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2012年09月

素直な人はやわらかい

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生き方009:素直な人はやわらかい001

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◆素直な人はやわらかい

素直な人は、自己矛盾に苦しむことがありません。

 

したがって、やったことに対してあれこれ悩むことも少ないでしょう。

 

これは他人から見ても、いい感じを受けます。

 

どこかで自分もこのように素直になりたいという願望があるから、救われた様な感じになれるのです。

 

もし素直な人を見て反発を感じる様なら、その時の自分は、かなり自己矛盾を抱えているのだと思ってチェックしてみるのがいいかもしれません。

 

ところで、素直であるとは、必ずしも「他人の言うことに素直に従う」ということと同じではありません。

 

他人から言われてたにしても、自分で思ったにしても、それが正しいと考えれば方向転換できると言うことです。

 

いったん自分が選択したことが、間違っていたことを認めるのは、誰しもいやなものです。

 

しかし、訂正することで自分の価値が下がるかのような「プライド」を抱えているとなかなか訂正できません。

 

訂正することを自分の存在価値への脅威ととらえてしまうからです。

 

素直さとは逆の意味で、「意固地になる」という言葉がありますが、ちょっとしたことで意地を張ってしまった結果、どんどん素直になれなくなるということがあります。

 

堅くなってしまった筋肉をもみほぐすには、あまり強く押してはいけないそうです。

 

強く押しすぎると、筋肉はそれに耐えられる様になる為にさらに堅くなってしまうのだそうです。

 

意固地になってしまった心も、少しずつ優しい力でこりをほぐしていく必要があるようです。

 

しかし難しく考えなくても、やるべきことは堅くなってしまった過程を逆にたどればいいだけです。

 

そこで話がややこしくなるのは、人にしたがうことを勝ち負けと混同してしまうことにあるようです。

 

素直になることは、自分の素直な心にしたがうということですが、これを他人との関係の中でとらえてしまうために問題が生じるのです。

 

両者は切り離して割り切って考えることです。

 

「私も悪いけどあっちも悪い。」

「自分から折れる必要はない。」

 

そうかもしれません。

しかしその一方で素直になりたい自分もいるのではないですか。

 

自分が折れるとか、負けるとか考えずに、自分に素直になることで手に入る心の平安を優先しましょう。

 

他の人との関係で自分の価値をとらえずに、もっと自分がもともと中に持っているものを信じるということです。

 

こじらせると、どんどん筋肉は固くなってきます。

 

治療にいかなくてはいけなくなる前に、自分で優しくもみほぐしてしまいましょう。

 

素直で力んでいない人を見ると、こちらも心が穏やかになります。

 

素直な子どもの反応を見てこころがほっとするように、自分もこのように素直になりたいという願望があります。

 

そんな気分にしてくれた人を見て、自分も救われた様な感じになれるので、そんな相手に好感をもちます。

 

自分もこちら側の人になってしまいましょう。

 

 



◆出し惜しみをやめておこう

 

道というものは、空の器のようでありながら、

汲み出しても、汲み出しても満ちあふれてくる、

底が見えない万物の源とでもいおうか。

 

老子道徳経 第四章 

 

子どもがおやつを与えられると、ついつい手が出て一気にたいらげてしまいます。

 

しかし、そのうち学習してきますから、「いまもっと食べたいけれど、我慢しないと明日までのおやつがなくなってしまう。あとで我慢しないといけなくなるのもいやだな。」と考えて制限することを覚えてきます。

 

 

サラリーマンの家庭では、給料日前になるとだんだんと出費を控えるようになるかも知れませんね。

 

使い放題を続けてきたから、エネルギー資源が枯渇してしまう、大変な事態だといってエコが叫ばれるようになりました。

 

「資源には限りがあるんだから、取り放題というわけにはいかない。」

 

このような考え方は、私たちのどこかに染みついている考え方かもしれません。

 

先程の老子の言葉のような、いくらでもくみ出せる魔法の源というのは、それこそおとぎ話の世界の話に思えてくるでしょう。

 

しかしこのような考え方も、自分の能力を表現するという場面では事情が違うようです。

 

そこでは、コントロールすることが逆にマイナスに働くブレーキとなる可能性があるのです。

 

つまり、あなたの才能を出し惜しみしないことです。

 

こんなに、一気に使ったら才能が枯渇してしまうのではないかと思って、ついセーブしてしまうことはないでしょうか。

 

「こんないい出来上がりの作品は、めったに出来ないから将来のためにとっておこう」

 

このような考えをするようになってくると、たいてい才能は続かなくなって、そこまでで枯渇してしまうこともあるわけです。

 

それよりも「こんないい出来上がりの作品」だからこそ、どんどん表に出して、次を作り出そうという意欲があるときこそ、もっと上位のレベルへとステップアップ出来る機会を作りだしてくれるのではないでしょうか。

 

それから、出し惜しみをするというのは、いまの能力はすべて自分が作り上げたと考えている傲慢さが隠れているのかも知れません。

 

スポーツ選手などでも新記録を出せたときは、気がついたら達成していましたということも多いものです。

 

 

才能なんていうものは、やっているうちに偶然に見いだされたり、進化していくものだと考えていれば、それらを自分の采配でコントロールしようなど思わないでしょう。

 

このいい結果も単なる通過点に過ぎないと思って、リセットして一からスタートし直せる様な人こそ、思っても見ないスゴイ結果を生み出す人ではないでしょうか。

 

今たまたまいい結果を得られたからといって、それを出し惜しみするようでは、そこまでで上昇がストップということにもなりかねません。

 

それこそ、「子どものおやつ」と同じ発想になってしまうから、自ら限界を作りだしてしまうのではないでしょうか。

ケチケチしないで大盤振る舞いするくらいの気概がないと、新しい才能が生まれては来ないのかもしれません。

 

それと、出し惜しみするのは「限られたものを他の人と奪い合っているのだ」という考えとも結びついてしまいます。

 

自分の分を確保しておかないと、いつなくなるかわかったものでないという不安を作りだしてしまうのです。

それは競争を生み出し、他との比較で自分が一歩先んじることが、やっていること自体よりも重要になってしまいます。

 

無理をしてやっつけ仕事をしてしまえば、だんだん技術が荒れてきます。

その結果世間には質の悪いものが量産されることになります。

 

ある程度の競争は、全体のレベルを上げるかもしれませんが、早い者勝ちの過剰な競争は全体の質を落としてしまいます。

 

惜しみなく自分の能力を他人に提供しましょう。

いま出せるものを出し尽くしてこそ、次のレベルアップがあります。

 

今あるものを使い切る覚悟があってこそ、きっとそれを上回る供給がどこかからやってきます。

さらに上のレベル世界も見えて来るでしょう。




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変わるときには変わるものだ

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生き方008:変わるときには変わるものだ001

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◆変わるときには変わるものだ

子犬をしつけるときに注意することは、誰がボスであるかをしっかり教えることであるそうだ。
子犬を見てカワイイからといって、ついつい甘やかすと、子犬は自分がボスかも知れないと勘違いするから、どちらがボスなのかハッキリさせないといけないのだそうだ。
ところで、子犬はともかく、私たちは自分自身のこころの状態について、ボスになりきれているものだろうか?
自信のあるときには、自分のこころは、自分が思ったとおりに働いていると考える。
しかし、気がつくと感情的に反応して、後悔し落ち込んだ状態で、自分のこころの動きがもたらした結果に気づくことになる。
あるいは、それと気づかないうちに、なんとなく気分が少しずつ憂鬱さを増してくるような、そんな気分になるかも知れない。
もちろん、それぞれの状況を調べて、対策を考えようとしてみるのも悪くはないだろう。
どうにもならないからと、自暴自棄になってしまうよりはいいというものだろう。
しかし、なかなか、自分のボスになりきろうとするのは難しいものである。

どのように表現していようと、それでもなお、自分のこころはいつも暴走してしまうのだ、と言いたくなるかもしれない。

そんなときは「いつか変わるときには、変わるものだ」と考えてみよう。

「変わらなければならない」と思っても、思ったからすぐに変われるわけではない。
「いつまでに変えるのだ」というのは、内容にもよるが、まず不可能だと諦めた方がいい。
今まで生きてきた中で作りあげたものが、変えようと思い立ったからといって、一気に変わるものでもないのだから。
変われる期限まで、自分で指定しようとしないことだ。

「いつか変わるときには、変わるものだ」と考えていれば、気がついたら変わっていたというのは、今までに経験してきているのではないだろうか。
「自分で変えてみせる」と思うのを諦めて、「いつかは変えてみたい」という思いだけにしておけば、余計なストレスを背負い込むこともなくなる。

そして
「いつか変わるときには、変わるものだ」、
「変わらずにはいられないものだ」
とその時を力まずに、静かに待っていよう。

開き直って力むのではなく、なるようにまかせてしまおうと考えてみる。待っていればいいとわかれば、つまらないことに時間を使わなくても済むのだから。

自然(じねん)というは、
自はおのずからという、行者のはからいにあらず。
然というはしからしむという言葉なり。
しからしむというは、行者のはからいにあらず。
~親鸞~

◆ニーバーの祈り

ニーバーの祈り

 

神よ、

 

変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

 

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

 

 

THE SERENITY PRAYER

 

O God, give us

serenity to accept what cannot be changed,

courage to change what should be changed,

and wisdom to distinguish the one from the other.

 

Reinhold Niebuhr

 

The Serenity Prayer(ニーバーの祈り)

 

 

「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

 

これが完全に区別できるものなら、ほとんどの問題は解決するのではないだろうか。

 

「変えることのできないもの」を変えようとすることは、2つの意味で問題がある。

 

1つは、出来ないことを延々とチャレンジし続けて、時間も費やしてしまうことである。

しかし、こちらはそれでも、その過程での経験が役にたつので、一概に無駄とは言えないかも知れない。

 

しかし2つめが問題である。

 

かなわないことをチャレンジし続けた結果、疲れ果ててそれを投げ出してしまうことになる。

その結果あなたは、何もかもチャレンジすることがイヤになってしまう可能性があるのだ。

 

逆に言えば、人間はいつまでも結果が出ないことに、チャレンジし続けるようには、出来ていないのだろうと思われる。

 

 

失敗にめげずに、チャレンジし続けて何かを為し遂げるというのは、美談ではあるが、誰でもが、あるいはいつでも、出来るという保証はないのである。

 

失敗にめげないことよりも、失敗を恐れないでスタートすることの方が、重要な場合が多いように思える。

 

そして、最初の祈りの言葉に戻ると、「変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。」ということの重要さをもっと認識したいものだと思う。

 

変えられないことを受け入れるのは、言葉で言うほど簡単ではない。

 

その大きな原因のひとつは、私たちは、「自分が望むこと」と、「自分がやりたいこと」とを、しばしばごっちゃにしてしまうからである。

 

わたしたちは、子どもの頃にまわりから期待されたことや、大人になってからは社会的な望ましさ、といったものを基準に、自分が目指すべきことを決めようとする。

 

しかしそれは、自分がそれに向いていて、自発的にやりたいと思うことであるとは限らない。

 

多くの場合、「自分が望むこと」が「自分がやりたいこと」に重ねられてしまうために、自分に可能なことかどうかは、あまりチェックされないままになってしまう。

 

自分の自発的にやりたいことが、必ずしも自分に向いているかどうかはわからないけれど、外部から取り込んだ理想の目標よりは、ずっとリアリティがあるはずだと思う。

 

そして、自分の理想は頑張ればかなうはずだという、期待から出発する見通しは、「変えることのできないもの」だから希望がない、というようには、なかなか諦めきれないのである。

 

 

それとは逆に、自分が自発的にやりたがっていることというのは、重要視されるとは限らない。

 

そんなことは、誰も注目してくれない。

そんな能力は、社会では役に立たない。

あるいは、

自分の出来ることなど、たいしたことではない。

 

といった、厳しい評価、否定的な評価を受けやすいため、日の目を見ないままになってしまう可能性がある。

 

最後に、自分が自発的にやりたがっていることを発見する方法について、少し書いておきたいと思います。

 

自分がやりたがっていることというのは、さきほどあげたような批判する自分の影響から、内観的に見つけ出すことが難しい場合が多い。

 

それよりも、発見しやすいのは、自分が実際に何をやっているかを、客観的に調べて見ることである。

 

心理学のアプローチの一つで、内観的な見方、意識主義を廃して、行動だけを観測しようとする行動主義のながれは、そういった一面を捉えた主張であった。

 

自分が実際に行っていることを調べるには、振り返ってみるというだけでは難しい。

 

一日の終わりに、自分が今日やったことを振り返るというようなやり方では、すでに主観的にゆがめられている可能性が高いので、客観的な判断が難しい。

 

例えば、タイマーのようなものを利用して、一定の間隔で自分が今何をしていたかをチェックして、メモに書き留めておくというのがいいだろう。

 

これをやってみると、予想していたのと違って、自分がいかに偏ったことに時間を使っていたかが発見されたりする。

 

内観的な、予測とはかなりずれているのが普通である。

 

 

こうして、自分が一番実際に時間を費やしていることを見つけたら、そこから自分が自発的にやりたがっていることを見つけ出せる可能性が高い。

 

その自発性を、自分で積極的の伸ばしてみることを考えるのが、「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。」ということにもつながるのではないだろうか。




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今を大切に生きよう

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生き方007:今を大切に生きよう001

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◆出会った時間に練習はない

試験、試合といったものには本番があって、それまでの期間は練習と呼んで別の期間であるかのように扱います。

 

たしかに本番である試験に焦点を合わせれば、練習が存在しますが、人生の出会いには練習などなくすべて本番であるわけです。

 

今は練習だからといっても、それも自分の人生から見れば本番であり、すべて同じ価値を持った瞬間の連続なのです。

 

練習だといってまだ本気でないと言っていると、本番が来ないうちに人生が終わってしまうかもしれません。

 

こんなはずはない、まだ本番になっていないのにといって後悔しても遅いのです。

 

今はつまらない、苦しい期間だから本物ではないといって過ごしても、時間は平等に過ぎていくのです。

 

そのような発想になってしまうのは、目標指向で生きていくことに慣らされてしまっているからではないでしょうか。

 

本番が来るまでは仮の期間という発想をやめて、いまがすべて本番というつもりで生きるなら、たとえ目の前で不本意な出来事が進行中であっても、そこには同じだけの貴重な意味があり、価値のある時間を過ごしていると考えることができます。

 

苦しいと感じる時間だからといって、目の前のことから目を逸らしたりして逃げないで、その事態に対して自分がどのように対処していくかを、もう一人の自分として眺めてみるのです。

 

不思議なもので、見るのも嫌だと思っていた事態も、離れてみてみればよくあるトラブルに過ぎないことが分かってきます。

 

この程度のことなら充分起こりうることなのに、なぜこんなに大問題だと考えてしまったのだろうと思えるようになれば、この時間を自分の経験として生かせるものにしていこうという発想も生まれてきます。

 

まさにどの瞬間も、一期一会の貴重な時間です。

 

あとから思えば、あの時は嫌な経験だと思ったけれど、あの出会いがなければ今の自分はいなかったし、今となってはいい経験だったと思えることがよくあるものです。

 

ですから、どの出会いも今は練習だからとか、本気でないからといった態度で接するべきではないのです。

 

目標思考が強すぎれば、その目標に関係ないことや妨害になると思われることは、邪魔な時間だと思って切り捨てたり、いい加減に過ごすことになりがちです。

 

ですが、その目標とは関係なくても、いい加減にしていいような出会いはひとつもないはずなのです。

 

その時間もあなたはノンストップで人生を生きているのですから。

 

いいかえれば、「無駄な時間」というものは、あなたがそうだと思わなければ存在しないわけです。

 

今は大切な関係にある人も、出会いは偶然に過ぎなかったとか、ちょっとずれていれば出会わなかった人だった、というのはよくあることです。

 

出来事や人との出会いを貴重な一期一会の出会いだと思って大切に扱いましょう。

 

きっと出会いの方もそれに応えてくれるでしょう。

 

 




邯鄲の夢(かんたんのゆめ)


この話は、唐の沈既済の小説『枕中記』(ちんちゅうき)に登場する故事です。

「邯鄲の枕」とか「黄粱の一炊」などさまざまな呼び方があります。

 

趙の都の邯鄲を目指していた廬生という若者が、食事をしようと旅宿に立ち寄ったとき呂翁という道士に出会います。

 

廬生は、呂翁に話しかけます。

「毎日畑を耕し、あくせく働くばかりの変わりばえのしない生活にうんざりしてきました。そこで人は功を成し遂げて官吏とか将軍になってこそ生きている意味があるのだと思い直し、そのために邯鄲に向かっているのです。」と。

 

「毎日同じことの繰り返しで生きているなんて、どこに生きている意味があるのでしょう」と主張するわけです。

 

廬生は宿の主人から黄粱(栗粥)がまだ出来ていないから待つように言われます。

 

そのとき、呂翁という道士は、「待っている間、この枕で少しお休みなさい。この枕には夢を叶える不思議な力が備わっているから。」といって廬生に枕を貸します。

 

黄粱が出来上がるまで少しだけ休もうと思った廬生は、枕を借りて横になります。

 

すぐに眠りに落ちた廬生は、夢の中で次々と功を成し遂げ、願っていた地位や名誉を手にします。

ところが得意の絶頂にあるときに誰かにはめられて逆賊の疑いをかけられ、一転して罪人にされてしまうのです。

その後もかろうじて夢をつなぎながら一生を終える自分を夢の中で経験します。

 

夢を叶えることに執着して、成し遂げるたびに新たに生きがいにする夢を探し続けることになる。

しかしそれも老いて死ぬときがくれば何の保証にもならない。

廬生は後悔します。こんなことなら田舎で地道に田畑を耕している方がよかったと。

 

そこで廬生は夢から覚めます。

「よかった夢だったのか。」

 

それは黄粱がまだ蒸し切っていないほどの短い時間の夢だったようです。

 

呂翁は廬生に言います。

「人生とはみんなそのようなものだ。」

 

廬生は、先ほどの後悔を思いだし、「毎日同じことの繰り返しで生きている」そのことにこそ実は意味があったのだと気がつきます。

 

その意味を悟った廬生は呂翁に礼を言い、出世する夢を捨てようと思います。

邯鄲に向かうことも止めにした廬生は、再び田舎への道を戻っていきました。

 

☆~⌒☆

 

 

 

この話をどのように受け取るか、それは一通りではないでしょう。

ここでは、タオイズム的に解釈してみたいと思います。

 

廬生の生き方や考え方は、現代においても何も変わるところは感じられません。

 

なんとか、老後も楽に暮らせるだけのお金を蓄えておきたい。

そのために、少しでも待遇のいい仕事に就きたい。

 

いつしか肝心なことは仕事をする自分自身よりも、仕事がもたらす成果にこそあるのだと考える様になります。

 

成果にもとづいて夢を思い描きます。

そこにたどり着くための道筋を描き、計画を立てます。

 

あとは、「生きるための指針とは目標を叶えることにある」と思うようになるのに時間はかからないでしょう。

 

目標を立てたり、夢を見ること自体が問題があるというわけではありません。

問題が生じるのは、それに依存してしまうようになる点にあるのです。

 

目標に生きることは、未来に向けてそれを逆にたどって、いまの自分のあり方を決めることになります。

 

いまの自分は、純粋な意味での「いま」の自分ではなく、未来から遡った「いま」どうあるべきかという自分に置き換えられてしまいます。

 

その結果、純粋ないまを生きる自分はどこかに置き去りにされて、代理の自分を生きなければならないという奇妙な生き方が始まることになるのです。

 

本来は目標に向けて何をするべきかは、その時々の「いま」に起きてくるできごとに従うことであるはずです。

 

しかし人為的に、目標に依存した生き方を採用しはじめると、頭で考え出した現実のモデルが現実となり、それに沿った行動を取りたいと願う自分が本当の自分だと錯覚するようになります。

 

廬生に話を戻すと、夢の中で見た廬生の生き様は、一生をその中で終えたけれど結局後悔して終わる人生でした。

 

しかも、その一生は「黄粱の一炊」にも満たない短い時間で経験出来るような、中身の薄いものでしかなかったのです。

 

廬生がこれこそが生きがいを感じる一生だと思ったものは、夢見て、果たし、破れ、夢見て、果たし、破れ、そして気がつけば終わってしまうはかないものでしかなかったのです。

 

なぜそんなに中身が薄いのかと言えば、頭で考え出した代理の人生を生きているからではないでしょうか。

 

自分の考えた未来像に合うように作り出された「いま」を生きているから、本当の生きている実感がないまま時間が過ぎていくのです。

 

目標さえ達成すれば、その時は本当の人生を生きられると思っているから、いつもいまは準備のための時間でしかないのです。

 

本当にいまを生きるには、その「過程」こそが生きる意味がある時間であることに気がつかないとなりません。

 

目標達成の時だけが意味があるのではなく、そこまでの一つ一つの過程がすべてであり、それだけで終わりになってもいいくらいに生きるなら、目標などその中のちょっとした道しるべにしか過ぎないのです。

 

未来の目標のために自分のすべてをかけるなどと言う人がいるとしたら、それは多分に神経症的な考えであると思わざるを得ません。

 

夕食がごちそうだから、今は少し我慢しておこうというのはわかりますが、遠い将来のごちそうのためには、それまで一切食べないでおこうとは普通考えないのです。

 

生きている実感とは、いまここで、自分自身にしか経験出来ない、常にユニークな一瞬に存在するのです。

 

目標や未来のために、いまにかけるバランスを崩してはならないのです。

 

いまだけが大事という言い方をすると、それは刹那主義だといって反対する人もいます。

 

しかし、刹那主義とは、実は目標達成主義から逃れられない人が、それに反発してとっている生き方です。

 

どうせ夢がかないそうにないから、今だけよければいいと言う考えです。

 

ですから、未来から逆算していまの自分を認識しようとする基本姿勢こそが、刹那主義を生み出すのではないでしょうか。

 

もうそろそろ目標をプラカードに掲げて生きようとするやり方から、いまここのあなただけしかできない経験を充分に味わってみてはどうだろう。

 

そんなことを思わせる寓話として、この邯鄲の夢を読んでみました。





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生き方007:今を大切に生きよう001

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こうあらねばならないなんて馬鹿げている

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生き方006:こうあらねばならないなんて馬鹿げている001


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◆こうあらねばならないなんて馬鹿げている

DailyStripからのshare

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「雨の日は嫌いだよ」

「何にも出来やしない..」

「だけど考えてみると、こんなにいい天気になったとしても、やっぱりやることなんて何もないんだなあ。」

 

 

最初のセリフからは、「雨だから」という理由でなにもしない自分を、つい説明せずにはいられない気持ちが感じ取れます。

 

このような自分の状態を説明したくなる気持ちは、どこから来るのでしょうか。

 

「自分にはやるべきことがある。」

「私は何もやることがないような人間ではないはずだ。」

「雨でさえなければ、バリバリやることがあるんだよ。」

 

こんな言い訳を考えながら、自分にはやるべきことがあると言い聞かせたいのです。

 

じつは、やることなど何も無いと認めたくない、そんな現実に直面したくないと思っているのかもしれません。

 

そのあたりの事情は、人によって変わってくるでしょうが、どこかで「やるべき事を持っている」ことを自分の存在価値と結びつけて考えているのではないでしょうか。

 

それはいつのまにか、本来の目的を離れて一人歩きするようになり、人はやるべきことを持っているものだと考えるようになります。

 

しかし最後のセリフでは、スヌーピーは正直に「何もやることなどない」ことを認めています。

 

そんなスヌーピーを、どこか羨ましいと感じながら、しかし犬と違って、人間である私にはそんなことは許されないんだよといいきかせるのです。

 

しかし、実はそう決めてしまわないかぎり、やるべきことがあるはずと考える根拠は実は何も無いのです。

 

もっともらしく聞こえる説明も、そのように考えたほうがなにかメリットがあるという程度のものなのです。

 

ですから、自分にはやるべきことが思い浮かばないからといって、何も悩む必要はありません。

 

正直に考えるなら、そんなものはもともとないのだと知っているのですから。

 

DailyStripからのshare

http://c0389161.cdn.cloudfiles.rackspacecloud.com/dyn/str_strip/341927.full.gif

 

「私もスティックホース(馬の頭がついたおもちゃ)がほしいなあ。」

 

「みんな持ってるのに、ないのは私だけよ」

 

そこへ、スヌーピーがスティックホースにまたがって通りすぎます。

「ええ!ほんとに誰でも持ってるじゃない!!!」

 

最初は、「あればいいかもしれないな」で始まるのですが、みんなが持っているのを次々見せられたり、あるいはテレビのCMで毎日のように訴えかけられると、「これは自分にも必要だよ、持ってないと取り残されてしまう」と不安になってくるのです。

 

私たちが、「これはぜひとも必要な物」と言い出す根拠も、案外このようなところから発生してくるものがほとんどでしょう。

 

人の真似ばかりするものじゃない、自分は絶対に持たないと言いはるのもまた、気になっていることへの裏返しです。

 

別にまわりに影響されて自分も欲しくなったとしても、それは自然なことです。

 

今までも、まわりを真似ていくことで、生きるのに必要なことを身につけてきたのですから。

 

問題なのは、その後に必要以上にこだわりを持ってしまうことです。

 

「持っていればいいことがある」と認めたとしても、それがないと許せないとか、生きていけないと言い出すと問題になってくるのです。

 

あったほうがいいけれど、自分は持っていないものはそこらじゅうにあるのです。

 

こだわり始めて欲しくなったものにしても、それは同じことのはずなのですが、その時は夢中になって冷静な判断がつかなくなっているのです。

 

手に入れたとしても、いずれ飽きてくればその他のものと同様になってしまうのですけどね。

 

それはともかく、このような働きは「あるべき人生のモデル」についてもあてはまるのではないでしょうか。

 

みんなが、「こう生きるべきだ」と言っているのを聞き続ければ、そこからはみ出してまで自分なりに判断するのは難しくなってきます。

 

しかし、そのような信念も、それほど根拠があるものばかりでないことや、人が思いつくことなど所詮限界があることを知っておけば、熱狂的にその考えにのめり込むことはありません。

 

今の自分にとっての現実が重要なのであって、あるべきことのために生きているのではないことを思い出すことです。

100万人がそうだと言っても、自分の直感が拒否するなら、密かに信じるのをやめておけばいいのです。

 

人生はこうあるべきだと考えるのはやめて、

人生をありのままに受け入れてみよう。

こんな人生でいいはずがないと

思えば思うほど不幸になる。

現実をありのままに受け入れれば、

人生はこうあるべきだという思いこみから解放される。

 

コメディアンのレニー・ブルースはこう言った。

「あるがままでいい。

こうあらねばならないなんて馬鹿げている」

 

 

今日が楽しくなる魔法の言葉 (32ページ)

著者: アーニー・J・ゼリンスキー ダイヤモンド社 / 2003-09-20



◆賢者の答えは「どちらも正しい」

どちらが正しいといがみ合っているふたりが賢人に聞いて決着をつけようとします。

 

賢人はそれに対してどのように答えたでしょう。

 

こんな話です。

 

ふたりの男が表で何かについて言い争っています。

 

賢人は家の中でその言い争いを聞いていたのですが、そのうちふたりのうちのひとりが怒って立ち去ってしまったようです。

 

残ったひとりは、怒りが治まらない様子でしたが、やがて賢人の家に気づいて訪ねてきます。

 

賢人に「今の争いを聞かれましたね、どちらが正しかったか教えて下さい」と言います。

 

「わたしは、きちんとあの男に理由を説明して見せたのです。

 

どう考えても、私の考えには間違いはありませんが、あの男はわかろうともせずに、自分の非を認めないのです。」

 

 

この「私の考えには間違いはありません」とか「わかろうともせずに、自分の非を認めないのです」という言い回し、口論が起きたときに必ず出てくる典型的な言い方ですね。

 

この言い方が登場してくると解決は難しくなってしまうのですが、それはともかく、話を続けましょう。

 

賢人は、男に「それはあなたが正しい」と言い切ります。

 

男は、理解されたことに喜んで帰って行きました。

 

しばらくすると、今度は先に帰ってしまった方の男がやってきて、同じことを賢人に尋ねます。

 

自分の立場がいかに理にかなっているか、相手がいかに理解がないかを訴えるのです。

 

それを聞いた賢人は、こちらも同じように「それはあなたが正しい」と言い切ります。

 

男は、理解されたことに喜んで帰って行きました。

 

さて、一体どういうことなのでしょうか?

 

「どちらも正しいなどということはない」と思われるでしょうか。

 

たしかに、これが裁判の場であったら、大岡裁きでもなければどちらも正しいでは済まないのかもしれません。

 

ですから「どちらも正しいなどということはない」と言う考えも、また正しいのです。

 

「正しさ」というのは、どういう観点から見るかで変わってしまうものです。

 

ふたりの男の、それぞれの立場から見れば、それぞれが正しいのです。

 

そもそも違う立場から主張し合うから争いになるのであって、どちらが正しいかを判断した所で、お互いの考えが変わることは望めないのが、こういった口論の典型的な結末だと言えるでしょう。

 

そこでは、どんなに理論的に正しさを主張し合った所で、お互いが自分の主張を収めると言うことはほとんど望めないのです。

 

それは、私たちが一度「私の正しさ」を言い出すと、それはもはや客観的な正しさだけではなくなり、私の自我を守らなければならないものに変化してしまうからです。

 

ですから、両者とも相手の主張を冷静に聞ける自分を持っていたとしても、そのような正しさよりも自分の立場を守ることの方が優先事項になってしまいます。

 

お互いの自我を守るための争いに変化してしまえば、どれだけ客観的な論争をしたとしても、どちらが勝ってもしこりが残ってしまうのです。

 

このような人間性を理解するなら、「話せばわかる」ということが成立する状況かどうかを判断して、ダメだとわかったらすぐに争いを中止するのが賢明だと言うことになりますね。

 

さて賢人は、なぜどちらに対しても、「それはあなたが正しい」と言い切ったのでしょうか。

 

それは、先程述べたように、お互いの立場に立てばどちらも完全に正しいからです。

 

それぞれの相手が話すことを偏見を持たずに聞いてみれば、どちらも彼の立場に立てば正しいことを言っているものです。

 

そして、自分の正しさを守りたいという欲求は、自分の身体を傷つけないように守ろうとするのと同じように必要なことでもあるのです。

 

つまり、このような口論は、やるだけムダであると言う結論になるわけです。

このような状況になってしまえば、正しさの証明は何の解決にも導かないのです。

 

賢者はこの事をふまえた上で、どちらが正しいかと聞かれたから、あなたが正しいと答えたのです。

 

それは、事実をねじ曲げたわけでもないし、自分の考える正しさを抑圧したわけでもありません。

 

口論は何も解決に導かないことを理解して、それぞれの立場の正しさを一歩離れた位置から見ることが出来たからこそ、両者の間違いを指摘するような無駄なことをやめて、「あなたは間違ってはいないよ」と答えるわけです。

 

その口論から離れて、お互いが頭を冷やせば、そこで始めて本当の解決の可能性も見えて来るでしょう。

 

だから、さっさと矛を収めてしまうのが第一なのです。

 

 

自分の意見を冷静に主張できることと、口論の場で自我の主張を収めないこととは、意味が全然違います。

 

ところが、発端は冷静な意見交換であっても、どこで後者の自我のぶつかり合いになるかは、なかなか予測出来ませんし、厳密に言えば区別するのは難しいものでしょう。

 

口論になってしまった後で、自分の方から意見を引っ込めるのはなかなか難しいものです。

 

自分の方が正しいと思い続けながら、自分が引くことは人間性から言ってほとんど不可能に近いのです。

 

しかし、口論しているときの自分がどんな状態になってしまうかを離れて見られるように訓練してみれば、必要なのは「私の正しさ」ではなくて、事態を好転させることにあると割り切ることも出来る様になってきます。

 

またそれが出来る様になれば、ものごとには多様な見方が存在することを認めるのも容易になってきます。

 

自分でも、そのいろいろな観点に自分をおいてみることが出来る様になるからです。

 

そういった意味では、素直であることや、ありのままであることは、決して単純なだけでは出来ないものだと言うことになるかも知れませんね。

 

多様な観点に自分をおいてみるためには、天性の率直さだけではなく、経験を積むことも必要でしょう。

 

「正しさ」や「信念」などという言葉にとらわれていては、このような多様さを受け取る余裕が持てません。

 

「ふところの深さ」を持つには、邪魔なもので場所をふさいでいてはダメだと言うことですね。

 

「徳」という言葉にはなにか説教じみたものを感じがちですが、そうではなく人間性の理解だという観点から見てみるなら、抵抗なく何をすればいいのかも見えて来るものではないでしょうか。

 

誰しもいったん「私の正しさ」を主張し出すと、事実はどこかに置き忘れられてしまうもの、その前にそこから離れて自分を見ることが出来るかどうかがポイントですね。



◆水たまらねば月も宿らず

「朝顔に つるべ取られて もらい水」  千代女

 

ご存じの方も多いこの句を詠んだ千代女(ちよじょ)、こんな逸話があります。

 

 

ある夜に、千代女は井戸から汲んだ水を桶に入れて運んでいました。

桶の中を見ると、きれいに月が水面に映っています。

 

しかし、当然少しでも動くと、水面が揺れて見事な月のかたちは崩れてしまいます。

 

私の心の乱れが、月を崩してしまうのだろうか。ありのままに、崩れないように映せる鏡に私はなれないのだろうか。

 

そんなとき、虫が飛んできて桶の水に飛び込んでしまいます。

月は崩れます。

 

風が吹いてきて水面が揺れます。

月は崩れます。

 

再び思い直して、桶を運びはじめようとしたとき、桶の底が抜けて水はすっかり流れてしまいました。

 

もはや月も消えてしまいました。

せっかく運んだ水もすべて流れてなくなってしまいました。

 

 

千代女はここで悟り、大笑いします。

 

桶の月は消えてなくなった。

水もなくなり桶は空っぽ。

 

しかし、私の心配などと関係なく、月は空を見上げれば存在したのだ。

 

水面の月にとらわれて、私の心のせいで月が左右されるなど馬鹿なことを考えたものだ。

水を溜めなければ、そもそも月も映らなかったというのに。

 

「とにかくにたくみし桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず」

 

☆~⌒☆

 

私たちが、ふだんからよく陥っている悩みというのもこのようなものです。

 

◆月の姿かたちを崩さないようにしたい。

 

私の心が乱れるから、月もきれいなままでいてくれない。

いや写真に撮っておけば、ずっと私のものになるじゃないか。

 

※その時追っかけているのは、水に映った月なんですけど。

 

◆せっかく運んだ水が、全部流れてしまった!

 

なんて世の中は意地悪なんだろう。

もっとしっかりした桶を作ろう。

いや、桶のたがを点検しなかったのがいけなかったのだ。

 

※どのように準備しても、起きるときには起きるのです。

 

☆~⌒☆

 

水面に映る月をうっとり見つめたところまではよかったのです。

 

しかし、この月を「私」のものにしたいと執着心を持ちはじめる。

 

その時点で、月は空の上にあることを忘れてしまいます。

「私の月」は、この目の前の水に映る月なんだと。

 

いつまでも変わらないものなど何もない。

そうわかっていながら、このまま「私の月」を保存しておきたいと思い出すとき、私の悩みが始まります。

 

せっかくここまで水を運んだのに。

桶さえ壊れなければ、今は水を家の中に運べていたのに。

 

なぜ、私に意地悪するんだと思えば、世界は私に敵対するものに見えてきます。

 

しかし、どのように注意深くしていようと、底が抜けることもあるでしょう。

そして、そこで起きたことは、水にとっては自然に重力に従って地面に流れ落ちただけです。

 

「私」がどのように解釈しようと、起こるべきことが起きただけ。

なんで、世界を恨む必要があるのでしょう。

 

すべては「私」がからんでいるから、起きてきた迷いごとにすぎません。

 

月は、私が生まれる前も、いなくなった後も、空の上に存在し続けます。

水は高いところから低いところへ流れます。

水面は「私の心」にかかわらず揺れるときには揺れ、波を立てるのです。

 

「私」の望みと違うことが起きて、「私」のこころがざわついただけなのです。

 

今悩んでいることはなんでしょう?

それは、どんなふうに自然をねじ曲げようとしているのでしょう?




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ほどほどに~要はバランスだ!

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◆他人をあてにしなければ

 

他人を

あてに

しなければ

怖いものは

なくなる

 

When one does not rely or depend on thers,

one frees oneself of fear.

 

無有恐怖(むうくふ)

恐怖有ること無く、

「了寛」

 

羅漢さんの絵説法〈2〉般若心経―空即是色 花ざかり

著者: 荒 了寛 里文出版 / 2001-05

 

「他人をあてにしなければ、怖いものはなくなる。」

 

これはいいかえれば、恐怖を生み出している原因が、他人への期待の中に存在するということです。

 

あなたが、「ただそうしたいからやる」とき、そこには義務はありません。

 

しかし、あなたが「そうしなければならないからやろう」と思わざるを得ないのは、自分を全面的に信頼できていないからです。

 

自信がないから、義務に従っておけば間違いないだろうという考えなのです。

 

そして、自分を義務に従わせようとする人間は、他人にも同じことを期待します。

相手が同じように義務に従わないと怒りだします。

 

しかし、自分にしろ他人にしろ、義務を押しつけられれば反抗するものです。

 

義務にしばられたり、反抗したりするのが苦しいのは知っていながら、他人が義務を果たさないとなるとそれは許せない、というジレンマに苦しむことになります。

 

 

他人に義務を果たすように期待することが、それを裏切られることへの恐れを生み出します。

 

「あの人は私の期待するように動いてくれるべきなのだ」

 

そう言い聞かせながらも、もしかしたら期待に答えてくれないのではないかと怖くてしかたがないのです。

 

「そうしたいと思ったらやってもいい」とか、自分にはやりたければそれをやる資格があると信頼できているのなら、義務がどうのこうのと考えることはないのです。

 

義務を果たしてやるべきことはやっているから、ようやく自分のやりたいことを許すことにしようという、恐れに縛られた行動とは根本的に違っているのです。

 

そして自分に不要な義務を押しつけない人は、他人にも義務を課さないし期待もしないでいられます。

 

他人がそれをやるかどうかは、その人がそうしたいかどうかの問題であって、自分の期待と異なるからといって、その人を責めたり自分が傷つけられたと感じる必要はないのです。

 

相手が期待に応えてくれないと自分が傷ついたと感じるのは、それだけ自分への価値観が低くなっているのです。

 

「他人が自分の期待に応えてくれるかどうか」で自分の価値を決めているから、他人の反応次第で自分の価値が揺らいでしまうのです。

 

傷つくのを恐れる気持ちが強くなれば、裏切られる事態をまねくのを回避しようと考えるかも知れません。

 

「私は誰にも期待なんかしない!」と強がってみせるかもしれませんが、傷つくくらいなら自分の欲求を否認した方がまだましという無理なこじつけです。

 

このようにして自分の欲求を抑えようとするには、他の感情にまで鈍感になるしかなくなるわけで、回り回ってそれが無気力な自分を生み出すことになってしまいます。

 

それに「自由に欲しがってはだめ!」と言い聞かせ続けているのですから、自発的な行動はどんどん抑えられていくのです。

 

 

まずは自分に隠されている無価値感に気づいて、それに取り組まないとなりません。

 

自分のことをダメだと言っている自己憐憫の気持ちは、自分への無価値感から来ています。

 

自分のことを無条件に信頼し、大事にし、尊敬できるという気持ちが持てないでいるということです。

 

自分には無条件に人から愛される資格があると信じられないから、条件付きで自分に承認を与えようとするのです。

 

「これだけやったから許されるだろう」という自分への思いは、他人へ投射されて義務を果たさない人を非難することにつながります。

 

さらには、期待に応えてくれないのは自分にそれに値する資格がないからだと思って、自分の価値観をまた値引いてしまうという悪循環に陥ります。

 

「そんなことを言われても、無条件に自分に価値があると感じられないよ」と思うのなら、今とは逆のことを実行してみることです。

 

何かをやりたいと思った時、すぐに条件をつけようとしている自分を見つけてそれを阻止します。

 

無条件で、ただやりたいことをやってしまうのです。

 

何の条件もつけずに、誰の許可を得ようともしないで、ただ自分のやりたい気持ちだけで動くようにします。

 

また他の人に対する場合は、これも先ほどとは逆に、義務を押しつけないように心がけることです。

 

「あなたはそれをやるべきだ」と言いたがっている自分を見つけたら、「その人がどうするかはその人が決めること」という原則を思い起こすことです。

 

さらには、それと並行して、見返りを期待して人に奉仕することをやめます。

 

「こんなにしてあげてるのに、どうして返してくれないの?」と思いたくなるような習慣をやめることです。

 

素直に相手に何かしてあげたいと思ったのなら、あなたがそうしてあげたいからそうするのだということを正直に認識しておくことです。

 

決してやってあげたと思ったり、貸しを作った気にならないことです。

 

 

思い出すたびに、いつもと逆の行動をあえて実行するようにしていれば、徐々に今までの行動と新しい行動のもたらす結果の違いに気づけるようになります。

 

前者が苦しい感情ばかり引き起こすのに比べて、後者の行動は軽さと自由さをもたらしてくれることに気づくでしょう。

 

そして、それと共に徐々に自分自身の価値観も高まってきます。

 

「これだけやったから許して」という言いわけをしなくても、自分の思うことを平気で自由にやる事が出来るようになってきます。

 

こうして「他人への期待」があなたの重要事項でなくなってくればくるほど、「他人をあてにしなければ、怖いものはなくなる。」という言葉の意味もわかってくるでしょう。

 

他人をあてにしないのですから、自分で動けばいいだけです。

 

それは自分だけで出来るし、自分自身で完結してしまえるということが重要なのです。



◆「身のほどをわきまえる」むしろ得意なことを伸ばそう

身のほどをわきまえないと

 

貧しい人は、財宝をお礼としたがり、老人は力仕事をお礼としたがるが、これは身のほどをわきまえないことからくるまちがいね。

 

よく自分のことを知って、できないことはすぐやめるのがかしこいやり方だ。

 

相手がそれをだめだというのなら相手がまちがっている。

 

身のほどをしらずに、ただいっしょうけんめいはげむっていうのは、考え方があやまっているんだよ。

 

貧しい者が身のほどをしらずにいると、物をぬすむようになり、体力の弱い者が身のほどをしらずにいれば病気になるんだ。

 

徒然草 第百三十一段

徒然草・方丈記 (少年少女古典文学館) 嵐山 光三郎 三木 卓 講談社 / 1992-04-09

 

 

がんばれば夢がかなうという風潮が強いですが、がんばってもどうにもならないことも実際には多いものです。

 

少しくらい無理をしてでも、自分も出来るようになりたいと思う場合があるかと思います。

 

しかしそんな中でも、冷静に考えればやめておいた方がいいと判断できることも多いのです。

 

これには、自分の欠点は目につきやすいという心理が関係しているのかも知れません。

 

実は、基本的に自分を信頼している度合いが高い人は、少々自分の苦手な部分があっても、平気でいられるし、他の人にそれを見せることも怖がらないものです。

 

しかしそれとは逆に、自分に自信が持てない人ほど、まずは自分の欠点を何とかしないと先に進めないような気になってしまうのです。

 

自分の能力のなさを他人に知られてしまうと、嫌われてしまうという恐れが働きますから、何とか知られないうちに克服したいと思うわけです。

 

 

しかし、上記のように、中には自分には向いていないからやめた方がいいということもありますし、それよりも自分の得意なこと、向いていることを伸ばすことにエネルギーを使った方が得策だという場合も多いのです。

 

もちろん子どものうちなら、まだどのような才能が潜んでいるか分かりませんから、あまり早々と方向を決めてしまわない方がいいと思います。

 

しかし、何度もやってきて自分には向いてないし、他の人から見てもそう見えることなら、見切りをつけて自分の得意なことを伸ばす方に切り替えた方がいいのです。

 

それは能力がないから諦めろと言うよりも、自分の得意なことを伸ばす方がその人にとってもいいことだからです。

 

諦めきれないとしたら、自分に本当に可能性を感じている場合には、頑張って続けてもいいでしょう。

しかし、それが社会や周りが期待することだからという理由でしがみつくのは、あまり得策ではないように思います。

 

それよりも、あなたの得意なことを生かせる方向で努力すれば、あなたも無理しなくていいし結果も伴ってくるでしょうから、充実感も持てるわけです。

 

それに誰もが望んでいる能力というのは、競争の激しい分野であるのが普通です。

 

本当にその競争に参加して勝ち抜きたいのか、それよりも自分ならではの能力を生かす方向に力を入れた方がいいのか、よく考えてみた方がいいと思います。

 

 

自分の能力に挑戦したいと思って、自分と競争することはいいと思いますが、ただ利益を目指しての他人と競争するというのはさまざまな悪影響をもたらします。

 

競争で勝ち残るのはごく一部の人だけですから、当然無理をしても負けてしまう確率の方が高いのです。

 

もちろん弱気になれとか言っているわけではなくて、自分に自信があるのならチャレンジしてみて初めて出来る経験もあるわけですから、どんどんやればいいと思います。

 

また中には競争した方がより能力を発揮出来るタイプの人もいるでしょう。

要するに自分に合っているかどうかの見極めが大事と言うことですね。

 

他人との競争というのは、欲と同じできりがないものです。

いったん競争に入り込むと、一回で終わりというわけに行かなくなります。

そこまでやる価値があるかどうかは、冷静に考えた方がいいでしょう。

 

 

「誰でも頑張れば出来るはず」とか「出来ないのは努力が足りないせいだ」といった言葉は、使う場面によっては、無責任で有害な言葉になりかねません。

 

それに答えて自分まで中途半端に「はい、がんばります」と答え続けていると、いつまでも無理な関係を続けることになります。

 

兼好も言っている様に「相手がそれをだめだというのなら相手がまちがっている」のです。

 

いっそ「自分にはこれしかできません」と宣言してしまえば、自分を搾取しようとする人も周りから消えていきます。

 

それでも残るのは、あなたがそのままでいいと認めてくれる人です。

無理しないで生きたいと思う人には、願ってもない環境です。

 

自分の役割をわきまえてそれを充分果たすことが、結局は全体の役に立つことにもなるのです。

 

いつまでも勢いや根性だけで乗り切れるものでもありません。

長く頑張ってきたと思うのなら、ここらで方針を変えてみるのもいいかもしれません。

 

強くてこわばったもの下にいて根っこになり、

弱くて柔らかいものは上にいて花を咲かせる。

 

老子道徳経 第七六章

 



◆これで充分

人は、これで充分だと言う気持ちになれば、

自分の喜ぶことに時間を使えるようになる。

 

そうしてはじめて、自分の中にある

可能性を発見できる様になる。

 

しかし、素直に、これで充分だと感じることを

なかなか許してもらえない社会背景があります。

 

まわりの要求や、義務という名の強制、

それと競争心です。

 

もっといいものがあるよ!

と教えてくれるものがそこら中に

満ちています。

 

競争心をあおるものに事欠きません。

 

その燃料となるのは、比較という行為でしょう。

 

比較して、もっといいものが欲しい、

よく調べないと、いいものが手に入らない。

 

こうして、外の世界を探し回るという

満足感の得られない行為に

強迫的にかり出されてしまいます。

 

社会から切り離されて、隠遁生活を

すればいいのかも知れませんが

そういうわけにも行きません

 

そこで、時にはこれで充分だと宣言してみる

という時間を持ちましょう。

 

比較しつくして見たところで、

どうせたいした違いはありません。

 

他にやることがあるとか思わずに、

自分が喜ぶことを、思う存分させてあげる。

 

今の自分に満足する。

今持っているものを喜ぶ。

比較を持ち込まない。

必要ないもの、余分なものを求めない。

「こちらの方がすごいですよ。」「いいえこれで充分です。」

 

比較しない時間を持つと、充実感がわき上がってくる。

比較しないでいると、こころが穏やかになってくる。

 

TVのコマーシャルを見ながら、

「いいえこれで充分です。」と言ってみましょう。

するとこころが爽快になる。

 

探し求めても、どうせたいした違いはありません。

探し求めても、すぐに前と状況は変わらないことに気づく。

 

向上心と強迫的になることを一緒にしないこと。

 

きっとこんなことをしても大して変わらないだろうと

なんとなく気づいているのではないですか。

 

今の自分で満足です。

これで充分です。

 

 




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