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2013年04月

複雑だから今はできない?だったら単純になりましょう!

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生き方027:複雑だから今はできない?だったら単純になりましょう!001

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★単純になることのメリットは計り知れない
 https://www.facebook.com/note.php?note_id=218668611546424

原因から結果を予測し導き出すすることは演繹法と呼ばれ、逆に結果から原因を探ることを帰納法といいます。

 

これらは論理的に正しく使われる時に効果を発揮しますが、残念なことに誤って使われることも多いようです。

 

たとえば、自分の信じる原因から予測した結果が、期待と違うからといって結果の方が間違っているととか、そうあるべきでないと嘆くような場合です。

 

また逆に、結果を見て自分がそうであって欲しい原因をこじつけてしまい、次もその原因が働くだろうと期待するのですが、結果はそうなってくれない。

 

私たちの不満の原因は、たいていこのような自分に都合のいい解釈を外界に期待することから発生します。

 

その解釈に執着するほど被害は大きくなり、現実が期待と違うと言って嘆くことになります。

 

そうとわかれば、このような無駄なことをやめればいいわけですね~。

 

つまり確実な理由や自信がなければ、原因と結果を無理に結びつけたり、解釈しようとしないことです。

 

そうすれば、ものごとは、しかるべき原因で、しかるべき結果をもたらすだけですから、心は穏やかなままでいられます。

なんでもかんでも、因果関係を知ろうとする必要などないのです。

 

それが「あるがまま」を受け入れるということです。

 

今朝起きてから今までに、何かイラついたことがあったでしょうか。

それは間違った期待がもたらしたものではなかったでしょうか。

 

認める気に成りさえすれば、私たちの不満とはそれほど単純なものに過ぎません。

 

単純なことを単純なまま認められること、それこそが求めるべき知性というものでしょう。

 

複雑にするのは馬鹿でも出来るとよく言われますが、それは馬鹿というよりも単純な事実を認めようとしない防衛規制からくる行動なのでしょう。

 

単純になることのメリットは計り知れない。

あれこれ考える前に、単純にあるがままを見直してみるべきでしょう。

 

「そんなに単純にはいかないんだよ」と言いたがるときは、何か認めたくない事実を抱えているから、という場合が多いのです。

 

誰かの複雑にして原因を曖昧にしようとするやり方に、自分まで巻き込まれないことです。

もちろん自分自身にも騙されないように。

 



★いつから始めます?
 https://www.facebook.com/note.php?note_id=218190618260890


『いつから始めます』

この言葉は、もっともらしく、積極的にさえ感じられます。

 



しかし、将来の計画とは、こういうことです。

 

(1)変化した結果である自分を思い描くこと

(2)それまでの期間に時間の経過を仮定すること

(3)その期間には努力して変わりつつある自分が存在するだろうと思うこと

 

実際に変われるのは、今しかありません。

 

今変われないなら、いつになろうと変われません。

 

そして実はそのことは薄々感じているのです。

 

時間も努力も、「今変わらない」ことへの代償になっています。

 

変化することは「ありのままの自分」を直視することを避けては通れません。

実はそれこそが避けていることなのかもしれません。

 

今の「ありのままの自分」を見るよりは、未来に「あるべき自分」を仮定して、

今変化しない代わりにそれに向けて努力しますと言う方が楽なのです。

 

しかし(3)の「努力して変わりつつある自分が存在する」ということが成り立つためには、まさに今変わりつつある自分がその都度必要なのです。

 

将来なら変われる自分が現れる保証などありませんし、そもそも将来などこれらの思考の中にしか存在しない架空の存在です。

 

いつ変わるにしても、たった今変わる自分を避けては通れないのです。

 

実は「変われない」ということは、「変わりたくない」自分が存在しているということです。

 

そして、その「変わりたくない」理由が隠されているほど、変化は起こりにくくなります。

 

「なぜ変わりたい自分がいるのに変われないのか?」

それは、「変わりたくない自分」と向き合っていないからです。

そんな自分はいないと言い聞かせているからです。

 

あるいは、「私はそんなに変わりたいと思わないから。。。」と思っているかもしれません。

 

「なんでそんなに変わらないといけないの?ほっといて」と思うかもしれません。

 

しかし、いつも「変わる必要などない」と言い聞かせていることがあるなら、それこそが「変わりたい」と思っていることなのかもしれません。

 

こんなことを考えていると、変わるということがひどく難しく聞こえてしまうかもしれません。

ですが、

ただ変わるのを避けている自分がいることに気づきさえすれば、

それを理解しただけで、なんの努力もなく即座に人は変わってしまいます。

 

難しくしているのは、「ありのままの自分」を見ることを避けているからに他ならないのです。




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自灯明・法灯明

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生き方026:自灯明・法灯明001

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★自灯明・法灯明
https://www.facebook.com/note.php?note_id=182976071782345

お釈迦様が死の直前に弟子のアーナンダに残したといわれるのが、後に「自灯明・法灯明」と呼ばれる言葉でした。

 

自分が死んだ後に、弟子達が何を頼りにしていけばいいかということを言っている言葉です。

 

「自灯明」とは、自分自身を拠り所にして、それを灯明として闇を照らしなさいということであり、「法灯明」の方は、お釈迦様が教えた真理を拠り所にして灯明にしなさいという意味です。

 

ここで「法灯明」ではなく「自灯明」が先に来ていることが、どちらを優先すべきであるかを表していると言われます。

 

お釈迦様は、彼が説いた法ばかりを頼らないで、まず自分自身を拠り所にしなさいといいたいわけです。

 

「法」を頼りにすることは、外部の決まりごとに従えということです。

 

弟子達が、そのように法に従うことにのみ忠実になってしまって、法の奴隷になってしまうことを心配しての配慮であるということでしょう。

 

 

外部に基準を持たずに自分自身を信頼せよという考えは、東洋の哲学や宗教の特徴なのかも知れません。

 

老子は、全く違った観点から「道(タオ)」を説いています。

 

老子の場合は、人が作った法というのをもっと手厳しく否定しています。

そんなものに頼ることが、タオから外れるのだという言い方をします。

 

ですから、老荘思想にはもちろん「法」というものはありません。

あるのは、老子の言葉と「タオとの調和」ということぐらいです。

 

人は自分から何かをしようとせずに、タオと調和するように無為でありなさいというわけですから、命令や務めというものはありません。

 

タオを信じたら救いがありますとも言わないし、従わないと罰が当たりますとも言いません。

 

これとは対照的なのは、律法に忠実に従って特定の神を信じれば救われるとする、西洋の契約による宗教です。

 

他の神を信じることを禁じたり、律法を犯さないこと、破れば罰を受けると脅す神様です。

 

こちらは、言ってみれば「法灯明」のみを打ち出しているわけです。

 

もっともユダヤ教徒であるキリストが現れて、律法からの解放を説くようになってからは少し様変わりしていきますが、このあたりの話はこれぐらいにして「自灯明」に戻りたいと思います。

 

 

自分を拠り所にしなさいと言われると、法に従えとうるさく言われないわけだから楽じゃないか、といえるかというとそういうわけでもありません。

 

実は自分で判断しなさいといわれるのは、それほど簡単ではないのです。

 

外側には自信を持った教えというものが沢山存在します。

 

それに頼らずに自分で考えなさいと言われても、外部の自信ありげな教えは魅力的に映りますし、それに比べて自分の考えの方はなかなか自信が持てないのです。

 

これに従えば結果は保証しますといわれると、それならば自分で考えずに誰かを信じていた方が楽じゃないかと、ついつい頼りたくなるわけです。

 

そういった傾向は、宗教に限ったことではなく、最近になってどんどん進んでいるような気がしてなりません。

 

現代社会では情報は捌き切れないほど豊富に利用出来ますから、これがだめなら次の情報といった感じで、しがみつくものには事欠かない時代です。

 

誰かに付いて行きますと言って「法灯明」で生きていけば何とかなるんじゃないか。

そんな風に考えてしまうのも無理ないところもあるのでしょう。

 

しかし、問題はそれで人は幸せを感じられるかと言うことです。

 

外部に依存することが日に日に不満を蓄積していくのを感じないでしょうか。

 

なんで自分の好きなようにしないんだと、不満をもらす自分がそこにはいないでしょうか。

 

依存すればするほど、個性は失われていき、自分に対する信頼が欠如していきます。

 

まるでずっと親の監視つきで、宿題でもやらされているようなものです。

 

そんな状態では、なんとかここから抜け出したいという子どもの欲求が、麻痺して無抵抗になってしまわないよう祈るのみです。

 

 

なんとかこのような、がんじがらめの状態から解放する事を考えていかないと、自分では常に目的をもって行動しているつもりでいても、結局どこにも行き着けない状態に陥ってしまいます。

 

外に依存していると、不満を感じる対象も外にあると思いがちです。

 

社会が悪いのだから仕方がない、自分はこんなに頑張っているのにといって愚痴をこぼしているしか能のない人間になってしまいます。

 

いかに不安に思えても、自分に頼ることを諦めるべきではありません。

 

権威など見せかけです、そんなものを信じないで自分が主導権を握るようにしましょう。

人の人生を生きるのはごめんだと宣言しましょう。

 

シンプルに考えれば、「好きでもないことばかりしている」ならさっさと抜け出せばいいと気がつくはずです。

 

人に意見を聞かれても、自分がわからないと思うことなら「わかりません」と答えましょう。

 

わかったフリをして、無理やり納得してもいない考えを自分の意見にしてしまうから、自分の中で葛藤が起きてしまうのです。

 

ますます自分の考えに自信を持てなくなってしまいます。

 

そういうことを続けていると、簡単なことをやるにも「これで正しいのだろうか」と考えないといけなくなるのです。

 

「私は無知である事を知っている」と言ったソクラテスのように、自分が何も知らないことを認めてしまえば、自由を取り戻せます。

 

ドラマなどで何も知らない主人公が、知らない強みで権威に従わずに暴れまくるのを見て痛快に感じることがあるでしょう。

 

それを見て共感するのは、自分の中にもそんな思いがあるからでしょう。

有害な知識なら無知であるほうがずっとましです。

 

実際には無いものをあると考えるのが、仏教でいう「無明」です。

外部の自信ありげな考えも、自分にとって真実でなければ自分の闇は照らしてはくれません。

 

「じゃあ、結局どうすればいいの?」と聞きたくなるのは、まだ外部に頼ろうとしています。

 

 

信じてもいないことを自分のものにしないで、自分で本当に納得できることを頼りにしようと決心すれば、法の奴隷にならずに自由を取り戻します。

 

そしてなによりも、自分への信頼や勇気を取り戻すことができます。

 

自分を信頼して起こることに任せて行動すれば、思っても見なかったすばらしい経験が待っているものです。



★世界は私の投影だ
https://www.facebook.com/note.php?note_id=183408341739118

ひとたび世界はあなた自身の投影だと悟れば、あなたはそれから自由だ。

あなた自身の想像のなかにしか存在しない世界から自由になる必要はない!

いかにその絵が美しくとも、あるいは醜くとも、それはあなたが描いたものであり、あなたはそれに束縛されないのだ。

誰もあなたにそれを押しつけてはいないということを悟りなさい。

それは想像を現実と見なす習慣によるものなのだ。

想像を想像として見なさい。そして恐れから自由になるがいい。

 

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

ナチュラルスピリット / 2005-06 /

 

 

このようなマハラジの言葉がある一方で、あまり突き詰めて考えないかも知れませんが、私たちが常識的に思い浮かべてのはこんな世界ではないでしょうか。

 

  • 世界はあなたとは関係なく存在し、あなたはその中に放り込まれた一員に過ぎない。
  • 世界は他の人にも全く同じように存在し、同じように見えていて、だからあなたが見たものは、隣の人にも全く同じに見えている。
  • あなたの存在とは関係なく、世界は独立して存在する。
  • あなたがどう思おうと世界は変わらない。

 

しかし、これが正しいのはあなたの作った世界の中にいる限りにおいてです。

 

いいかえれば、この世界はあなた自身なのです。

 

隣の人があなたと同じように世界を見ていると信じるのも、あなたがそういう世界を作りだしているからです。

 

あなた自身は、実は常に新しく世界を創造し続けているのです。

その都度見方は変化しているのだけれど、昨日と同じ一貫した世界を望んでいるから、今日は違う私が存在することは認めようとしない。

 

一貫した世界を望むから、隣の人はあなたの思い描いた世界の筋書き通りの人でいてくれることを期待します。

その人が昨日と違う事を言えば怒りだすのです。

あるいは今日のあなたは変化していて、相手が昨日と同じことを言っていたら気に入らないかも知れない。

 

あなたが世界は怖いところだと信じていれば、まさにそのように世界は怖い存在に見えるし、やがてそれに合うような世界をあなたは創りだしてしまう。

 

想像するものを現実だと思うのは、長い習慣が作りあげたものにすぎないと本当に気がつけば、自分が作りだした世界に脅えたり束縛されることはなくなるでしょう。

 

そのかわりに、毎瞬、毎瞬、想像でない目で世界を見てみれば、あなたが思っていたのと違って、世界は何もあなたを束縛しては来ない。

 

世界はあなたの想像ほど酷くはないし、あなたの想像ほどあなたの理想通りでもない。

 

肝心なのは、あなたが創り上げた世界で生きるなら、常に理想と現実の食い違いが起こり続けてトラブルに見舞われるということです。

そして、本来の自分自身でないものを捨て去る決心をすれば、それだけ自由になれるし、期待した世界のように突然食い違いが起きてくる恐れもなくなります。

 

宝くじを買ったとします。

 

当選発表までは、もしかしてという期待感を味わいワクワク、ウキウキするかもしれない。

そして、ほとんどは期待はずれです。

 

期待はずれはわかっていても、それでもやはり失望を感じているのです。

しかしあなたは「宝くじだから外れは覚悟していたよ」と納得したようなことを言いながら、その裏では失望を隠そうとする。

 

考えずにこのようなことを続けていれば、ある日腹を立てている自分を発見します。

いくら確率だと言っても、「たまには当たってもいいはずだろう、こんな世界は間違っている」と。

 

そして、いままでの失望を蓄積を一気に嘆き、発散したくなるのです。

ついでに他の不満も蘇って来て、世界はままならぬものだと確信を強めます。

 

もともと宝くじなどないつもりで生きていれば、こんなことは起こらないわけです。

 

宝くじは、世界がこうあって欲しいというあなたの期待が創りだした想像の世界です。

しかし、いつのまにか「これがこの世界そのものだ」と思うようにすり替わっていくのです。

 

そう思っていても、なにもない世界では退屈だと決め込んだり、予想できない世界は怖いからと先手を打って世界を創りだしてしまうから、その「あなた特有の世界」にあなたは入り込んで悩み苦しむことになります。

 

自分で創り出しておいては、その問題を解決するのが現実というものだと思っているので、それ以外の、「ありのままのいまを生きる」ことなど思いもよらないものになってしまうのです。

 

「あなた特有の世界」を壊して手放してしまえば、その分あなたは自由になります。

 

いつもの気苦労もなくなり、何も束縛されない自由に戸惑いながらも、その時初めて「いま」を純粋に味わうという余裕も出てくるでしょう。

それは、いつか問題がすべてなくなったらやりたいと思っていた生き方ではないでしょうか。

 




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生き方026:自灯明・法灯明001

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もし落ち込んでいるのなら

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人間関係023:もし落ち込んでいるのなら001

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★もし落ち込んでいるのなら
https://www.facebook.com/note.php?note_id=182601061819846

もし今あなたが落ち込んでいるのなら、何かで怒っていないかを確かめてみましょう。

 

怒りは、外に向けられないと内側に向けるしかないのです。

 

内側に向けられた怒りは、何もできないあなた自身を責めて鬱にさせます。

 

外に発散できないあなたの無力さを責め、かといって自分を責めることにも納得できない。

 

進むことも退くこともできない罠に陥った状態があなたを鬱に向かわせるのです。

 

「何を怒っているのだろう」

 

「誰を怒っているのだろう」

 

もし当てはまるなら、正直にそれを表に引っ張り出して確認しましょう。

 

無意識のまま積み重ねていては、外側をどう変えても元気にはなれません。

 

意識して「私は○○を怒っている」ことを認めることです。

 

 

 

「私なんかが責めてはいけない人」に感じている怒りはないでしょうか。

 

相手が誰であろうと、あなたに怒りを感じるのを禁じる権利はありません。

相手が誰であろうと、あなたは怒りを感じることを自分に許してもいいのです。

 

もしできないと思っているなら、なにがそうさせるのか、誰がやってはいけないと言っているのか、それを追跡してみましょう。

 

あなたには負い目があって、怒りを抱いてはいけないと思っている。

 

あるいは、あなたは自分の怒りを認めたら、とんでもないことが起きてしまうと思って、それを認めるのを怖がっているのかも知れません。

 

「誰かが怒ると怖いことが起きる」と子どもの頃に感じ、怒りの感情を封印しようとしたかも知れません。

 

あなたは、内面で怒りながら、怒ることは良くないことだと言い聞かせ、引きつった笑いを浮かべます。

 

怒りを感じた自分に気がつくと、わけがわからなくなって混乱する人もいます。

混乱してしまうことで、怒りを認めないでもいいようにです。

 

 

「私は本当は怒っていたのだ!」と気がつくだけで、あなたの鬱は消え去っていきます。

 

「自分を閉じ込めていたのは、認められない怒りにあった。」

 

そのことがわかれば、あとは正当なやりかたでそれを表現するだけです。

 

表現するといっても、面と向かって言えないとか、相手がもう存在しないかも知れません。

それでもイメージの中でそれを表現するだけでも効果はあります。

 

怒りを表現するのは、相手を責めることとは違います。相手はその人が思うことをしているだけ、あなたはそれに怒りを感じた。

それ以上でもそれ以下でもないはずです。

 

自分を怒らせた相手を責めていること自体が、自分が怒りを表現するのを禁じることに繋がりかねません。

相手はそのようなことを言ったりしてはいけなかった。

そう強く思うあなたは、自分の行動も相手を怒らせてはいけないと思うわけです。

 

 

肝心なのは、自分が怒りを感じていたことを認め、その怒りを自分が表現するのを見ることです。

 

誰か第三者に自分の感じていることを聞いてもらうだけで、きっかけが掴めるかも知れません。

頭ではなく、身体全体で怒りを感じている自分を感じられればいいのです。

 

 

もしあなたが、いつも自分の行動に説明が必要だと思っているなら、それが足かせになっているのかも知れません。

 

自分に責任を持つとは、すべての行動を説明出来ることだと信じていると、説明出来ない自分を許すことができません。

 

「うまく言えないけれど、私は怒っているのだ、悪いか?誰にも文句は言わせない!」と言ってみましょう。

 

それを意識してやることが、いままでとは違う結果をもたらすのです。

 

そうしないと、あなたは無意識のうちに、いままで通りの同じことをやってしまいます。

そちらの方は、いわゆる「切れた」状態に陥ってしまうという現象です。

 

ため込んだ怒りのあまり「切れて」それを誰かに当たり散らしても、うまく治まることは期待できません。

 

それどころか、まわりから怒りだすと手がつけられない人に見られてしまいます。

そして、あとからそんな自分を余計に責めることになるという後始末が待っているのです。

 

怒りを無理やり消すことは出来ません。

意識してそれを自分のコントロールのもとで発散する手段を見つけるのです。

 

怒りは正当に扱えば、破壊的な感情でもないし、禁止すべき感情でもないのです。

 

それは、うまく付き合っていく必要があるし、あなたに恩恵をもたらす感情でもあります。

 

それには、曖昧なままで「怒り」を扱っていていては、うまくいきません。

 

怖がらずに自分の怒りの源を探り当て、それをハッキリ認識して受け入れて、さらには、それを表現する権利を自分が持っていると認識した上で表現するのです。

 

ちょっと気分が滅入ったら、何が起きたのかを探ってみましょう。

鬱の多くは「誰かを怒っていますか?」という問いかけに、正直にこたえるだけでも改善できるのです。



★傷つけられた私の怒りと復讐
https://www.facebook.com/note.php?note_id=182543591825593

 あなたは誰かがちょっと触れただけで、傷つけられたと感じてしまう可能性があります。

 

それは、あなた(エゴ)が他の人はあなたを傷つけるものだと思い込んでいるから。

 

あなた(エゴ)は自分の傷を持ち歩いて、誰かを待ち構えています。

あなたにちょっと触ったら、

あなたに何気なく声をかけただけなのに、

誰かがあなたの傷にさわったと感じてしまう。

 

 

しかしあなたにはそう見えても、誰もあなたを傷つけようと思ったりしていません。

それどころか、誰もが自分の傷を守るのに忙しい。

人を傷つけている暇なんかありません。

ひたすら自分の傷を守るのに忙しいのです。

 

あなたの傷の扱いに注意しなさい。

それを大きくするようなことをしてはいけない。

それにさわらないで癒されるにまかせるのです。

あなたが根源に向かっていれば傷は癒されます。

あなたが頭(エゴ)で考えなければ、それだけ傷は癒されます。

あなたが頭を空っぽにすれば、そこには傷は何も存在しない。

頭を使わずに生きなさい。

トータルな存在として生きて、物事をそのまま受け入れるのです。

 

一日だけ、24時間だけすべてを受け入れることにして、なにが起きるか確かめてみましょう。

 

侮辱されてもただ受け入れて、それに反発しないでいる。

すると何が起きるでしょう?

あなたは突然、いままで感じた事のないような、エネルギーが復活してくるのを感じるでしょう。


誰かがあなたを侮辱する。

あなたは惨めに感じ、混乱させられて、どうやって相手に復讐してやろうかと画策を始めてしまう。

 

昼も夜もそのことばかり考え出す。

1ヶ月、1年と復讐を考えて、よく眠れず、夢でもそれが登場してうなされる。

 

あなたの貴重な人生は、この復讐のために台無しになる。

あなたは、いまを生きてはいない。

あなたは、復讐劇の中に生きていて、現実の生活はおまけに過ぎない。

復讐することが生きることの代わりをしてしまう。

 

楽しんでなんていられない。

いまを生きてなんていられない。

そんなことをしたら復讐の手がゆるんでしまう。

復讐こそが、我が人生なのだ。

 

それもこれも、誰かがあなたを侮辱したことが始まり。

あなたのエゴがかってに戦いを始めてしまった。

 

そこでただ聞き流して、受け入れて、何も反発しなければ何も起こらなかった。

そうすれば、得られたはずの膨大なエネルギーが、あなたが頭を捨てれば蘇ってくる。

 

エゴの復讐劇に乗っかるのをやめるだけでいい。

 

もともとそこには、何もない。

あなたを侮辱した人は、何か理由が有ったのかどうかもわからない。

本人すら、何でそんなことを言ったりしたのか、覚えているかどうかも怪しいものだ。

もちろん、あなたを苦しめてやろうなどと思っていることはまずなかっただろう。

そんなことよりも、自分の傷を心配する方がよっぽど気になっているのだから。

 

人が傷つくようなことを言ってしまうのは、自分の傷が刺激を受けてしまったからに過ぎない。

自分の傷を触られそうだと感じるとき、慌ててしまう。

それを守ろうととっさに身構え、なりふり構わず必要なら相手を攻撃する。

 

なにが逆鱗になるかは、ひとりひとり違っている。

しかし、何も知らずに相手の逆鱗に触れてしまえば、あなたは反撃を受けてしまう。

それが今度は、あなたの逆鱗と結びついてしまう。

げきりんは、一時的にあなたを無敵モードにしてしてしまう。

 

そうやって、あなたはそれに立ち向かってしまった。

エゴにそそのかされて。

「こんな侮辱は許されてはならない。正義を守らねばならない!」

 

あなたは、全体として生きることを捨ててしまう。

あなたの関心は復讐にある。「この私の傷を見てみろ!どれだけ傷ついたと思っているんだ」

傷に障るたびに、怒りが生々しく蘇ってくる。

 

おそらく、相手も、そして誰も忘れてしまった出来事のために、

あなたは自分の他の生き方を捨ててしまった。

エゴと復讐に生きることに、いまを生きることを捨ててしまうのだ。

 

復讐劇をやめてみる。

誰かが侮辱しても、あなたを押し倒してきても、今日は何もしないでうちに帰ろう。そして、いつものように思い出したり、何かしてやろうと考えるのをやめてしまう。

そうすれば、何も起こってはいなかった。

あなたが傷をいじり回すのをやめたら、傷は自然に消えていく。

観察日記をつける必要も無い。

あなたは傷のことなんか忘れてしまう。

そして、あるときふと気がつく。

たしかここに傷があったような気がしたけど、いまはなにもない。

勘違いだったのかな。

 

そんなことよりも、復讐をやめて蘇ったあなたのエネルギーで、いまを生きることの方が忙しくなっているのだ。

復讐しようとしていた時を振り返って見れば、いかにあなたが馬鹿なことをしていたのかに気がつくだろう。

 

だれもあなたを破壊することはできない、ただあなたを除けば。

だれもあなたを救うことはできない、ただあなたを除けば。

あなた自身がユダであり、あなた自身がイエスなのだ。


※引用とテーマはこちらから

Angry All The Time? Try Osho's Anger Management.OSHOtimes

http://oshotimes.blog.osho.com/2011/04/osho-on-anger-management/

 



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ありのままに見られるとき、自己非難はなくなる

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生き方025:ありのままに見られるとき、自己非難はなくなる001

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★難しい人と接するには

https://www.facebook.com/note.php?note_id=168532236560062

どのように接していいのか、困ってしまう人というのがあるものです。

 

たとえば敵対的な人たち、こうした人たちは相手が誰であっても攻撃的になるようです。

 

しかしそのような人たちが攻撃を続けるのは、相手に弱さを見つけたときであり、相手がそれに反応してくるときだということを知っておく必要があります。

 

相手は最初はあなたの反応にかかわらず、一方的に攻撃しようとします。

 

しかし誰か特定の人を狙っているのではないので、あなたが自分にそのような原因があるからだと悩むことはありません。

 

またその人は、誰かを攻撃することで満足を得られるわけではなく、どうにもならなくてそのような形で自分を表現するしかなかったのです。

 

 

したがってあなたの方は、相手のいいなりになる必要はありません。

 

攻撃相手であるあなたが自分に弱みがあることを認めて反応すると、相手の狙い通りになってしまいます。

 

しかし、あなたが自分にはそのような攻撃を受けるいわれはないと思って平然としていれば、相手は攻撃目標を見失っておとなしくなります。

 

攻撃する人は、自分が攻撃する側の役割を演じることで相手との関わりを持とうとしていますが、相手が犠牲者の役割を受け入れないでいると手応えを失って、それ以上どうしていいのかわからなくなります。

 

相手が思っている様に反抗してくれば、そこを狙って攻撃しようと待ち構えていたのですが、それをかわされてしまえば、もはやひとりでゲームを演じることは出来なくなるわけです。

 

あなたが攻撃的な人の役割に反応すればするほど、相手のゲームは白熱していき、彼のエゴは増大していきます。

 

ひとしきり相手を攻撃し尽くして疲れ果てるか、相手が降参するまでこれが続きます。

 

しかし攻撃側にとっても、そのあとの状態というのは、またやってしまったという惨めな気持ちを感じて終わってしまうのです。

 

どちらのためにもならないゲームには、例えその時は相手が不満そうでも、こちらは断固として関わらないのがお互いの利益になります。

 

たいていの人は非難され攻撃されてしまうと、何かしら自分に非があるのではという気になってしまうものですが、それが攻撃的な人が誰かれかまわず標的にしようとする理由でもあります。

 

言われのないことには、断固犠牲者にはならないという姿勢を崩さないことです。

 

 

ところで、攻撃側の役割を演じやすい人がいる一方で、犠牲者になろうとする人達もいます。

 

相手の言葉にちょっとでも非難めいたものを感じると、いっきにへこんでいじけてしまうか、相手に傷つけられたことを強調して反撃しようとします。

 

それはまるで、自分が被害者でこんなにひどい目にあったと認めてもらいたがっているかのように見えるのですが、だからといって被害者だと認められても満足するわけではないのです。

 

子ども達が遊んでいる中、A君はこれは自分だけのおもちゃだと主張して仲間から離れてひとりでいじけています。

 

あなたが先生の立場なら、A君をどう扱えばみんなにとっていい関係が取り戻せるでしょうか。

 

A君の主張通り彼専用のおもちゃだと認めて、みんなも仲良くするようにと言ったところで誰も納得しないでしょう。

 

A君にすれば、自分のしたいことはおもちゃを独占することではないはずです。

一時的にはそのような気になったとしても、望んでいることはみんなの仲間に入りたいわけです。

 

しかし、仲間に参加するやり方がわからずに、自分が知っているやり方で自分に注意を集めようとしたかったのでしょう。

 

また周りのなかまは、おもちゃのことよりもA君のやり方にどう接していいのかわからず戸惑っているだけなのではないでしょうか。

 

自分が被害者になっていじけてしまう人を扱うには、相手のいいなりになったとしても何も解決しません。

またそれは相手にとっても、そのようなやり方を助長することを手助けしてしまうので為にはならないはずです。

 

一時的には不満を示しているようでも、本当に望んでいる関係を取り戻せるように手助けするのが正解ではないでしょうか。

 

 

一般に、たとえそれで表面的な交友関係が途絶えたとしても、あなたは本来のあなたのあるがままのやり方を放棄すべきではありません。

 

誰かを自分のもとに留めておこうとか支配しようとかいった理由で、自分のやり方を歪めたり妥協すべきではありません。

 

逆に言えば、まわりの期待に合わせて自分を振る舞わせるなら、その報いを受けることを覚悟しておく必要があります。

 

報いとは、本当のあなた自身がわからなくなることです。

そして期待した反応が得られる間は喜んでいても、まわりの気まぐれで自分の気分が左右されてしまうことに気づき、どうしていいかわからなくなると他人を恨むしかなくなるという悪循環を繰り返すのです。

 

ある程度はまわりに合わせることも必要だというのは、もっともらしく聞こえますが本当にそうかどうかは自分で確かめた方がいいでしょう。

 

押しつけられることを期待してしまうのは、あなたがどこかでゲームを演じたいとまだ思っているからなのです。

 

相手に無理に合わせたあなたは、その見返りを相手に期待するのです。

 

逆に自分のやりたいようにしている人は、他人に期待して何かを恩に着せることもありません。

 

恩着せがましく何かを押しつけてこない人は、あなたにとっても受け入れやすい人でしょう。

また、彼自身もまわりに左右されないし、かといってまわりから孤立するわけでもありません。

 

無理にがまんして従順になることは、あなたが必要だと信じない限り必要なことではないのです。

 



★罪悪感に取り組んで元気を取り戻す

https://www.facebook.com/note.php?note_id=168869493193003

以前のノート「非難感情に取り組めば驚くほど楽になります」では相手のある感情でしたが、今回の罪悪感は自分自身を相手にした苦しいやりとりで、非難感情と同じようにやはり実りのないゲームです。

 

罪悪感というのも、やはり自分でどうにもならない感情として放置しておいていいものではないでしょう。

 

なんとか、その正体を知って自分を痛めつけることは避けたいものです。

 

目の前の現実に対して寛大な見方ができないときというのは、攻撃が自分に向けられてしまいます。

 

柔軟な発想に切り替える余裕がなく、ひとつの思い込みだけを信じてしまう結果、自分をいじめてしまうことになるのです。

 

罪悪感とは自分自身に向けられた怒りの感情です。

 

自分はこうすべきなのにしていない、あるいはやるべきでなかったことをやってしまったということで自分に対して腹を立てているのです。

 

この感情も繰り返すたびに自分の中にため込まれていきます。

 

同じ失敗を繰り返してしまう自分に対して、イライラはどんどんひどくなり、わかっているのにできない自分が腹立たしいのです。

 

今回もまた同じ失敗をしてしまわないかと怖くなり、今度失敗したら自分で自分をひどく傷つけてしまうに違いないと思って不安になっったりします。

 

自分の怒りでありながらどうにも出来ない自分をさらに責めてみたり、自分の無力感を強めてしまいます。

 

また、まわりの人への八つ当たりとして表す人もいるでしょう。

 

否定的な感情のサイクルは、自分を憎む感情に変わったり、心身共に自分を痛めつけるストレスのもとになってしまいます。

 

 

このように罪悪感は何もいい結果をもたらさないものなのに、なぜ人はこのような感情を繰り返して抱いてしまうのでしょうか。

 

それは、自分でその感情の働きに気づかないうちに、自分を非難する感情や反応のセットを心の中で蘇らせているからなのです。

 

自分で重苦しい感情に気づいた時には、何か理由があって自分の失敗を悔いているのだと無理やり納得させているかもしれません。

 

非難感情と同じように慢性的な罪悪感もまったく不要なものです。

 

そのような感情は、起源をたどれば小さい頃に「自分は~することを守るいい子です」と自分に刻み込んだ信念や期待感なのです。

 

大人になってからであれば、強迫的な「~でないといけない」という信念に縛られることはないでしょうが、まだ小さかった自分には親や教師などの指示することは受け入れるしかなかったわけです。

 

もちろん大人になってから、そんな考えはもはや必要ないと切り捨てたものもあるでしょう。

 

しかしその多くは、ぼんやりとした感情や身体反応がセットになった形であなたの心の中に潜んでいます。

 

ちょっとした禁止事項をあなたが破ってしまうと、あなたは意識しないうちに過去の状況を思い起こしその状態に入り込んでしまいます。

 

 

あるいは疲れていたりして気力がないときには、落ち込み気味の気分に誘発されて罪悪感に入り込むかもしれません。

 

意識してやっているわけではないので、気がついたときには、実際に何か後悔するようなことをやってしまったような気分になっているわけです。

 

油断していると、天候や部屋の明るさなどにまで影響されてしまいます。

 

「自分は~することを守るいい子です」という決まりから、~できなかったあなたは悪い人間で、罰せられるべきだというのが罪悪感を呼び起こす図式です。

 

もちろん悪いことをしたと感じる場合でも、そのやったことがあなたや他人を傷つけるような行為であったとしたら、それに対して何も感じないというのは、これまた困ったことになります。

 

しかしそのような反応は、現在起きた出来事に対する正常な反応であり、ここでいう罪悪感とは別のものです。

 

ところで罪悪感というのは、単純に決まりを破って悪いことをしてしまった後悔だけでなく、それを変形させた他のゲームをやっている可能性があります。

 

「自分は~することを守るいい子です」という決まりは、もし私が「~することを守らなかったら」罪悪感を感じるべきだというパターンを作るでしょう。

 

そして実際の罰ではなく、罪悪感を感じるという代償を払うことで、自分は決まりを守ろうという気はあるのだと言い訳できるのです。

 

真っ向から自分の中に染みついた遵守しなければならない決まりを破ることはしませんが、ときにやり損ねておいてから罪悪感を感じることで「まだ決まりを忘れてはいないぞ」と開き直ります。

※その当時の交流(たとえ否定的なものでも)を思い起こすことで、今のなにも起こらない状態を抜け出したいのです。

 

こういう逃げ道を覚えてしまえば、決まりを守ろうとする正しい自分を維持しながらも、時としてそれが出来ないダメな自分を演じ、その後で罪悪感を使うというゲームを作り上げてしまいます。

 

いきなり自分自身を極端に罰してしまわないためには、罪悪感を小出しにすることは必要悪のような存在にもなりますが、やはりそのようなやり方はあなたに本当の満足感をもたらしません。

 

 

それでは罪悪感を解決するために、2つの対策を取り上げてみましょう。

 

◆1つは、罪悪感をゲームに使うやり方をやめて、自分は時には決まりを守れないことがあることを認めることです。

 

非難感情のところで出てきた「そうでないこともある」という言葉をつけてみるテクニックを思い出して下さい。

 

非難感情の場合は、相手がいつも期待通りではないことを思い出すために使いましたが、同じように自分自身もいつもいつも正しいわけではないと認めるためにこれを使って見るのです。

 

私はいつもは~を守っていますが、時として「そうでないこともある」と認めて開き直ってしまうのです。

 

そしていつもなら罪悪感に入り込んでいる習慣を阻止して、正直に失敗を認めることです。

 

ハッキリと失敗を認める方が、ズルズルと失敗を繰り返す習慣を打ち切ることが出来るのです。

 

◆もう一つは、自分が罪悪感からいやな気分に入り込んでいることに気づいたら、「いまここ」に意識を集中し直してみます。

 

いま現在進行している出来事にだけ意識を向けて、何となく感じるいやな気分は現在のものではないことを確認します。

 

もし何かの失敗をしたのなら、いまここで出来ることをすべてやってしまいましょう。

それが終わったら、もうそのことは完結したのだと宣言することです。

 

そして、いま目の前のことに意識を集中させます。

次に何をしようとしているか、目の前にある物をよく観察してみましょう。

 

ぼんやりとした罪悪感には耳を貸さないことです。

そうすれば、今と関係ない物は徐々に姿を消していきます。

 

いまここに関わっている自分だけが実在するのだとハッキリ意識するのです。

 

最初からスパッと切り捨てることは出来ないかもしれませんが、フリ戻されそうになったらすぐに「いまここ」へ意識を戻すようにして下さい。

 

その他以下の様なこともピンと来るようなら試してみて下さい。

 

◆身体を動かす作業を始めてみましょう。

 

身体を動かしながらだと、いやな気分にいつまでも浸ってはいられなくなります。

いやな気分に浸ってしまう時間を強制的に減らしてしまうことです。

 

罪悪感を感じていない時間もまた、自分にとってのリアルな現実である感触をとりもどします。

 

◆しつこい罪悪感には、全面降伏してしまいましょう。

 

「私がすべて悪かったごめんなさい、罰が必要なら与えてください」と開き直って宣言すればいいのです。

 

「部分的には私は間違っていなかった」というような逃げ口上は逆効果です。

そういうやり方が、今までの習慣に引き戻していたのだと認識することです。

 

◆あなたは「正しい」人になりたいですか?それも何を犠牲にしてでも?

 

この問いかけは、あなたの本当に求めているのが何かを思い出させてくれるでしょう。

 

「正しさ」など一定の条件の下にだけ成り立つ決まりに過ぎません。

いまは「正しさ」を守るべき時なのか、そうでないのかを見極めましょう。

 

正しいことが、あなたになにをもたらしてくれるのか、また逆になにを縛り付けているのか、曖昧にしないで振り返って見ることです。




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生き方025:ありのままに見られるとき、自己非難はなくなる001

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たまには観察者になって世界を見てみよう

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生き方024:たまには観察者になって世界を見てみよう001


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★瞑想とは何ですか?
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=141887359224550>

瞑想とは何ですか? (Meditation: The First and Last Freedomより)

 

あなたが肉体的にも、精神的にも、どのレベルでも全く何もしていないとき、すべての活動が停止して、ただそこに存在しているなら、それが瞑想です。

あなたはそれを意図的に実行するわけにはいかないし、練習することも出来ません。ただそれを理解するしかないのです。

 

ただそこに存在していられる時間を持てるとき、すべての行為(doing)を落としなさい。考えることも、何かに集中することも、熟考することも行為です。

ほんの一瞬でもあなたが何もしないでいられるとき、あなたはセンターにいて全くリラックスしていられます。それが瞑想状態です。

一度そのコツをつかめたら、必要なだけその状態に留まることが出来ます。

そしてついには24時間その状態でいることもできるようになります。

 

そ のやり方が自覚できて、ただ存在することを邪魔しないでいられるようになれば、次は徐々にその状態を攪乱されないまま、ものごとを始められるようになりま す。それは瞑想の第二段階です。最初はあなたはただ存在するというやり方を覚えます。そして次は行動を起こすことを少し試して見る。床を掃除するとか、 シャワーを浴びるとか、それをあなた自身はセンターにとどまったまま行うのです。やがて徐々に複雑なこともできる様になります。

 

たとえば、いま私はあなた方に話をしているけれど、瞑想は少しも邪魔されてはいません。私は話し続けるけれど、センターにとどまったまま、さざ波すら立たずに静かなままでいられるのです。全くの静寂そのものです。

 

ですから瞑想は行動を妨げるものではありません。普通の生活から逃げ出す必要はありません。それでいて、あなたに新しい生き方を教えてくれます。あなたは竜巻の中心にいるです。

 

これによって、あなたの人生は、もっと充実したものになり、もっと喜びにあふれ、明瞭さが増し、より多くのビジョンを持ち、もっと創造的になります。

そのとき、あなたは丘の上から離れて、あなたに起きてくることをすべて見守る観察者になっています。

 

あなたは行為者(doer)ではなく、観察者になるのです。

 

それが瞑想の秘密のすべてです、あなたは観察するものになるのです。

あなたのレベルに応じてそれを続けるとき、そこには何の問題もなく、木を切り、井戸から水を汲むのです。

あなたは小さなことだろうと大きなことだろうと何でも出来ます、ただあなたがセンターにとどまることを忘れないようにすればいいだけです。

 

その気づきと観察者でいる能力があれば、まったく余計なことに曇らされず、邪魔されないまま生きることが可能になるのです。

 

 

 

Meditation: The First and Last Freedom

http://www.osho.com/shop/ShopDetailPage.cfm?ItemId=4997

 

 

What Is Meditation?

 

When you are not doing anything at all -- bodily, mentally, on no level -- when all activity has ceased and you simply are, just being, that’s what meditation is. You cannot do it, you cannot practice it: you have only to understand it.

 

Whenever you can find time for just being, drop all doing. Thinking is also doing, concentration is also doing, contemplation is also doing. Even if for a single moment you are not doing anything and you are just at your center, utterly relaxed -- that is meditation. And once you have got the knack of it, you can remain in that state as long as you want; finally you can remain in that state for twenty-four hours a day.

 

Once you have become aware of the way your being can remain undisturbed, then slowly you can start doing things, keeping alert that your being is not stirred. That is the second part of meditation -- first, learning how just to be, and then learning little actions: cleaning the floor, taking a shower, but keeping yourself centered. Then you can do complicated things.

 

For example, I am speaking to you, but my meditation is not disturbed. I can go on speaking, but at my very center there is not even a ripple; it is just silent, utterly silent.

 

So meditation is not against action. It is not that you have to escape from life. It simply teaches you a new way of life: you become the center of the cyclone.

 

Your life goes on, it goes on really more intensely -- with more joy, with more clarity, more vision, more creativity -- yet you are aloof, just a watcher on the hills, simply seeing all that is happening around you.

 

You are not the doer, you are the watcher.

 

That’s the whole secret of meditation, that you become the watcher. Doing continues on its own level, there is no problem: chopping wood, drawing water from the well. You can do small and big things; only one thing is not allowed and that is, your centering should not be lost.

 

That awareness, that watchfulness, should remain absolutely unclouded, undisturbed.




★非人情の天地に逍遥
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=142312565848696>

私たちは安らぎを手に入れようとして、かえって苦しさを作り出すことに躍起になってしまうことが多いようです。

 

やろうとしていることが、自分を救ってくれて、楽になれると思い込んで動いているので、効果が得られなかったり余計苦しくなっても、それは努力が足りないせいだと思って余計動き回ってしまうのです。

 

つまり、間違った方向に努力しているから、やればやるほど泥沼にはまり込んでしまうのです。

 

間違った方向は、一見自分を幸せにしてくれる道に見えて、結果的に苦しさをもたらしてしまうという、実は自分を欺くものでしかないのです。

 

では間違った方向とはどういうものでしょうか。

 

私たちは技術を磨いたりや仕事を改善したりしようとして、いろいろ努力しようとします。

それらについては、確かに努力というものが結果をもたらしてくれます。

 

しかし、あなたが安らぎを手に入れたいのなら努力をしてはいけないのです。

 

なぜなら、その時のあなたの努力とは、あなたが幸せを作り出そうと考えているプランを実行するという努力だからです。

 

プランを実行しようとすることは、ありのままの現実を受け入れようとしないで、自分が思い込んでいる通りに現実を変えたいということなのです。

 

あなたのプランに基づいて現実を見るなら、ゆがんだ現実しか見えず、当然あなたのプランと現実はだんだんと別れ、離れ、遠ざかっていくのです。

 

それでもあなたの思い込みは、現実があなたのプランに合わせてくれるべきだと思っているのです。

 

そのときあなたは「あなたの思い込み」と一体になって、それこそが本当の自分だと思っていますから、それに反する事実はあなたへの攻撃であり脅威となってしまうのです。

 

ですから、あなたがそれに努力すればするほど、苦しい状況を作り出します。

 

しかし、逆にあなたがプランを諦め放り出したとき、あなたは初めてありのままの現実をみる余裕が出来てくるのです。

 

あなたのプラン、固定観念さえなければ、現実はあなたをわざわざ不幸にはしないのです

 

幸せは自分で作り出せるものではないと認識して、何もしないと決めたとき、あなたの予想に反して不幸が作り出されることもストップするのです。

 

 

「しあわせは、あなたが生きていることそのものの中にあるのであって、作り出すものではない」

これが分かれば、それ以上無駄な努力をしようとは思わなくなるでしょう。

 

幸せは探しても見つかりません、またそれは努力してストックできるようなものでもありません。

他の財産と同じようにため込もうとする努力は意味がありません。

 

ではあなたが偽の「幸せプラン」を実行しようとする行動をどうやって見分ければいいでしょう。

 

まずはあなたが「これが幸せをもたらす」と考えていることを一旦離れた所から見てみることです。

 

そして効果がない、あるいは有害であるやり方を放棄することです。

 

あなたの望んでいるものは、考えても作り出せないとわかれば、プランを持ち続けること自体が問題であるとわかってきます。

 

持ち続けることが、それに執着する自分を強化し続けるのです。

 

自分の思い込みをチェックして、1つずつ手放していけばいいのです。

 

しかし最初から1つずつチェックするのも気が重いでしょうから、1つ面白いアイデアがあるのでそれを紹介してみましょう。

 

まずは、すこし横道にそれますが、夏目漱石の「草枕」について少し触れたいと思います。

 

「草枕」では30歳の洋画家である主人公は『非人情の天地に逍遥』することによって、『とかくに住みにくい』人の世を生きてみようとします。

 

この場合の『非人情』とは、人情に巻き込まれない第三者的な生き方を言っているようです。

 

このような一節があります。

 

余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺《じい》さんも婆《ばあ》さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。

 

もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似《まね》をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探《さ》ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤《じんじかっとう》の詮議立《せんぎだ》てをしては俗になる。

 

動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差《さ》し支《つかえ》ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。

 

平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。

面倒になればなるほど美的に見ている訳《わけ》に行かなくなる。

 

これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。

 

そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐《ふところ》には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画《え》の前へ立って、画中の人物が画面の中《うち》をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。

 

間《あいだ》三尺も隔《へだ》てていれば落ちついて見られる。あぶな気《げ》なしに見られる。

 

言《ことば》を換《か》えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙《あ》げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。

 

余念もなく美か美でないかと鑒識《かんしき》する事が出来る。

 

青空文庫 図書カード:草枕

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card776.html

 

 

ここでは、自分の周りの現実を平面的な絵の世界だと思ってみようと言っています。

 

「ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。」

 

「動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。」

 

絵に描かれた人物のように、相手を平面上に存在するものとして見て、相手はたとえ動いても、平面からは出てこないつもりで接しようと言っています。

 

そして「遠き上から見物する」、「人情の電気」が起こらないように、巻き込まれないでいようとします。

 

このように、相手との人情を切り離して世界を見てみることを「非人情の天地に逍遥」することだと言っているようです。

 

 

それではこの世界観を踏まえて本題に戻りましょう。

 

「草枕」の主人公の場合は「芸術的観点」から世界を見ようとしているわけですが、これを応用して世界を見るとき、私たちは不幸を自分で作り出すような努力を切り離してしまった世界を見ることが出来ます。

 

「非人情の天地に逍遥」を思考実験として体験して見れば、一つ一つの自分の関わりをまとめてリセットしてみることが出来ます。

 

人情を切り離した関係の世界を体験してみれば、どこで人情というこだわりに自分を駆り立てようとしているかが見えてきます。

 

衝動的に巻き込まれる人情の世界を切り離して、たとえば「迫害者」「犠牲者」「救助者」のドラマを作り出すのを阻止してみるのです。

 

そうすることで、あなたは偽物の自己(エゴ)の働きが、本物の自分ではないことを発見することが出来ます。

 

あなたに恐怖をもたらすのが、偽物の自己(エゴ)が作り出している一時的な状況に過ぎず、決して永続的な恐怖にはなり得ないことも見えてきます。

 

それは、あなたが自分から関わらない限り存在しないのです。

 

あなたが努力しないと不幸になると思って駆り立てられ、不安を感じていたのは、本当のあなたではなく、自分だと思っていた偽の自己の働きであったことに気づきます。

 

そんな中に滞在して、あなたがどうしても本心から人情でかかわろうと思うことだけに参加すればいいわけです。

 

あなたが主体的にかかわらなければ、世界の出来事はあなたの身には降りかかっては来ません。

 

まわりの世界が原因で、それに自分が巻き込まれるという思い込みから、自分がかかわらなければ実は何も起こらないことを発見するのです。

 

違和感のある駆り立てられるような他の人への関わり方は、本当の自分の反応ではありません。

 

しかしあなたがそれを自分自身だと信じてしまうと、そのような偽物の自己はあなたの一部として存在を主張し続けることになります。

その偽の自己は、自分に従わないと大変なことになるとあなたを説得しようとするのです。

 

しかしそれに従うことは、結果的に傷ついて終わる偽物の交流を作り出します。

その傷は「誰かや何かが自分を傷つけた」というものです。

 

誰かや何かがあなたを傷つけることはできません。

 

自分が自分を傷つけることを許さない限り自分は傷つかないと承知していれば、それは偽物の傷にすぎないことが分かってきます。

 

わざわざ自分を傷つける行動を取るのは、賢明なやり方とは言えません。

 

「人情の電気」が起こらないように「遠き上から見物する」とき、偽物を見分けることが出来るのです。

「非人情に逍遙」してみることで、本当の関わりだけを選ぶ体験を選択することが出来ます。

 

 

知らない土地に旅行してみたとき、あなたはいつもより開放感を感じないでしょうか。

その開放感とはどこから来るのでしょう。

 

知っている人がいない開放感です。

知っている人は、あなたがいつもの人情に巻き込まれる存在です。

 

そこでは、あなたは自分を見せたい存在であるように着飾っていなければならないのです。

その人達は、努力している自分を証明して見せないといけない相手なのです。

 

だから知らない人ばかりの住む土地では、証明する必要を感じずに済むのでその分開放感が得られるのです。

 

知らない土地に行ったときと同じように、今の周りの世界を「非人情の天地」と見なしてみましょう。

 

「まわりの人物は平面上の人物であり、あなたがかかわろうとしなければ人情の電気は起こらないのです。」

 

自分の本物の人情を見つけるために、たまには「非人情に逍遙」する実験を試してみるのです。

 

「なぜいつもこのような目にあうのだろう?」ではなく、

「私の中のなにがこの状況を引き寄せているのか?」を問いかけてみることです。




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時にはいわれのない悪口・陰口を叩かれたり…。

「つまり、何が言いたいの?」、
「ん?結局それはどういうこと?」、

と呆れられたり馬鹿にされたり…。

コミュニケーションが上手くいかないと、
損どころか様々なシーンで散々な思いをします。

ダン・オコナーによれば、

現実的な話、実に世の中の90%以上の人が、無意識の内に
『会話において重大な間違いを犯してしまっている』とのことです。

単純に鵜呑みにしなくてもいいですが、こういったコミュニケーションの
法則や発想は、あなたの発想に刺激を与え、自分なりに吸収すれば、
いつの間にかあなたは変わっていくでしょう。

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