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2013年01月

思った通りにはならないが

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生き方020:思った通りにはならないが001

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★思った通りにはならないが
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=125494487530504>
思った通りには
ならないが
やった通りには
なる
 

It does not turn out the way you thought,

but it turns out the way it was done.

 

以無所得故(いむしょとくこ)

 

得る所無きを以ての故に。

 

「了寛」

 

 

羅漢さんの絵説法〈2〉般若心経―空即是色 花ざかり

著者: 荒 了寛 里文出版 / 2001-05

 

 

自分でこうなろうと思って努力したとしても、なんでも思った通りにはならないものです。

 

しかし、自分の意図がどうあろうと、日頃自分がやり続けていることは、現実となって現れてきます。

 

はたして、どちらが価値があり意味があることなのでしょうか。

 

そして、自分の意図したとおりに何かが達成されるということに、特別な価値を見いだそうとする理由は何なのでしょうか。

 

 

 

以前何かの本で読んだ、ある画家志望の男の話です。

 

その人は、画家を目指してせっせと自分で絵を描き、それを売りに出します。

 

しかし、なかなか絵を買ってくれる人は現れません。

 

何とかしようと考えた男は、自分の絵を引き立てるために立派な額縁に入れてみようと思います。

 

自分の手で彫刻を施した独自の額縁を作っては、自分の絵を入れて売りに出します。

 

しばらくして、絵が売れ出しました。

 

男は努力の甲斐があったと、大変喜びます。

 

しかし、そのうち男は、画家を目指している自分にとっては、残酷ともいえる事実に気がついてしまいます。

 

「私の絵を買ってくれた人達は、私の絵を気に入って買ってくれたのではなく、額縁の方が欲しかったんだ。」

 

一時はその現実に失意のどん底に陥った男でしたが、新しい光明を見いだします。

 

「私の額縁を気に入ってくれる人達のために、額縁の職人としてやっていこう。」

 

今までの夢ではなく現実を受け入れた彼は、その後、独自の額縁を作り出す職人として成功するのでした。

 

 

 

この話を、「何でも頑張っていれば努力が実るものだ、諦めるな」という方向に解釈するのも一つではありますが、

 

ここでは彼の意志と、最後に彼が受け入れようとした現実の関係というものを見直してみたいのです。

 

 

思った通りにはならなかったのは、「画家になりたいという彼が自ら抱いた願望や意志」。

 

やった通りになったのは、「目指したわけではなく、副次的に発揮された額縁や彫刻への才能」。

 

私たちが、大事にしていきたいのはどちらなのでしょう。

 

「私はこれをやります」と宣言して、その言葉通りのことを為し遂げることが立派である。

 

このように考えるのが、今の社会では暗黙裏の常識であるかのようです。

 

しかし、なぜ意図したことが叶うことだけを、特に価値があるように考えるのでしょうか。

 

自分でやりたくてやったことだから、その通りになって嬉しいと思うのはたしかにあるでしょう。

 

しかし、それ以上に自分の意志を叶えることに意義を見いだすのは、社会がそのように期待するからでしょう。

 

今の社会というものは、個人が自分でやると言ったことに責任を持つことをベースに成り立たせているから、宣言して実行することがより正しいやり方で価値があると見なされるだけなのです。

 

また、私たちはそのような社会に生きている影響もあるのでしょうが、何もかも自分の意志でやっていると信じようとします。

 

たまたまそのようにことが運んだだけだとしても、後から振り返れば、大抵は自分がそのように意図していたからそうなったのだと説明をつけることは出来るものです。

 

また逆に意図しないで達成されたことは、たまたまうまくいったことで、偶然の副次的な成果としか見ようとしなくなりがちです。

 

さらにこれを押し進めれば、「無理にでも自分の意志で目標を持ち、その通りに達成できる人間が価値があるのだ」と考える方向に圧力をかけられていくのです。

 

 

般若心経は、全く違った見方で私たちを諭します。

 

以無所得故(いむしょとくこ)

 

得るところなきをもってのゆえに

 

真理は私たち人間の知力で推し量ったり、具体的なものとしてとらえられるものではありません。

 

それは、私たち人間の意志やはからいを遙かにこえたところにある知恵なのです。

 

だから、自分でわからないからと抵抗しないで、わからないが故に、その深い世界に身を委ねるのです。

 

私たちの意志の力が、その真理の代わりを出来ると思い上がるとき、「思った通りにならない現実」があなたを不幸にします。

 

意図してやって失敗した場合に自分を責めて、意図しないで手に入れた幸運の方は素直に喜べない、

というのは不幸なことじゃないですか。

 

自分の意志とその結果に責任を持つという常識に、あまりにもとらわれ過ぎないようにした方がいいでしょう。

 

自分の意志とは関係なく起きてくる現実の方も、受け入れたり楽しんだりするという余裕も持つことも大事です。

 

そうすれば、社会的に成功した人にあこがれと共に嫉妬やねたみを感じ、一方でそれと比べた自分を責めてしまうような不幸な循環に陥ることも少なくなるでしょう。

 

画家にばかりあこがれて、額縁の職人では不満だと思うのが、そのような考えがもたらす結果なのです。

 

あなたにとっての「彫刻」の腕を見落としたり、価値がないと思って邪険にしてしまっていないでしょうか?

 

「やった通りに」なっている現実を素直に見て、その価値をもっと見直してみてはいかがでしょうか。





★眼明らかなれば、途に触れて皆宝なり
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=125733767506576>

心暗きときは、すなわち遇(あ)うところ、ことごとく禍(わざわい)なり
眼(まなこ)明らかなれば、途(みち)に触れて皆宝なり

空海「性霊集」

 

 

自分のこころが落ち込んでいたり、疑心暗鬼になっていれば、

 

その人が見る世界は危険がいっぱいの不安だらけの世界になってしまいます。

 

しかし、その同じ世界、何も変わっていない世界も、自分のこころが清らかで澄んでいれば、

 

見るもの聞くものがことごとく自分を豊かにしてくれる素材に見えてくるものです。

 

あなたが他人を疑っているとき、まわりにいる人はあなたを騙そうとする人に満ちあふれているように見えます。

 

まったく油断のならないのがこの世の中であると感じるのです。

 

 

あなたが自分ばかり損をしている、自分ばかりこき使われていると思っているとき、

 

まわりの人は楽ばかりしている様に見えますから、あなた自身の望むこともどうやってサボるかというずるい考えになってしまいます。

 

実際は、「自分が手を抜こうと考えているから、まわりの人が同じことをしている様に思える」という順序なのかもしれません。

 

あなたがうまく人を操ることができれば、利益を上げるのは簡単だと考えていれば、まわりは簡単に騙されそうな人達に見えてきます。

 

しかし、そんな考えにとりつかれているあなたは、気がつくと詐欺まがいの話に乗って、自分が騙されていることになるのです。

 

まわりが敵ばかりだと感じている人は、その人を助けようとしている人も拒絶してしまいます。

 

番犬は見知らぬ人に出会えば吠え立てますが、敵ではないことがわかれば攻撃をやめるのです。

 

もはや排除しなければならない存在ではなくなるからです。

 

やたらと吠えようとしている自分に気づくときはないですか。

 

 

 

一方で、あなたが世の中の人を信頼できているとき、いまの現状がうまくいっていなくても、そのうち何とかなるものだと世の中を信じることが出来ます。

 

あなたが被害妄想に陥っていなければ、他人から批評も自分へのアドバイスと聞き取ることが出来ます。

 

応援の言葉は何か企んでいるなどと思わずに、素直に賞賛として受け取る事が出来るでしょう。

 

周りにいる人達は、すべて自分と同じチームの仲間だと信じることができるのです。

 

 

そんな濁りのない心の眼でいるとき、たとえつらい出来事に出会っても、自然の流れの中での一つの変化でしかないと受け入れる事も出来るでしょう。

 

それは、自分の都合のいいように解釈しようというような、小手先のごまかしとは別のものです。

 

比較することで「自分の方がまだましだ」と考えるような、相対的な解釈でストレスをかわそうとするやりかたでは、同じことが続いたりすればすぐに耐えられなくなってしまいます。

 

相対的な見方ではなく、絶対的な意味で、嬉しいことを嬉しいと感じ、悲惨なことはそのまま悲惨さを受け取るのが「眼明らかな」見方だと言えるのでしょう。

 

いまの自分のこころはどのような状態でしょうか?

 

もし暗さが見え隠れしていると思うのなら、自分の中の明らかな眼を使うことを考えましょう。

 

自分の世界の見え方を裏返してみれば、その暗さの原因はすぐに見つかるでしょう。

 

しかしその原因を取り除こうというやり方は、多くの場合効果を生み出しません。

 

原因となっている自分と同類の自分がいくら考えても、同じ場所から外を眺めていては、抜け出すのは難しいからです。

 

そのような見方をしている自分を、きっぱりと切り捨てて、自分の「明らかな眼」を使おうと決心することです。

 

手垢にまみれていない新鮮な視点から、まっさらな世界を見直してみましょう。

 

あなたのこころが映し出された結果である「禍」と、現実の「禍」は区別しなければなりません。

 

いつもあなたを恐れさせているのは、現実の「災難」ではなく、あなたの想像が作りだした架空の「災難」なのです。

 

そうすれば、かつては疑いを知らずに見ていた希望に満ちた世界は、今もそこにそのまま存在していることを発見できるでしょう。






★心得たと思うは、心得ぬなり
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=126921787387774>

心得たと思うは、心得ぬなり。

心得ぬと思うは、心得たるなり。


蓮如

 

世の中には、ずいぶん確信を持ってものごとを語る人がいますが、「絶対まちがいない」という言葉を多用する人はどうも信じたくなくなってしまいます。

 

もちろん状況によっては、曖昧な言い方ではなく、確信のある言葉を相手に言ってあげないといけないということもあるでしょうから、一概には言えないと思います。

 

しかし聞いていて特定の前提を絶対視していると感じたら、どんなに魅力的に聞こえても偏りがあると疑ったほうがいいかもしれません。

 

そんなに確信を持って言えることは世の中にないはずです。

 

過去にとらわれ、未来を予測することの出来ない人間にとって、確信を持って信じたいという願いがありますから、信じたいから信じてしまうということがあるわけです。

 

「心得たと思うは、心得ぬなり。」とは、自分はもうすべてわかったと言い切るような人は、実はわかっていないのだという意味です。

 

ものごとは深く知れば知るほど、最初に思っていたほど確信をもって断定できるものではないことがわかってきます。

 

何の分野の専門家でも、やっていくうちにわかることの限界ということが見えてきますから、そのあたりを心得ていて、不用意に断定する言葉は使わないものです。

 

それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということです。

 

なまじ聞きかじりの知識を持った人ほど、自分はわかったつもりになって断定的な物言いをしたがるものなのです。

 

私たちは、自分の詳しく知らないことについては、専門家が言うのだから正しいに違いないと思いがちですが、そこには、せめて専門家には確信を持ってもらいたいという願望が含まれているのかもしれません。

 

だいたい何かの分野を掘り下げたことがある人なら、わかることには限界があることが見えてくるわけですから、そこから類推して、他の分野であってもいくら専門家でも限界を持っているだろうと想像がつくわけです。

 

ところで、断定的な言い方をする人は、「心得たと思って心得ていない人」の場合もありますが、職業的な必要性から断定的に言わざるをえない人の2種類が考えられます。

 

例えば患者を安心させて気力を持たせるために「大丈夫ですよ」といってみせる医者のような立場の人が考えられますね。

 

あるいは、何かを販売するために「当社の商品なら絶対です」と言い切ってみせないといけない、という立場に置かれた人も考えられます。

 

 

断定的な言葉や「約束します」が満載の本は、一見魅力的には見えますが、期待して読んでみると、薄っぺらで結局何も得るところがなかったということもあります。

 

中途半端な知識を得て、やたらと確信のある言い方を撒き散らす人には注意した方がいいでしょう。

 

それを見分けるには、相手が何を前提にしているかを見ぬくことです。

 

その前提を明らかにしていけば、たいていはそんなことを断定できるはずがないことが見えてきます。原子力の安全神話も、実は起こりうることも、起こるはずがないという前提にしていたことがばれてきました。

 

また「私はいろんな経験をしてきましたから、これは絶対大丈夫です」と言われる場合があります。

 

その人が実際に経験したと言われたら信じたくなってしまうものですが、その人の経験はあなた自身に全部当てはまるかどうかはわからないのです。

 

「未来は誰にもわからない」という弱みがありますから、人はそれを保証すると言われると、嘘でもいいから信じたくなるものです。

 

だからこそ、何かを信じる前に、それを信じるのは根拠があるからなのか、それとも信じたいからなのかを自分に問いかけるべきなのです。

 

確信がもてない状態を抜け出したくて、何かを信じたいという思いを持ちたいものですが、だからといって断定的な言い回しを簡単に信じてしまうのは注意した方がいいでしょう。

 

はっきりと騙されたと分かるような詐欺に引っかかることは、もちろん避けたいです。

 

しかし、その後の人生を苦しくしてしまうような信念、思い込みを植えつけてしまうことの方が、むしろ被害は大きいかもしれません。

 

すぐに不安を解決してくれると謳うものに飛びつかずに、不安なままの自分と向きあって、自分が本当は何を求めているのかを自分で見つけることが大事なのです。

 

そして、それが誰であろうと、「何の不安もなしに確信を持てるようなことは、そうそう世の中にはない」のだと知っておいたほうがいいでしょう。

 

知れば知るほど、絶対的な確信など持てないものであるということがわかってきます。

 

それと同時に、自分には知らないことがいっぱいある、ということをわからせてくれるものです。

 

それが「心得ぬと思うは、心得たるなり。」ということなのでしょう。


 


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生き方020:思った通りにはならないが001

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何も失いたくない人たち

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自己の心理019:何も失いたくない人たち001

やるぞ


★何も失いたくない人たち
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=262871433792808>
 

頑固な人とはどういう人でしょう。

 

一度決めたことを決してくつがえさない人ですね。

これはそう決めたのだから、例外は許されないという人です

 

自分に対しても、他人に対してもルールを守ることを要求します。



そういった人の多くは、何かを手に入れることよりも、今持っているものを失わないことにこそ意義があると考えがちです。

 

ある日、これが決定事項だと決め、決定済みのハンコを押します。

それ以降は、この書類に書かれていないことはやってはならないのです。

 

これさえ守っていれば、新しいものは入ってこないにしても、少なくとも今持っているものを失うことはないだろう。

 

失うことは、敗北である。失わないでいることが勝利であると思っているのです。

 

その人たちには、現状維持とは、ちっとも否定的な言葉ではなく、理想的な状態になってしまうのです。

 

彼は、「何かを獲得できましたか?」と聞かれると、それは何を意味する言葉だろうと考えます。

そして、「少なくとも、何も失わずにいられましたよ!」と答えるのです。

 

ですが、作為的な現状維持とは、不自然な行為です。

 

「自分は今の時点から何も変化しない」ことを前提にしていなければ、現状維持を理想だと思わないでしょう。

 

何かを失うこともまた、自然な流れであり、失わないことを信条とするのは、自然をせき止める行為です。

 

それは、常に変化していることが生きていることだということを忘れた、生きることを否定するやり方です。

 

頑固でいることは、大変です。

 

じっと身体を動かないでいなさいと言われているのと同じようなもので、すぐに窮屈さを感じだし、肩がこってきます。

 

ですが精神的な頑固さとは、今のまま動かないことが、失わないことであり、勝利であると考えるのです。

 

ですから、変化を拒みます。

決定済みの書類にないことは、断固拒絶するのです。

それがどんなに自然な変化であってもです。

 

たとえば、道を歩くうちに、果物が実った木に出くわします。

「ああ、おいしそうだ!ひとつ食べてみたい」と思うのは自然でしょう。

現代では、自然に果物が放置されてなどいないと言いたくなる人のために、店先に展示してある果物を見たことにしてもいいですよ。

 

ですが、頑固で現状維持の人には、そんな偶然のイベントは計算外です。

そんなことは、私の書類には載っていないから、無視して先に進もうと思うのです。

「道端の余計なものに目を奪われるな、何かをなくしてしまうぞ!」と戒めと恐れを振り払う行動に出るのです。

 

ですが、このようなイベントを偶然だと思うのなら、まさに生きることとは、ミイラになることと変わらなくなってしまいます。

永遠に今の自分のまま生き続けるのだと、言っているのと同じです。

 

さて、今まで書いてきたこととは、極端な話に聞こえるでしょうか。

 

ですが、決定済みのハンコは、私たちもいたるところで押しているはずです。

 

時にはそれが自分を守ってくれます。

 

しかし多くの場合、固定したルールは融通が利かなくて、私たちを錆び付いたメンテ不足の車のドライバーにしてしまいます。

 

自分でも「なんでこんなに融通が利かないの?」と呆れる時があるでしょう。

それが、決定済みのハンコの呪いなのです。

 

かつては自分を守ってくれると思って決めたルールが、いまは自分を呪縛するばかりになっているかもしれません。

 

気がつく程度ならまだいいのですが、時にはなぜかはわからないけれど、「そんなことしようと思うなんて、なんて恐ろしいことを!」と声にならない声で自分を金縛りにしてしまいます。

 

嫌な気分になる時には、過去の決定済みのルールと、目の前の現状にあった行動(それはやろうと思えば出来てしまうのですが)の対立が起きているのです。

 

やろうと思えばいくらでもできると思っている自分がいるから、それをやってはダメだと縛る自分との対立が激化し、相反する衝動のぶつかりが自分を嫌な気分にさせます。

 

「なんで思い切ってやらないんだ。いくじなし」とけしかける自分と、

「だまされるな。こんなことをやったらひどい目にあって後悔するぞ」と主張する自分の対立。

 

これは、おなじみの嫌な気分をさそうので、気がつかなかったふりをしようとします。直面するのは嫌だからです。

 

しかし、それでも収まらないと、こんな気分にさせるのは「誰のせいだ?」という作戦に切り替えるかもしれません。

探せば、誰かしらスケープゴートになる人は存在するものです。

 

今までの安定を失いたくないという気分を優先するあまりに、失うことの怖さが、現状にそぐわなくなってもあなたを縛っているのです。

 

それは、実際に手放すことによって起こる現実とはかけ離れてしまっていることのほうが多いのです。

 

「失う」という言葉に過剰に反応せずに、気軽に手放してみましょう。

「なんだ、怖いことなんか何もないじゃないか!」

そう思えたとき、ひとつの開放が待っています。



★問題を作り出しているのは誰でしょう
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=264721386941146>

 

「変わらないこととは和解しましょう」

 

変えられないことに抵抗することは2つの点で問題があります。

1つは解決しないから時間の無駄であること。

もう一つはさらに無駄なことに、それが問題を強化してしまうことです。

 

たとえば、あなたは過去の自分が許せない。

あれはそうであるべきではなかった。

もっと別のことが起きていれば良かったのにと思います。

 

しかし起きたことは変えようがありません。

過去を変えてしまう魔法はありません。

 

過去はあなたの心の中にあります。

心の問題なのですから、そのまま受け入れるしかありません。

過去を認めて和解しましょう。

 

あなたはどう考えたところで、過去にそういう人間であったのです。

それは今でもあなたの一部なのです。

和解して共存するしかありません。

~~~

 

さて過去とのつきあい方はともかくとして、新しい問題を作りださない方法を考えましょう。

 

それは、問題を作り出しているのが誰かを探ることです。

 

あなたが不安や恐怖を感じているとき、それが誰であるかを探るのです。

不安や恐怖は、あなたが何かに依存するときに生まれてきます。

 

なにかが無いと困ると思っている、そのあなたは誰でしょうか?

 

あなたが「ねたみ」や「やきもち」を感じるとき、それが誰であるかを探るのです。

他の人があなたの欲しいものを持っていれば、あなたはそれをねたみます。

それが他人への依存であれば、あなたは「やきもち」をやきます。

それを欲しがっている自分とは誰でしょうか?

 

 

それがたとえ重大な問題であろうと、些細な問題であろうと、原理は同じです。

あなたの期待が、その裏返しとして問題の感情を作り出すのです。

 

欲しがっている「わたしの想念」を見つけてそれを受け入れるとき、あなたの本来の自己が顔を出します。

 

問題は、「わたしの想念」が作り出していたことに気づきます。

本来の自己には、何も問題が無いことに気づきます。

 

あなたが見つけた「わたし」が存在しないとき、問題はもともと存在しなかったことを発見するのです。

 

しかし、あなたが本心から本来の自己を探求しないとき、それは根本的な解決にはつながりません。

 

あなたが、いま目の前の問題を消し去るためだけに、「わたし」を見つけようとするとき、それは、新しい「正しいわたし」と「間違ったわたし」を定義し直すだけだからです。

 

このときあなたは、この「わたし」をあきらめることにする、ただし「これだけは譲れないけどね!」という別の「わたしの想念」を行為者として堅持し続けるのです。

 

どんな条件もなしに、手放した後の平安を感じられるなら、それが条件付けられていない本来の自己だとわかります。

 

まだ不安が残るのは、まだ手放せない「わたしの想念」が残っているということです。

 

もともと持っていない自分を作ろうとしているなら、それは本来の自己ではありません。

それは、かならず新しい別の問題を作り出します。

それでは、堂々巡りになるだけです。

 

疑うわたしとその源泉を見つけ出せば、その疑いはやむでしょう。

その源泉をたどっていけば、何も疑わない本来の自己にたどり着くことになるでしょう。

 

自分で作り出さないかぎり、本来何も疑いはなく、無条件の平安が存在することに気がつけます。

 

時として、あなたのまわりの文化は、これはどうしようもない問題だと教え手放すことに不安を植え付けます。

 

しかし、あなたが源泉まで遡って問題がないと確信すれば、それにしがみついている必要はありません。

 

あなたは、ダイエットやメタボ対策といった健康管理には気を配るけれど、あなたを苦しめる信念には無頓着なのかも知れないのです。

 

それは、作られたものではなく、本来あなたが感じていた自己であり、時として日常にも顔を出していたあなたそのものです。

 

それを取り戻すのは、あなたの正直さとあなたの真剣さにかかっているのです。





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サービス1~人間関係の悩みや、このままの私でいいのだろうか?自信が持てない。ちょっと一押しが欲しいなと思ったら|心の悩み・健康|ココナラ

解釈しなおしてみたら

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自己の心理018:解釈しなおしてみたら001

phm23_0098-s


★楽しいことは当事者意識で
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=216044895142129>


 

いつも楽しそうな人がいる一方で、いつも気分がふさぎがちな人もいます。

 

つらさを感じやすい人というのは、シリアスな問題について自分のこととして、主観的に関わりやすい傾向があるそうです。

また逆に、楽しい出来事に関しては、傍観者として体験してしまう傾向もあると言われます。

 

この様な傾向があるとすると、その人は楽しかった出来事はあまり実感を持って感じられないし、深刻な問題に関しては自分が密接に関わる問題として感じてしまう訳です。

 

そうです、もう一方のいつも楽しそうな人には、その逆の傾向が見られるわけです。

 

ですからつらいと感じる人は、逆のことをすればいいわけですが、習慣というのはなかなか変えるのが難しいものです。

 

ただ、今やっていることをいきなり変えるのでなく、今まで起きたことを再体験してみるという方法は、比較的やりやすいかも知れません。

 

つまり、たとえば楽しかった出来事を思い出して、その時のことをリアルに思い出し、楽しさをもう一度経験し直してみるのです。

 

ところで、いつもつらさを感じる傾向のある人は、楽しい記憶がなかなか思い出せないと感じるかも知れません。

 

それは前述の様に、傍観者的に体験してしまうのが原因かも。

その人にだけ、楽しいことが起こらず、いやなことばかり起こっているということは考え難いことです。

 

他の人と同じように楽しいことも起きているのに、それを充分に実感していないために思い出しにくいと考える方が当たっているのではないでしょうか。

 

ですから、一日を振り返って、楽しかった出来事を思い出してみましょう。

 

そして、見つかったら、出来るだけそれをリアルに再現してみましょう。

これには、出来るだけ五感を全て動員する方がうまく再現できます。

 

それが起きたのはどこですか、そこには誰と誰がいましたか、

そこでは何を話しましたか、何を聞いたのでしょう。

そこではどんな香りがして、どんな味がして、何を手に取ってみたでしょうか。

 

出来るだけリアルに、その場にいた当事者として感じ取ってみます。

楽しさを思い出せたでしょうか?

 

今度はもう一つのシリアスな問題ととらえていたことに取り組みます。

 

あなたはそのことで、自分が加害者であったか、被害者であったと考えています。

その役割を変えて、その出来事を傍から見ている第三者として振る舞ってみましょう。

 

第三者であったなら、あなたはその出来事をどのようにとらえるでしょう。

 

自分や相手を非難することを保留にして、客観的に見てその起きたことはどの程度の問題だったのでしょうか。

 

他の人ならどのように扱うだろうと考えられますか。

 

このように、過去に起きたことを別の立場で振り返ってみることで、徐々に現在起きつつあることへの対応の仕方も、変えられるのだということが見えてくるでしょう。

 

最初は不自然に感じられても、当事者と傍観者の立場を入れ替えて体験してみるのです。

 

なぜ自分には楽しいことが、おぼろげにしか残らないのか、

なぜ自分にはつらい問題が降りかかってくるのか、

 

その答えが見えてくるかも知れません。

 

つらいことは、客観的に観察して対処しましょう。

そして、楽しいことには、主体的に関わりましょう。

 

それをしないのは習慣です。誰もあなたにそれを禁止してはいないのですから。

 





★解釈しなおしてみたら

<https://www.facebook.com/note.php?note_id=226086487471303>

私たちは、過去の様々な経験のなかで、思い出すのも不愉快だったり苦痛だったりする経験や、ひどい場合はトラウマと呼ばれる様な経験を抱えているものです。

 

ところがこのような体験は、思い出すのもいやなことだから、なかなか本質が見えないままになってしまいます。

 

そして過去の出来事とは言っても、記憶の中に残っているのは、客観的なその事実そのものだけではなく、かならずその出来事に対する自分の解釈がくっついているものです。

 

実は、そのことを不愉快な思い出にしている原因の多くは、この「自分の解釈」の方に含まれていると考えられます。

 

ですから、その過去の思い出を変えたいと思うなら、過去の解釈をそのまま持ち続けるのではなく、いやだと思ってもその出来事と解釈にもう一度取り組んでみるのが早道だと言えます。

 

簡単には取り組めない様な強烈なものでは無く、少しいやな思い出だけど、それで解決するのならと取り組める様なものから試して見ることをおすすめします。

 

たとえば、

仕 事のことで上司からだめ出しをされた。こちらの言い分など聞く余地がない、ひどい一方的な言い方だった。何もそこまで言うことはないのに。それにじゃあど うすればいいのかなど一つも説明してくれない。自分なら出来るのか。こんなやり方で、部下が動かせると思っているのだろうか。こんな上司は、どこかに飛ば されてしまえばいいんだ。もう顔もあわせたくないよ!これからも毎日こんな職場で仕事することを考えると耐えられない。もっといい上司のいる職場に行きた い。会社に行くのが憂鬱になってきた。なんでこんな目に遭わなくてはいけないんだ。自分はこの仕事に向いていないのだろうか?

などなど。

 

あって欲しくはないですが、このような出来事はたまに見かけることではないですか。

そう思えたら、その時あなたは第三者的な見方が出来ていますね。

 

そういった見方で、この例を考えてみます。

 

客観的にみて起きたこと

・上司が部下に仕事のできがよくないと批判した。

・批判の仕方は、部下が不快に感じる様なやり方だったようだ。

・もしかすると、上司の指導方法は改善の余地があるかも知れないが、部下の思い過ごしかも知れない。

 

先ほどの解釈では、後の方になるにつれ、あなたの主観から来る解釈の部分が多くなってきています。そしてこの部分があなたが思い出すのもいやな記憶に作り上げている部分だと言えるわけです。

 

その時はカチンと来たかも知れませんが、それをいつまでも引きずらせているのは、付属して付いてきた解釈の部分だと言えるでしょう。

 

案外、根本にあるのは、「お前が先に謝らなければ許さない」といった子供っぽい気持ちだけかも知れません。

 

 

本当にどうしようもない上司がいるものかも知れませんが、だとしてもあなたがそれで悩むのはばかげています。

 

上司を変えてくれないなら仕事をしない、と言い切るほどの行動を起こせるのなら別ですが、一般的には解釈を変えることで解決できることが殆どでしょう。

 

解釈を変えれば、あなたの上司を見る見方も変わってきます。

上司の方でも、やり方がまずかったと感じているかも知れないのです。

 

出来事としての現実は変わらないけれど、それがもたらしたあなたの解釈、捉え方というのは、変えていけるものです。

 

ストレスとして、いつまでも抱えていくかどうかはあなた次第です。

こんなことで悩んでいたのかと笑い飛ばして、どうせならもっといいことにエネルギーを使いましょう。





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自己の心理018:解釈しなおしてみたら001

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こころのゆとり/あまりに物な欲しがりぞ

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生き方019:こころのゆとり/あまりに物な欲しがりぞ001

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★こころのゆとりとは
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=173452006068085>


毎日何時間もパソコンに向かって作業しています。

 

検索エンジンを利用すれば、目的の情報はおもしろいように手に入ります。

必要な情報のみを取り出して、さらに調べていくことも出来ます。

実に効率のいい世の中になったものです。

 

しかし、目的を追求することは、目的に合わないものを容赦なく切り捨てていくことです。

ときどき、そのようなやり方に、余裕のなさを感じて、関係ないことを調べて見たくなります。

 

少し前に、パソコンソフトの講習を行うための講座を受けたことがあります。

有名なソフトを使いこなすやり方を教えるのですが、やはりそこにはそのソフトの検定試験というものがあるわけです。

 

そのような講座を受講する人の中には、当然ながら検定試験を目指すという人が、多く含まれます。

 

検定試験は、そのソフトを使いこなすことが目的に作られていますが、そこでは最短の手順で、一番効率よく使えることが正解になります。

 

試験というものの宿命かも知れませんが、個性的なソフトの使い方など評価されず、ソフトの構造に忠実に従って、最も効率のいい模範的な手順を覚えないといけないのです。

 

「どうして、誰かの考えたメニュー階層に従って使わないといけないんだ!」

わたしは、こんな反発を感じてしまいました。

ソフトの開発をやっていた人間だからの偏見があるのかも知れませんが。

 

しかも、バージョンアップするたびに、気まぐれとでも言いたくなるようなメニューの構成の変更があります。

そのたびに、お金を払って試験を受けて、お金を儲けるそのソフト会社に忠誠を誓わないといけない仕組みなのです。

 

最短の手順で効率よく目的を達成する、もちろんその意義は認めますが、なにか釈然としないものを感じてしまいます。

別にソフトなど、自分のやり方で使いこなせばいいだろうと思ってしまうのですが。

 

おそらく、ここで感じる反発とは、「自分のやり方」に価値がなく「模範解答」が正解というところや、目的へ最短距離が価値があるというところにあるのだと思います。

 

 

徒然草にこんな話があります。

 

こ ういういなか者が賀茂の祭を見るときはみっともないね、「行列がおくれている。くるまでは桟敷にいることはないぞ。」といって、奥の間で食べたり酒を飲み ながら囲碁・双六の遊びにふけり、桟敷には見張りをおいて、「行列がきた。」ときくと、大さわぎで先をあらそって桟敷へ上がり、落ちそうになるまですだれ を押しだして、おしあいへしあい、すべてを見落とすまいと見物し、「ああだ、こうだ。」と批評して、行列が終われば、「またつぎの行列がくるまでおくにい よう。」とひっこんでしまう。

こういう連中は行列そのものだけを見ようとし、その前後の雰囲気をあじわおうとしない。

 

徒然草 第百三十七段より

 

 

兼好は、無粋な人間は、いなか者と見なしていたのは、おもしろいですね。

 

「目的だけをゲットしたい」、少なくとも兼好はこういう風情のなさを嫌ったわけですし、目的の合間にあるものに価値を見いだしていたようです。

 

「目標まで最短距離」を売り文句にしたがる社会ですが、そんな中に生きる私たちも、兼好から見れば目を覆いたくなるような「いなか者」に見えることでしょう。

 

そして、目的の合間に潜む大事なものをなくしてしまいたくないものです。

 

 

最後に口直しに、同じ段から引用してみましょう。

 

す べてのことは、まっさかりよりも、始めと終わりがいいんだね。男女の恋も、その恋がうまくいくことだけがいいのではない。恋がうまくいかないつらさを味わ い、長続きしなかった恋をなげいたり、長い秋をひとりさびしく過ごしたりさ、遠くはなれている恋人を恋しく思ったり、あるいは草がしげり荒れはてた家で、 むかしあった恋人のことを思いだしたりね、そういうことのほうがしみじみといいんですよ。

 

徒然草 第百三十七段より

 

 

「引用」

徒然草・方丈記 (少年少女古典文学館) 嵐山 光三郎 三木 卓 講談社 / 1992-04-09

 



★至道無難(しいどうぶなん)
- 私の悩みの元は?

<https://www.facebook.com/note.php?note_id=174697342610218>

至道無難・・ 至道(しいどう)は無難なり

 

唯嫌揀択・・ 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う

 

纔無憎愛・・ 纔(わずか)に憎愛無くんば

 

洞然明白・・ 洞然として明白(めいばく)

 

一般的に悟りを開くということは、大変な修行を伴い苦修錬行があって容易に得られるものではないと云う受け止め方をされるが、仏祖の大道と云うのは何の難きものではないのだ。

 

唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ。その揀択がいけないのだ。

 

わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう。

 

だが、いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である。

 

今まで妙法といい、如来の真実義は百千万劫に遭い難しなどと云われ、その仏道には深遠な哲理があり、至難な実践がなされなければならないという思い込みがあった。

 

だが、そんな既成の観念を打ち砕き、何にも難しく考えることはいらないよ、悟りに至るのは実は簡単なことなんだよと一蹴してしまう言葉が「至道無難」である。

 

禅語に親しむ より

 

 

ところで江戸時代初期の禅僧であり、至道無難(しどうぶなん)を名乗った人がいました。

 

無難は師である愚堂禅師から「人間本来無一物」の公案を授かります。

 

無難は、この公案に30年間取り組んだ末、47歳の時、無一物を徹底できたと回顧しています。

 

そしてその時に出家するのですが、そこで愚堂から授けられた号が至道無難であったということです。

 

その無難の説いた言葉に次のようなものがあります。

 

凡夫めら あまりに物な欲しがりぞ

我が身さえ我が物ならぬぞよ

殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて

何もなき時 人の師となれ

身の業の尽き果てぬならば何も無し

仮に仏というばかりなり

何もなき心を常に守る人は

身の災いは消えはつるなり

 

至道無難 より

 

 

無難は「無一物」を徹底した、言い換えれば人間にとって悩みの根源が欲であることを見抜いていました。

 

「殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて」でいっているのは、私(エゴ)を無くせということです。

 

私たちは、いつも「私(エゴ)がやったこと」が自分の生きた証しだと思っています。

 

自分の力でやり遂げてこそ生きがいを感じるのだ。

自分の選択こそが、私の存在する意義だと思っています。

 

確かに、結果を振り返った場合には、そのように見えることもあるでしょう。

 

しかし「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源でもあるのです。

 

結果的にあなたが人の役に立てることや、為し遂げたことを振り返るのはいいとしても、行動しているときには「私」がやっているのだと思わない方がいいのです。

 

一度「私(エゴ)がやったこと」とは何かを振り返って見るといいでしょう。

 

私がやったと思っていても、実は周りの人達に支えられて初めて出来ていることに気づいているでしょうか。

 

今日一日を振り返って見て、どれだけ本当に「私の力」でやり遂げたことが見つかるでしょうか。

 

このところ話題は「iPad」ですが、あなたが発売初日に何時間も並んで苦労した末でiPadを手に入れたとします。

 

やっと苦労して私は「iPad」を手に入れたといいます。

これこそ私の行為だと思うのです。

 

しかし「iPad」は、あなたが作ったわけではありません。

またメーカーが「iPad」を作り出すためには、それが生まれるだけの時代の背景が必要でした。

 

そしてあなたが「iPad」を欲しいと思ったこと自体、いろんな情報に影響を受けて思ったことです。

 

このように見たとき、私の意志など、どれほどかかわっているのでしょうか?

 

 

なにも、このような豊かな時代に生きていて、その恩恵にあずかるなということをいっているわけではありません。

 

別に私は禅僧になるつもりはないから関係ないよ、と思わずに考えてみて下さい。

 

時代がどうであろうと、やはり「私(エゴ)がやったこと」にとらわれることが、私たちの悩みの根源なのです。

 

「私」を捨てて、我が身を殺したときに悩みのない世界が開けるということです。

 

あなたは「私」を捨てられた分だけ悩みから解放されるのです。

 

・「私」が結果を左右できると信じていることが、あなたをやきもきさせるのです。

 

・「私」が大事にしているものが、なくしてしまうことへのの恐れを作ります。

 

・「私」の主義を守るために、反対する人間を攻撃したくなるのです。

 

・「私」の会社を悪く言われると腹が立ち、その会社が私を大事にしてくれないことでまた悩むのです。

 

・「私」の意見を批判されるのを恐れ、その一方で意見を主張できない自分を責めるのです。

 

・「私」が嫌われることを恐れて、自分の正直な行動を差し控えます。

ちょっとしたことでもやって大丈夫だろうかと気になるし、やらずじまいに終わったら、それでまた自分を責めたくなるのです。

 

・「私」の思ったことを気軽にやると失敗するのではないかと恐れ、軽くやってのける人をみると人生の辛さを知らないんだと批判して自分を正当化したくなります。

 

・「私」は人に与えているばかりだと思い込み、人から受け取っていることがなかなか見えてきません。

 

・「私」の生き方を変えるのが怖いので、これしかないとしがみつきます。

 

 

もっとも「その煩わしさに生きがいがあるんだ」と仰るなら、それもまた生き方ですし、それはそれで正しいことなのでしょうが。




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見るのを避けていたこれらのこと

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心理療法004:見るのを避けていたこれらのこと001

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★ありのままに、そのままのサイズで
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=134257576654195>

苦 しい考えの本質を一度理解してしまうと、次にそれが浮かんだときには、あなたはそれをおもしろいと思うかもしれない。かつては悪夢だったものが、今ではた だおもしろいのだ。その次にそれが浮かんだときには、あなたはそれを滑稽だと思うかもしれない。その次のときには、もう気づきもしないかもしれない。これ が、あるがままを愛することの力だ。

バイロン・ケイティ

 

さらに続けて言えば、一度この変化が起きることを経験すれば、次からはもっと容易に変化の可能性を信じられるようになります。

 

そして、いくつもそのような経験をすれば、ありのままの正体を知ることの重要性を信じるようになるでしょう。

 

また、それと並行してごまかしのテクニックが、いかにくだらないものかを知ることになります。

 

ではなぜ最初から本質を見ようとしないのかといえば、次のことを充分に理解していないからです。

 

「現実は怖いものではない。現実だと勘違いしているものだけが怖いのだ。」

 

これが意味するのは、こういうことです。

 

想像するのも嫌だと思うことは、考えることすらやめようとして封印してしまうのです。

たとえば、「いまのこの幸せな家族の誰かが、突然にいなくなったらどうしよう」

といったことです。

 

考えても無論わからないし、考える事すら怖ろしいと思って封印しようとするのですが、それが恐怖を無意識に大きなものに育ててしまいます。

 

忘れたつもりでいても、心は覚えていてどうしようかと考え続けています。

 

起こるかどうかもわからないこと、単に可能性があるだけのことも、恐れ出すと将来そのことが起きた場面を想像の中で作りだして、まるで実体験してるかのように恐れの幻想を作りだしてしまいます。

 

考えて見てください、可能性があるというだけで怖がっていたら、無数の怖い可能性がいくらでも出てくるでしょう。

 

そんなことを考えもしない可能性がある一方で、特定の可能性だけを怖がることのばかばかしさに気づくことです。

 

そのうえ大抵のことは、実際に起きてしまえば人はそれなりに耐えてしまうように出来ています。

むしろ作りだしてしまった恐れの方が、実はずっと実質的な害を与えているものなのです。

 

かつての悪夢は、やがて笑い話にすら変わってしまうものです。

 

つまり、恐れを抱えているなら、出来るだけ早く勇気を出してその正体をつかんでしまうことです。

 

「最悪こうなる」という事実も、それを隠してしまおうとしなければ、そのままのサイズの衝撃でしかなくて、いつまでも悪夢のように負担をかけることはありません。

怖いから曖昧にしようとして、ちゃんと見るのを避けるから呪いにかかってしまうというわけです。

 

怖さが残りそうなら、さっさと飛び込んでしまうことが有効な場合も多いでしょう。「見る前に飛べ」と言うしかないことも中にはあるものです。

 

痛みを一時的にごまかすようなやり方は、むしろ恐れを大きくする助けになってしまう可能性すらあるのだと思った方が良いでしょう。

 

「ありのままに、そのままのサイズの現実を、そのままのサイズで受け入れてしまう」というのが結局は最良の策なのです。

 

 

最後に追加として、このような文章を読むと、なるほどその通りだと思うのですが、いざ現実の自分の問題となると別世界に入ってしまう人がいます。

 

自分の問題は例外だ、これは特別だからあてはまらないと無意識に思ってしまうのです。それでは意味がありません。

 

それこそがこれに当てはまる問題だという目で見直してみましょう。

そうです、今ちらっとこころをよぎったその問題がそれなのです。

 

 



★批判したくなる相手にあなたを発見する
<https://www.facebook.com/note.php?note_id=133210833425536>

あまり気が進まないワークです。

不愉快になるかもしれません。。

 

しかし成果は画期的なものになる可能性があります。

自分の不機嫌さの原因を笑えるようになったとき、世界は違って見えてきます。

 

 

あなたは、他人の行動にいらだったり、批判したくなることがあるでしょう。

 

そんな相手を見た途端に、あなたは何か批判の言葉を言いたくなるのです。

 

なぜそれが、あなたをいらだたせるのでしょうか。

 

それは、誰が見ても批判したくなる行動ですか。

 

それとも、あなただけが、そう感じるのでしょうか。

 

 

 

そんな他人の中に見る、あなたの嫌いな部分は、実はあなたがもともと持っていたものかも知れません。

 

あなたの一部分だった、そのような行動を、何らかの理由で封印したり、捨て去ってしまったのかも知れないのです。

 

それでなければ、他人の中に見たその行動に、いらだちを感じる必要は無いのですから。

 

ですから、それはあなたの失ってしまった一部分かも知れません。

 

なぜそれを嫌うのでしょう。

なぜそれを見ていらだちを感じるのでしょう。

 

それを探ってみるのは、有意義なことかも知れません。

 

いやな行動を、あえて感じたくないと思うかも知れませんが、それによってあなたを取り戻す助けになるかも知れません。

 

ですから、まずはあなた自身が、その行動を自分自身で演じてみるのです。

 

その行動をあなたが演じてみて、

 

どのような感じを持つでしょう?

何かを思い出しますか?

誰かがそこにいますか?

なぜ嫌っているのか、何かに気づきますか?

 

そのことで、誰かを傷つけたりしたのでしょうか?

 

それとも、あなたがその行動を取ったことで、まわりの誰かが機嫌を悪くしたのでしょうか?

 

 

 

なにも正確な起源を思い出す必要はありません。

 

あなたがそれで、どのように感じるかを、体感してみることが大事なのです。

 

それは、いま目の前にいる、嫌いに思った相手とは直接は関係ありません。

また、その人との関係を、どうこうしようと考えるのでもありません。

 

そのように考えてしまうと、自分の期待で、本当の感じ方を見失ってしまうかも知れません。

 

ただ、その仕草を、行為を、自分で演じてみることです。

 

どのような感じを持つでしょう?

何かを思い出しますか?

誰かがそこにいますか?

なぜ嫌っているのか、何かに気づきますか?

 

そして、それはかつて、自分の持っていた、自分自身の一部だったのでしょうか。

 

誰かを傷つけましたか?

それは、まわりのあなたにとって大事だった人でしょうか。

あるいは、傷ついたのは、あなた自身だったのでしょうか。

 

演じてみた結果、いまでも、その行為が嫌いでしょうか。

何かいやな感情を引き起こすでしょうか。

 

それとも、かつての自分自身だったことを、思い出したでしょうか。

 

 

 

かならずしも、発見があるとは限りません。

大した理由ではなかったかも知れません。

 

でも、いつまでもあなたが気にかかることであれば、あなたを取り戻す助けになるかも知れません。

 

あなたが本当に思い出すまで、それは繰り返してあなたの前に現れるでしょう。

 

無理をしなくても良いですから、何かを感じ取れるまで、試して見るのが良いかもしれません。

 

その行為そのもの、その言葉そのもの、その仕草そのものに、あなた自身がなってみるのです。

 

無理に結果を出そうと考えを使っては、それを取り逃します。

あくまで、体感してみることです。

 

わかりにくいと感じたら、それを誇張して演じてみるのも良い方法です。

おおげさに、その言葉、その仕草、その考えを演じてみましょう。

 

 

 

もともとあなただったもの、

何かの理由で自分ではないと決めてしまったこと、

 

意地を張っているほど、不愉快に感じるでしょう。

素直になれないときには、聞くんじゃなかったと思うかも知れません。

 

もしかすると、それは今一番嫌っているものかもしれません。

 

それはでも、今でも気になっていること

いつもあなたのエネルギーを要求しているものです。

 

自分のものと認めてしまえば、肩の荷が下りて世界は一変する可能性があります。

 

 

 

 




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ダン・オコナーによれば、

現実的な話、実に世の中の90%以上の人が、無意識の内に
『会話において重大な間違いを犯してしまっている』とのことです。

単純に鵜呑みにしなくてもいいですが、こういったコミュニケーションの
法則や発想は、あなたの発想に刺激を与え、自分なりに吸収すれば、
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