葉の枠に収めたようなものでしかないからです。

 

ですから、かえって自分を決めつけて規定しすぎてしまう可能性もあるわけです。

 

あくまで可能性を残して、自分を規定しすぎないようにしていれば、思っても見なかった自分を発見するチャンスも増えてくるものです。

 

「自分らしくある」というのは、その状態で「いる」ことはできても、それがどんなものかを「知る」ことはできないものです。

 

あなたが「自分らしさ」を知ったと思ったとき、あなたは「知る人」と「知られる人」に別れてしまいます。

 

そして「知る人」こそが本来のあなた自身であり、「知られる人」とは説明出来るように言葉にあてはめられた象徴でしかありません。

 

どこまでも「知る人」の側が存在し、すべてを「知られる人」にしてしまうことは出来ません。

 

できるのは、ただあなた自身である状態を体験することだけなのです。

 

本当に自分らしくしているとき、あなたはそれをいまその時に知ることはないのです。

 

後から振り返って、その時は自分らしかったと説明することはできるかもしれません。

しかしそんなことはどっちでもいいことだし、ただその状態を経験するのが本来の自分らしさというものでしょう。

 

 

自分らしさに入り込んでいるとき、自分が何をしてるかなど振り返らないし、それを説明しなければいけないとも思わないものです。

 

谷神は死なず、それは神秘なる女性と呼ばれる。

神秘なる女性の扉、そこが天地の根源である。

それは綿々と続いて、いくら汲んでも枯れない。

 

老子道徳経 第六章

 

 

谷とは空間です。

 

山は形のあるものですが、谷はくぼんだ空間であり、それ自体形のあるものではありません。

 

老子は、空間こそが源であると言います。

 

空っぽだから役に立つ、そこからすべてのものが生まれてきて、いくら取り出しても尽きない源であると。

 

それに対して形のあるものは、源から取り出して表現された結果です。

形をとったものは、もはや他のものに変えることはできない。

それはまた、形をとった時から、いつか破壊される時が来るものです。

 

自分らしさも、知ることの出来ない空であってこそ、限定されず破壊されることのない可能性を秘めた存在になれます。

 

「自分とはだれか」、「自分らしさはこれだ」、そう決めてしまうのは可能性を限定する行為です。

 

それはまた、その規格にあわない自分を封印したり抑圧する原因となります。

それが、のちのち自分らしさを取り戻したいと、何度もあなたを苦しめる原因となります。

 

空であること、知られざる存在であるとき、可能性は無限となります。

 

ですから「あなたは誰か説明しなさい」といわれて、あなたを限定してしまう必要などないのです。

 

他人との関係を取り繕うために、自分を安売りする必要はありません。

あるいは社会的な圧力に負けて、自分を枠にはめてしまう必要もありません。

 

あなた自身がそれを許さない限り、誰も強制できる人は存在しません。

もちろん自分で自分の可能性を限定して、「私は所詮こういう人間よ」と決めるのも馬鹿げています。

 

「からっぽ」であることは、不安だとか不便だとかと言う理由で「自分を誰かに仕立てる」とき、あなたの分裂が始まります。

 

それを許している限り、あなたはいくつもの自分を作り出して、これは自分じゃないと思っても拒否できなくなるのです。

 

そして、すぐにどれが本物の自分かもわからなくなってしまうのです。

 

自分らしさなど、人に説明しようと思わないことです。

 

それは説明しなくても相手に伝わるものであり、自分そのものであるとき、それは自分自身が一番わかっているものです。

 

説明しようと思わないでも平気でいられるときこそ、自分らしい自分でいると言えるのではないでしょうか。




※続きはダウンロードしてお楽しみください。

ダウンロードリンク
※ユーザー:life  パスワード:hint を入力

人間関係005:傷つく・許す001


☆~こちらででご相談サービスが受けられます。⌒☆

サービス10~心の支えが欲しい、拠り所を求める方へ~その時実際には何をしようとしているのだろう?|元気になる方法|ココナラ

サービス9~ブログを始めたいけれどなかなか続かない、時間が取れないという方へ|文章に関するコツ・ノウハウ|ココナラ

サービス8~この絵何に見えます?~そして見なかった背景に隠れているものは?|心の悩み・メンタル|ココナラ

サービス6~ゲシュタルトの祈り~私は私と言い切れたらどんなにいいだろう|心の悩み・健康|ココナラ

サービス5~勝ち犬と負け犬のゲーム~最後は負け犬が勝つからくりとは?|心の悩み・健康|ココナラ

サービス4~人間関係の3つの役割(迫害者・犠牲者・救助者)私はどれ?|心の悩み・健康|ココナラ

サービス2~一方的に攻撃してくる人に対応するには(モラハラ・パワハラ)|心の悩み・健康|ココナラ

サービス1~人間関係の悩みや、このままの私でいいのだろうか?自信が持てない。ちょっと一押しが欲しいなと思ったら|心の悩み・健康|ココナラ



メルマガ購読・解除
 


スポンサード リンク