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2012年08月

気づいていない自分を知る~許せますか?

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人間関係010:気づいていない自分を知る001

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◆許す、許せない、許す

ヘミングウェイの短編にあるお話だそうです。
゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜
不幸な出来事が重なって、親子は仲違いして少年は父親を置いて家を飛び出す。
息子を捜し続ける父親は、最後に新聞の尋ね人欄に広告を出します。

    愛するパコ。
    明日の正午、マドリードの新聞社の前で会おう。
    すべてを許す。愛している。

翌日の正午、新聞社の前には
許しを求めて800人のパコが国中から集まった。

゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・゜

幸福セラピー グレン・ヴァン・エカレン ディスカヴァー・トゥエンティワン / 2005-12-06 /

普段は何気なくくらしていても、心の奥底で許しを求めている人は、こんなにいるわけです。
許しを求めているとは、自分を許せないでいる人がいるということです。
自分を許せないことと、誰かを許せないことは非常に密接に絡み合っています。
片方が存在すれば、もう一方もあると言ってもいいくらいです。
誰かを憎んでいれば、それは対象を外に向けているということですが、
同時にそんな自分の思いを許せないで自分を責めている自分も存在するように思えます。
そして、二人の間で、片方が「すべてを許す」といったとき、普段は隠していた憎しみや罪悪感が一気に目を覚まします。

◆束縛されたくないと言うけれど

ほとんどの人は、自分が他人から束縛されることを厭がっていると思います。
しかし本当に束縛を全部嫌っているかと言うと、時には全く自由にしろといわれると戸惑ってしまったり、寂しく感じたりします。
どこかで相手に依存している部分があるからです。
その意味では「自由にさせろ、束縛するな」というのは、勝手なときだけ使っているとも言えます。

別の見方をすると、自分の自由を完全に主張するためには、相手の自由も完全に認めなければなりません。
相手には言うとおりにしろと言っておいて、自分だけは自由にしたいというのは、相手が納得しないし、自分でも後ろめたいところがあってうまくいきません。
本当に自由にしたいのなら、相手にも完全に自由を認めなければなりません。
また、たとえ相手がどのようにあなたを批判しようと、それは相手の自由で、その責任は相手にあるのだから、それに対して自分は何も反論する必要もないと思える覚悟も必要です。
これは、権利の問題ととらえる事も出来ますが、実際には権利以前に人間の心理というのは、自分と相手の自由の片方だけを取るということが出来ないもののようです。
実は、多くの場合逆をやってまずい結果をまねいていることが多いのですが、これをふまえて、この原理をうまく使うことを考えた方がいいでしょう。

◆どうせ私なんか...

「どうせ私なんか...」「自分は何をやってもだめだなあ」といった言い方が口癖になっている人はいないでしょうか。
このような言い方をしていると、そのたびに自分の評価を下げ、現実に対応できない自分に嫌気がさしてきます。
しかしそれでは本当に自分のことをダメだと思っているのかというと、案外「どうせ私なんか...」を多用している人に、能力を評価しない扱いをすれば機嫌が悪くなったりするものです。
これは、「私なんかダメ」と口では言いながら、「本当の私はこんなものではない」「今に自分のほうが能力が上であることを見せてやる」とどこかで思っていたりするからでしょう。
口にする言葉とは裏腹に「自分は他の人より能力があり、特別な存在である」という評価を受けないと満足できないと思っているのです。
しかし、現実は自分のイメージ通りにはいかないし、まわりも正当な評価をしてくれていないと思っていますから、いつも不満を感じて続けることになってしまうのです。
それでは「自分はそのように評価されるはずの人間である」ということに根拠があるのかというと、そうではありません。
そう思っていないと自分を肯定できないから、そうあって欲しいと思う願望が、根拠にすりかわっていたりするわけです。

◆人間関係における私の共謀

人間関係のトラブルでは、通常誰かが自分に害を与えるから自分は悩んでいる、という図式が多いかと思います。
そんな時、大抵はその誰かのせいで自分が迷惑している、私の側には責任はないのに、と考えているのではないでしょうか。
つまり、言ってみれば、突然外から自分に危害を与える存在が出現したのだと思っているわけです。
しかし、そこに自分の側の責任はないのだろうか、ということを今回は考えてみたいと思います。
そこから「私の側からの共謀」はないのかという意味で今回のタイトルになっています。
例えば、職場や学校で自分の悪口を言う人がいるとします。
私は「なんでこの私が悪口を言われないといけないのだ!」という感じで、とっさに防御体制に入り、悪口を言う相手を悪人に仕立てあげようとします。
ここでもし、冷静に相手の悪口を言うに至った状況を確認できるのなら、そもそも相手の悪口にいつまでも悩まされることはないのでしょうが、なかなか現実はそうでなく動いてしまうようです。
つまり、最初から相手が悪く、悪口を言う相手が不当なものにされてしまうのです。
相手が自分の悪口を言うような、ひどい人間だということになれば、その悪口を「私」は正面から見なくてもいいわけです。
そんなひどい人間の言うことなど、間違っているに決まっているからです。
これは、あえて悪口をねじ曲げたというよりも、とっさに習慣で自分を守ろうとするやり方であり、多かれ少なかれ誰でもやってしまうことです。
☆~⌒☆
本来、意味も無く人の悪口を言いふらして楽しい人などいないはずです。
そこには、自分を守るための、その人にとっては必死の防衛規制が働いているわけです。
その場合は、先程の自分が気づかずに解釈を歪めている時と同じように、相手に対して不当であると非難したところで、そんなはずはないと防御を強くしてしまうばかりです。
ですから、そこで取れる選択は、相手との関わりをやめるか、それともあえて相手のあり方に関与していく覚悟があるかを決めなければなりません。
関わるとすれば、相手の怖がっている原因をうまく取り除くなどの、こちら側にはそれだけの余裕が必要です。
相手の問題なのに、こちらが非難を受ける可能性も強いですし、相手がそれで変わってくれるかどうかはわかりません。
 
話せばわかるということは、いつでも成り立つとは限らないもの、ダメな場合は自分の許容範囲を超えたら手を引かないと、新たな敵を作り出すことにもなりかねません。
それほど人を変えるのは難しいし、覚悟や自分の側のエネルギーに余裕がなければできません。
もちろん自分の面倒も余裕をもってみられるようになっている必要があります。
そうでなければミイラ取りがミイラになってしまいます。





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人間関係010:気づいていない自分を知る001

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自分の心理の弱点を知ろう~悪循環の努力を取り除く

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人間関係009:自分の心理の弱点を知ろう001

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◆不満とは捨てられない正しさ、満足とは受け入れた現実

不満を抱いたままにしていると、人間関係がだんだんぎすぎすしてくることにもなりかねません。

 

一緒にいる時間が苦痛になるほど、不満を溜め込まないようにしたいものですが、大抵の人は自分の不満を相手に伝えるのを躊躇します。

 

それを相手に伝えてしまうと、せっかくの関係が壊れてしまわないかと心配なのです。

このくらいなら自分が我慢しておけば、ゴタゴタを起こさなくてすむからと思って、心の奥にしまい込もうとします。

 

ですが、しまい込まれた不満は消え去ることはありません。

 

実は消え去らないのは、それを表に出して完結してしまわないからということもありますが、同時に不満の原因を何度も自分で思い起こしているからです。

 

思い出す度にその不満の感情は息を吹き返すことになるのです。

 

 

なぜ何度も思い出してしまうかと言えば、 

不満とは「あなたの正しさ」を証明したいという思いだからです。

 

あなたの考えのほうが、相手よりも正しいことを明らかにしたいけれど、それを相手は分かっていないようだから何とかしたいと思うのです。

 

問題は、そのような場合私たちは、自分のほうが正しいという前提で行動しようとしてしまう点にあります。

 

自分の正しさを証明しようと思うあまり、公平な判断ではなく、どうやって自分の正しさを示せるかにしか関心が向けられなくなってしまうのです。

 

それは、そのうち不満という感情としてだけ認識されるため、自分でもなんで不機嫌になってしまうのか分からなくなっていきます。

 

このような、正体の明らかでない感情を溜め込むと、相手との関係はどんどん重苦しい物になってしまうのです。

 

 

ですから、まずはその不満の元になっているのは、「自分の正しさを証明したい」という思いにあることを認めることです。

 

そうすれば、その「正しさ」とはどんなもので、本当に妥当なのだろうかという公平な判断をする余裕が出てきます。

 

正体の分からない不満感に乗っ取られているあなたではなく、具体的な要求を持っているあなたを客観的に評価する自分に切り替えることが出来ます。

 

もしかしたら、あなたの「正しさ」は、それほど根拠のあるものではなかったことが判明するかもしれません。

 

その場合、不満自体が労せずして消えていってくれるでしょう。

思っているよりも、実体を明らかにするだけで解決してしまう場合は多いものです。

 

もちろん、それでもあなたの方が正しいという考えは変わらないかもしれません。

 

その場合でも、今度はあなたは自分の求めていたことをはっきりと認識して行動できるわけです。

 

相手に何を求めていたのかをはっきり分かっていますから、むやみに不満をぶつけるのではなく、相手に自分のどのような考えを伝えたいのかにそって行動できるようになります。

 

自分が「僕のほうが正しい。お兄ちゃんのほうが悪い!」と駄々を捏ねている子どものようになっていないか確かめてみるといいでしょう。

 

またもう一つ大事な点は、不満が自分の正しさへのこだわりから来るとわかれば、それが相手に起因するものではないことにも気がつくのです。

 

「相手が悪いから自分が被害をうけている」という相手しだいで影響を受けてしまう、どうにもならない感情から、自分で充分コントロールできる余地がある、自分の側の要求の問題へと姿を変えることができるのです。

 

まわりの人や環境で自分の気分を左右させられてしまう自分から、自分でどう受け取るかを決められる自律的な人間に自分を変えていけるのです。


◆罪悪感によるコントロール

罪悪感というのは、誰もが根深く影響されている感情の一つです。

 

しかし私たちのほとんどは、罪悪感について曖昧に理解しているために、ついつい不要な後ろめたさを感じながら、それが仕方のないことだと思って犠牲になったままでいるのです。

 

罪悪感というのは、本来は、実際に自分が誰かを精神的あるいは肉体的に抑圧したり、傷つけたりした場合に感じるものです。

 

あなたの行為によって、誰かが能力を発揮したり、自由に表現したりすることを制限したり、あるいは喜びを奪ってしまうようなことになったとき、あなたはそれに対して罪悪感を感じるでしょう。

 

このような本当の罪悪感というのは必要なものです。なぜならそれを何とも感じないとすれば、他の人を傷つけることを何とも思わない人になってしまうからです。

 

 

 

しかし、このような本物の罪悪感とは別に、誰かに押しつけられてしまった「無実の罪悪感」とでも言うものが存在します。

 

それはとても日常的に使われているので、区別ができなければ本物の罪悪感と同じようにあなたを苦しめることになります。

 

たとえば、このような母子の何気ない会話。

 

「楽しそうでいいわね。お母さんは家にいてやることがいっぱいあるから、自分だけで楽しんできなさい。いいんだよお母さんは慣れているから、家で我慢して用事をやっているわ。」

 

このように言われれば、子どもは、楽しいはずのイベントに後ろめたさを感じながら出かけなければならないのです。

 

子どもは、別に何も母親を抑圧するような行為をしているわけではありません。

 

本来なら思いっきり楽しみに期待をふくらませて、出かけていい場面なのです。

 

このようなときに子どもが感じているのが、責任のない罪悪感、無実の罪悪感なのです。

 

そして、たとえ無実の罪悪感であっても、その人を苦しめる点では自分に責任のある罪悪感とかわりはありません。

 

 

では、なぜこのような責任のない罪悪感を感じてしまうことになるのでしょうか。

 

それは、人間関係というものの基盤に存在する精神的な依存によるものです。

 

つまり、「こんなことを言ったり、やったりしたら、相手から悪く思われたり、嫌われたりしないだろうか?」という思いです。

 

「人から悪く思われる」ような行為を自分がしてしまうことが、本物の罪悪感の時の他人への抑圧行為のかわりに存在しているというわけなのです。

 

あなたは自分が言ったことややったことが原因で、相手の表情にかすかに浮かぶ不快感を見逃しません。

 

これを見たあなたが自分自身に対して下す評価が、あなたに責任の持てない無実の罪悪感を抱かせることになるのです。

 

そして、あなたはこのような無実の罪悪感を感じるのと同時に、その裏返しとして相手をコントロールしたいときにこの無実の罪悪感を利用しようとしてしまいます。

 

誰かがあなたのやり方を批判したり、あるいはそもそも相手のことを善く思っていない時、あなたは自分を正当化するために相手に罪悪感を感じさせることでコントロールしようとするのです。

 

相手がその行為に罪悪感を感じれば、あなたの正当性を主張することが出来るかのように感じてしまうわけです。

 

このような意識的、無意識的な罪悪感による他人のコントロールは、日常的に行われていますから、あなたもそこら中でその犠牲になっているのではないでしょうか。

 

はっきり後ろめたさを感じる場合もあれば、なんとなく気が重いなという感じを持ってはいても、何が起きているのか気がつかない場合もあるでしょう。

 

 

そして、親子関係とか特定の人との関係では、それが毎日のように繰り返されるために、当事者は毎回うつを感じることを繰り返すことになります。

 

それは、その人の性格そのものにも影響を与えてしまいます。

 

このような不当な罪悪感から逃れるためには、まずは罪悪感を感じたときの自分の感情をよく観察してみることです。

 

そして、それがあなたが誰かを押さえつけたために起きた本来の罪悪感であるのか、それとも誰かの意向によって自分が押さえつけられている為に起きた罪悪感なのかを区別することです。

 

また、それと共に「自分の感情に責任を持てるのはその人自身にしか出来ないものだ」という原則を思い出すことです。

 

「あなたのおかげで、わたしはこんな気持ちにさせられた。」という脅しには乗らないことです。

 

その人が自分でそのような感情を持たないことを選択しない限り、あなたにはどうしようもありません。

 

あなたが脅しに乗って相手に従ったとしても、相手はすぐに同じ状況をまた作り出して、あなたに罪悪感を迫ってきます。

 

相手は、このやり方で相手をコントロールすれば、自分の不安感を何とか出来ると信じていて、それ以外の方法に気づかないために同じことを繰り返しているのです。

 

自分の不安感を本当におさめるためには、原因となっている自分の不安と向き合うしかありませんが、それを恐れ避けようとするために、誤魔化す方法として罪悪感で他人をコントロールしようとしているのです。

 

そして同じことは、あなた自身もついついやっていることかもしれません。

 

どちらにしても、不当な罪悪感への脅しは拒否すると決心することや、自分からもそのような方法で相手をコントロールすることをやめようと決心することです。

 

相手がその方法の常習者であるほど、あなたの拒絶に対する抵抗があるかも知れません。

 

しかし、まずはあなたがそれを拒否することを繰り返し選択して、あなた自身が不要な罪悪感から解放されることが肝心です。

 

そして、あなた自身がそれから解放されるのを見て、相手も自分の無駄なやり方を考え直すときが来るかもしれません。

 

相手にそれが出来なくても、あなたがそれに罪悪感を感じてはいけません。

 

それは相手の人が自分自身で選択することだからです。あなたが強要することではありません。

 

「そんな冷たいことはできないわ。」と思わせるのは、このような罪悪感そのものなのです。

 

「罪悪感によるコントロール」という手段に関して、あなたは加害者にも、被害者にもならないと決心すれば、抵抗には出会うでしょうが、やがてあなたのまわりからそのような方法をとる人もいなくなってくるでしょう。

 

 

◆パワーゲームにとりこまれないように


パワーゲームに取り込まれて抜け出せなくならないように注意しましょう。

 

パワーゲームとは、簡単に言えば主導権を握りたいとしておこなう駆け引きです。

 

大きなものは国家間のパワーゲームであり、小さなものは家庭の中での夫婦や親子の関係です。

 

会社に行けば、上司と部下、そしてまたその上司と部下、それから会社と会社の間のパワーゲームが存在します。

 

このようなパワーゲームに自分が取り込まれてしまうと、いつのまにか罠にはまり込んでしまいます。

 

しかしそれに気づき始めたときには抜けるのも地獄、抜けないでいるのも地獄ということになりかねません。

 

その罠とは、誰もが自分が信じている権力者が本当に力を持っていると信じていることです。

 

 

 

なぜこれが罠なのか?

 

それぞれの人が権力者と信じている人もまた自分の前提としている権力者を持っています。

 

自分の信じる権力者はパワーを持つと信じていますが、実際にはその権力者もまたその人の信じる権力者をあてにしているのです。

 

それは自分のパワーゲームが成り立つために絶対必要な前提なのです。

 

自分の権力者を信じられるという前提を元に、自分は下部構造のパワーゲームを受け持っているわけです。

 

ところが、この前提にしている権力者、

大もとになるパワーが実はどこにも存在しない

という恐ろしい事実に気づかずにいるのです。

 

これだけ複雑になったパワーゲームでは、もはや誰もパワーの大もとを発見することが出来なくなっています。

 

しかし、それはパワーゲームを維持するためには絶対に必要な前提です。

 

そんなものは「いつの間にかどこに行ったか分からなくなっている」という重大な事実は、うすうす感じてはいても恐ろしくて直視する気になれません。

 

自分の信じる権威者は、絶対に正しくて存在していないと困るのです。

 

パワーなど外側のどこにも、誰にも存在しないなどと言われても、そんな意見は封じ込めてしまうのです。

 

かくして、バブルのパワーを求めて、抜けるのも地獄、抜けないのも地獄に入り込んでしまうのです。

 

もはや信じると言うよりも、抜け出すのが怖くてそれにしがみつくしかない状態に陥ってしまいます。

そんなものはないという意見など、論破しなければなりません。

 

名声がパワーの元であり、名声があれば他人を威嚇して勝利を得ることができると信じていますが、名声で従ってくる人はそれがなくなったときに消えてしまうことに気づきません。

 

名声で自己評価を維持していた人は、無くした後に何も頼るもの残らなくなってしまいます。

 

外側に頼りを求めたために罠に入り込んでしまうのです。

 

内側を信じて自主独立することも、外側のパワーを信じる人には価値がわかりません。

 

人間関係でパワーを握ればすべてが片づくと思っていますが、自分を信じられてこそ他人から頼られるパワーを持てることがわからないのです。

 

揺れ動く自分の内面はあてにならないと思い、具体的に成果が得られる関係こそがすべてだと信じるから、ますます外側に依存する傾向が強くならざるを得ないのです。

 

自分自身を騙して人からいくら尊敬されても、いつまでも空しさがつきまとうことに気づいているのですが、罠から抜け出す方法が見つからないから、外からの評価で自分を慰めるしかなくなっているのです。

 

子象の頃から杭につながれていた象のように、もはや自分の力を使うことを諦めてしまいます。

 

 

罠から抜け出すためには、これを断ち切って自分自身を信じることで力を取り戻しましょう。

 

・自分の外側に力を求めないこと。

外側に力を求めるのは、内面の弱さに直面することを避けているだけです。

たとえ「あなたを救います」という人が現れても、その人を頼りきってはいけません。

河を渡り終わったら、小舟は捨てていくのです。

 

・人間関係が大事なのは確かですが、自分の内面を信じてこその他人との関係であることを忘れないこと。

自分の代わりに力をくれる人を探すこととは、依存関係を作り出すだけです。

 

・今までの弱さを解決できる新しい力が外側にあるなどと信じないこと。

自分の内面を理解しない限り、それと置き換えられる力などありません。

内側を探して持っているものを理解してこそ自分の力が見つかります。

 

・外側のパワーゲームに巻き込まれたら、必ず自分より力のあるものの下にいなければなりません。

自分の力を発揮出来ない関係の住人になってしまうと、自分の力を使うことを忘れてしまいます。いかにパワー関係にうまく取り入るかが自分の仕事だと思うようになります。

そんなものがいくらうまくなっても、自分自身は瞞せないことに気づくべきです。

 

・外側に力を求めている間は、自分自身の中に力があることに気づきません。

ですからいつまでも外側を探し続け、探すべきは内側だということに気づけないのです。

 

  

・権力とは人間の弱さを誤魔化すものでしかないとわかれば、そんなものは欲しくないことがわかるでしょう。

そんなものから決別した人には、巧みに自分の力をちらつかせる「権力者」の行動が、子どもだましのごまかしのようにはっきり見えてきて笑ってしまうでしょう。

 

反論された「権力者」のうろたえや、権力に力を感じない人を相手にしてあせっている「権力者」を見ていれば、そこに本物の力などないことがハッキリわかってきて、そんなものに魅力を感じなくなるはずです。

 

「外側の誰かの承認や支持が最初にないと自分では何も出来ない」

こういう思い込みをいつまでも信じないことです。

 

唯一信じられるものは真の自立にしかないと信じることです。

 

あなたが本当に求めているのは、自分自身の力を取り戻すことです。

外側からの承認は、その後でもし得られたらラッキーだくらいに思えばOK。

 

なによりも自分の力で生きているのは、もう元には戻りたくないほど自由で楽しいものです。

権力に売り渡したりせず、一刻も早く自分の力を取り戻しましょう。

 

 

 

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追い求めるほど苦しくなる他人の評価

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人間関係008:追い求めるほど苦しくなる他人の評価001

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◆あの人に気に入ってもらえただろうか?


 

「あの人はちゃんと気づいてくれたかな?]

 

「なぜ返事をくれないのだろう?」

 

「今日は笑ってくれなかった。何か気に障ることを行っただろうか?」

 

「今頃あの人たちは、私のことをどう思っているのだろう?」

 

このような不安を抱いたことはありませんか?

 

おそらく、ほとんどの人が昨日も今日も、このような不安がよぎる瞬間を何度も繰り返しているのではないでしょうか。

 

この不安はどうすれば消えるのでしょう。

 

Facebookなどをやられている方なら、より多くの知り合いを作り、より多くの人が自分にメッセージをくれるようになればいいと思っているでしょう。

 

そして、たくさんの友達が出来れば、「その時は、先程のような悩みは消え去ってしまうに違いない」と信じているわけです。

 

ところが、たとえば5000人の友達を達成したら、その瞬間にあなたの悩みは消え去るのでしょうか?

 

あなたは、その時からもう人からの評価を一切気にせずにいられると、本当にそう思えますか?

 

このような不安を覆い隠す為の努力は、実は残念ながら役に立ちません。

 

この方向でいくら友達を増やしても、あなたの不安が消え去る日は来ないでしょう。

 

最大の理由は、最初に挙げたような他の人からの評価や愛が必要だという考え方そのものが、あなたの不安の原因となっているからです。

 

皮肉にも、追い求めれば求めるほど、苦しさは増してきます。

 

求めるのを放り出したとき、それは消えていきます。

 

たとえば、「あの人はちゃんと気づいてくれたかな?]と思い、特定の相手がどう思ったのかを気にします。

 

その結果を知りたくてたまりません。

 

もし、もう私のことなんか必要のない人間だと思われていたらどうしよう。

 

想像すると、不安のあまり身体の調子も悪くなります。

 

他の事が手につかなくなるかもしれません。

 

しかし、ここでこんなことを考えて見て下さい。

 

何かの理由で、その人へのあなたの思いが変化して、

 

「もうあんな人にどう思われようとかまわない」という状況になったら。。。

 

そうなったとき、「あの人はちゃんと気づいてくれたかな?]という不安はどうなっているでしょう。

 

消えてしまっている!

 

そして、もうこれ以上その人の評価を気にしなくてもいいとわかると、あなたは肩の荷が下りて大きな開放感を感じるでしょう。

 

「もう気にしなくったっていいんだ。」

 

これから解る様に、不安を作りだしていたのは、まさに評価を求めるという行為そのものにあったのです。

 

 

しかし、あなたはこう思うかもしれません。

 

「だけど、それは他に頼れる人が出来たから、その人のことを手放せただけじゃないの?」

 

そうなのです。

 

そうやって、1つの不安対象を手放し、代わりに新しい不安の原因を求め出すから、この堂々巡りは永遠に続いてしまうのです。

 

必死になって、評価を追い求めるのを一切やめてしまえば、そこに見えて来るのは、すでに自分には求めなくても支えてくれるものが備わっていたんだと言うことです。

 

あなたのいまいるところで、まわりに見える物を考えて見て下さい。

 

どれをとっても、あなたが自分の力だけで作りだしたわけでもないけれど、それがあるおかげでいまの自分が成り立っていることがわかるはずです。

 

誰かがそれを作りだして、いろんな経緯であなたの元に届いたのです。

 

ものだけではありません。

 

あなたがいまこれが好きと思っている考えは、どこから来たのでしょう。

 

すべてあなたがひとりで考え出したことですか?

 

そもそも、あなた以外に誰もいなかったとしたら、ひとつでも自分で思いついたでしょうか。

 

思いもしなかった考えの集まりで、いまのあなたが出来上がっているのではないでしょうか。

 

知っている人、話したこともない人、文字だけの情報でつながっている人、本で読んだだけの人。。。

 

いろんな人がどこかで関与し、あなたの好みに影響を与え、あなたの廻りのものを提供してくれて、いまのあなたがやっと出来上がっています。

 

それらは、あなたが不安を感じながら追い求めなくてもやってきたものばかりです。

 

「いや、不安に思ったからこそ手に入ったんだ」と思いたいですか?

 

しかし、そのように考えようと考えまいと、必要なものは手に入れていまのあなたが成り立っているのです。

 

「不安を持ちながら努力しないと欲しいものは手に入らない」

 

という迷信を信じなくても、気がつけばあなたは手に入れてきているのです。

 

むしろ、不安を感じるあまり、自分からあきらめるようなことしたから、本来は手に入ったものを逃しているかもしれません。

 

不安を抱きながら評価や愛を探し続けるのは、「まちがったやり方」。

 

これが腑に落ちて信じられれば、あなたはもうこれ以上苦しめられて自分を痛めつけることはなくなります。

 

あなたが期待してもしなくても、不安を感じようと感じまいと、あなたはすでにいっぱい手に入れてきたのです。

 

必要になれば手に入ると信じるだけでことは足りるのです。

 

足りていることを発見すれば、世界はすでにあなたのものだったことに気づけるのです。

 

「今持っているモノで満足し、ありのままの姿を喜ぶことだ。

何も欠けていないと悟れば、全世界が自分のものになる」

 

----- 老子 -----



◆認めてもらおうという気がなければあなたはどんな人になりますか?

「相手にどうやって自分の存在を認めてもらうか」

 

これは、私たちがふだんから、ほとんど意識せずにせっせとやり続けていることではないでしょうか。

 

よりはっきりさせるために、このような設定を考えてみて下さい。

 

・あなたが相手に印象を与えて自分の存在に気づいて欲しいと思っている人。

 

・愛されたいと思っている人。

 

・相手に自分はこんな才能があると気づかせて、「すごいなあ」といわせたいと思っている人。

 

・怒らせたくないと思っている人。

 

・あなたを支配できると思って恐れている人。

 

 

このような人を前にして、あなたがどんな行動をするだろうかを考えてみて下さい。

 

・必要以上に相手の言葉に感銘したと伝えようとする。

 

・注意を惹こうとして、相手の喜びそうなことなら自分にとってつまらなくてしょうがないことでも質問する。

 

 

・何とか自分を売り込まなければいけないと思って、自然な会話は上の空になり心が落ち着かない。

 

 

・相手の考えに合いそうもないことは、いくら自分で思っていても言ってはいけないと思い窮屈な会話になる。

 

 

・相手が気に入ることを探り出して、自分がそういう人間であると見せるのに必死になる。

 

つまり、極端に言えばあなたは相手の奴隷になり、自分に正直には生きられないということです。

 

 

ここで、それなら自分がその相手に対して、相手が認めてくれようがどうしようがかまわない、相手が自分を好きにならなくてもいっこうにかまわないという前提だったらどうなるでしょう。

 

そのつもりで接したら、その場合自分はどのようになるだろうかを想像してみます。

 

・あなたは自分の思ったことをチェックしたりせずに自由に話せます。

 

 

・相手の言うことに自分を合わせようと思わないので、ゆったりと相手が言っていることを聞き取れるでしょう。

 

 

・相手の提案に対しても、自分の利害関係を考えないので、率直にYES・NOを答えることが出来ます。

 

 

・この会話で成果を上げなければならないという緊張感や制約もないので自由に話を楽しむことが出来ます。

 

 

・相手に自由に自分を表現して、それで相手が嫌いになろうがなるまいが関係ないと思うことが出来ます。

 

そして、このような自然な自由な会話が、あなたからどれだけストレスを解放するかを想像します。

 

また制約のない会話のおかげで、どれだけ実りの多い相手との関係が得られるかを考えてみて下さい。

 

これは仕事だから、重要な取引だからという理由で、どれだけ「認めてもらおうという」という気持ちから行動しているかを知ります。

 

そして、もしその制約がなかったらどうなるだろうかを想像してみて下さい。

 

それがないと、絶体ダメ、うまくいかないと言いきれますか?

 

逆に、そんな制限がなければ、もっとうまくいくかもしれないという可能性は見えてきませんか?

 

過去を振り返って、知らず知らずそのような自然な関係を持ったおかげで、とても有意義な時間を過ごせたという経験があるはずです。

 

「認めてもらわなければ」という恐れから来る行動を、そんなものはいらないと拒否する勇気が出てきませんか?

 

そして、制限して作り上げている関係とは、あなたの側で作り上げた人工的なものであり、自分とは違う人間を演じないとなりたたない牢獄であることが見えてこないでしょうか。

 

ずっとそのままでいたいと思いますか?

 

いつかそうでない関係に戻れるから、いまは仕方ないと思っているかもしれませんが、おそらくそれは永遠に変わらないでしょう。

 

そのうち、やり方を変えるよりも、これは必要悪であると理由をつける方が簡単になり、それが習い性になってしまうからです。

 

しかも、そのやり方は、特定の相手だけでなく、誰に対しても同じやり方をするようになっていくのです。

 

※ディスカッションにも追加しました。書き込んで自分を確認してみてはどうでしょう。

 



◆見返りを求めるのは正当なことでしょうか?

 子どもたちが友達と遊んでいます。

 

誰かが自分がやりたい遊びをやろうよと言いますが、「いやだ、やらない」と言う子もいます。

 

言い出した子は「もうあのことは遊ばない!友達じゃない」と言いたくなる。

 

「友達なら自分が求めることには賛成するべき」

 

という暗黙のルールがそこにはあるわけです。

 

大人になってもそれは変わりません。

 

「自分を大切にしてくれる人は、自分の考えに賛成してくれる人であるはず」

 

そう信じているので、例外が発生すると動揺し慌てることになります。

 

「悪いけど、今回はその考えには乗れないね!」と言われたら。。。

 

ルールをあまりにも信じていると、相手が自分とは独立した存在であることを忘れてしまいます。

 

「この人はどんなときだろうと私の望みをかなえてくれるはず」と思い込んでいるので、

 

ちょっとした反対に出会うと、ナイフでぐさりとさされたようなショックをうけてしまうのです。

 

あげくは「あの人は、心変わりしたんだ」、もう自分の期待する人でなくなったと極端な考えに走ります。

 

しかし、ここで冷静になって考えて見て下さい。

 

「悪いけど、今回はその考えには乗れないね!」とか、「○○は好きじゃないから、遠慮しとくよ」というのは、おかしなことでしょうか?

 

それは違反だという考えと、人には自分の好きな選択をする権利があると考えるのと、どちらがより正しく思えるでしょうか?

 

問い直せば、わかることの筈です。

 

ですが、「自分を大切にしてくれる人は、自分の考えに賛成してくれる人であるはず」という考えが染みついてしまうと、とんでもない裏切りが起こったように動揺してしまうのです。

 

「いいよ、そういうつもりなら、付き合うのをやめよう」

 

言葉にして言うか、ただ自分の中で密かに決めてしまうかはわかりませんが、

 

冷静に考えれば奇妙なことも、それが当然のことのように思えてしまうのです。

 

このルールを守って、自分も相手に「あわせる」ことを自分に言い聞かせ実行しているている人ほど、他の人からの「見返り」を期待するようになります。

 

そして、裏切られたという感情もより強い得ものになってしまうのです。

 

 

しかし、このようなやり方は、うまくはいかないでしょう。

 

人は自分のやりたいようにやる方が自然なルールなんですから、その範囲内でならで賛成するでしょう。

 

しかし、どんなときもそのルールを守れと言われたら、それはできないと拒否するのが当たり前なのです。

 

 

わかっていながら「見返りを求める」ことをついついやってしまいます。

 

しかし、期待して待つのはとても苦しい時間を作りだします。

 

「もし期待を裏切られたら、そうなったらどうしよう、仕返ししてやるから、早く返事が欲しい。。。」

 

「期待している私は悪くないはずよ、もしNOだったら悪いのはあの人の方!」

 

相手にNOを言う権利はあることを十分わかりながら、それを一方的に期待している後ろめたさを、なんとか誤

魔化すためのいいわけを探そうとします。

 

契約した商取引なら、守ってもらわないと困ります。

 

しかし明文化されているわけではない暗黙のルールは、気づかないうちに私たちを「いらつかせ」たり、「いたたまれない」思いに陥れます。

 

結構ありがちなストレスの原因ではないでしょうか。

 

何でこんなに苦しい思いをしているのかと思ったら、無理な見返りを期待していないか考えて見るといいかもしれません。

 

それに気がついたら、あっさりその期待を手放して、他の確実な関係に係わった方がずっと建設的なのです。

 

相手のせいだと言いはって譲らないとき、痛手を受けるのは他ならぬ自分だけなのです。

 


◆個人的な受け取り方から抜けだそう/すぐにキレないために

いきなり結論から入りますが、ついムカッとなったり、キレてしまう状態から脱却するには、いつまでも出来事を個人的に受け取り続けないことです

 

私たちは普段からものごとのとらえ方の癖といったものを持っています。

 

ですから、いきなり自分の枠組みから外れた働きかけを受ければ、身構えたり、反発を感じたり、攻撃に転じたりしてしまうのも仕方のないことです。

 

「相手はこういう人だから、こういう言い方をしがちだ」という情報を持っていれば、それが防止に役立ちそうにも思えますが、やはりいきなり話しかけられたりしたときには、その場ではつい衝動的に反応してしまうものです。

 

相手の傾向について情報を持っていれば、後からそれを使って相手の言動を理解し直すことは出来ますし、それを繰り返していれば徐々に衝動的に反応することも少なくはなっていくでしょう。

 

ですが、いつも一緒にいる家族や同僚となら、そういうことも出来ますが、会う人会う人ごとにいちいちそんな対応が出来るわけではありませんね。

 

 

そう考えてくると、むしろ「キレない」でいようとするよりも、いつまでもその状態をとり続けないことを考える方がずっと現実的なのではないかと思うのです。

 

いつまでも反発が収まらないかったりこだわりがとれないのは、最初に言ったように、いつまでも出来事を個人的に受け取り続けるところにあると思います。

 

つまり、相手の言ったことや行動が「わたしという特定の個人に向けられた」ものであると思いこみ過ぎるのです。

 

人の心理というのは、誰か特定の人にだけ向けられた思いのように見えても、ほとんどの場合は「自分(1人称)」か「誰か他の人(2人称あるいは3人称)」かという大ざっぱな2種類のものに向けられたものなのです。

 

またさらに言えば、自分に向けられた感情と他人に向けられた感情は、容易に入れ替わってしまうものです。

相手を攻撃している思いは、容易に自分への攻撃にも転化しますし、その逆の現象も同様におこります。

 

ですから、人の心理状態は誰か特定の人への思いというよりも、その人固有の構えによって生じた、不特定の相手への感情表現であると考えた方が近いように思います。

 

つまり、何かを許せないと思う人は、あなたに対してだけではなく、他の誰に対してもその非難を向けるものだということです。

それをいつもいつも「わたしという特定の個人に向けられた」ものであると気にしすぎることはありません。

 

たとえ相手の人が「他の人はそんなことはしない。あなただけだよ!」という表現を使ったとしても、だから私は特別変わっているんだというように思わないことです。

 

その人はいたる所で、あなたのような人を見つけているはずですから。

 

その非難が、もし普段から自分の気にしている弱みだったりすると、つい自分だけに対する攻撃のように思ってしまうでしょう。

 

しかしほとんどの場合、あなただけが気にしすぎる必要はないことなのです。

 

あなたが、たまたま運悪くその場に居合わせただけなのかもしれません。

 

 

このような人間の心理の傾向をわかっていれば、いつまでも相手からの非難などを個人的なものだと思い続ける必要はないことがわかります。

 

ついムカッときて反応したとしても、いつまでも私への非難だと思い続けなければ、キレた状態を続けることもなくなるのです。

 

そして、より早くその切り替えを出来る様にするには、すぐに「いま」に立ち戻ることです。

 

相手の非難で自分の普段から気にしている弱みを刺激されてしまうと、「いまここ」を離れて一気に過去の記憶の世界に入り込んでしまいます。

 

自分の過去の記憶から、傷ついた経験やその時の感情などがセットになって蘇ってきて、あなたはその記憶の世界にさまよい込んでしまいます。

 

相手の言ったことは、きっと私のあの出来事を知っていて非難しているに違いないとか、自分はまたあのときのような失敗をしてしまったのだろうかとか、そういったことを思い出してそれをここで再現してしまうのです。

 

また、自分への非難や攻撃として受けとってうろたえると、なんとか自分を守ろうとして、相手に対する反撃に転じてしまいます。

 

こうなると、もはや原因が相手なのか自分なのかはあまり関係なく、「いまここ」から離れた自我の攻防の世界に入ってしまうのです。

 

ですから、なんとかこのような世界に入り込まないように、「出来事を個人的に受け取らない」ことと、素早く「いまここ」に立ち返ることが肝心です。

 

「いま」の相手の表情をありのままに見て、「いま」相手が言っていることを自分の構えに影響されずにそのまま聞き取るようにするのです。

 

そうすれば、一瞬のうちに遠い記憶の世界に飛んでいた自分を、いまここに引き戻すことが出来ます。

 

そうか動揺しているとき、自分は「いまここ」にいなかったと気づきます。

 

「見るときは、じかに見ること」「聞くときには、聞こえることをそのまま聞くこと」

 

キレるとは、遠い記憶の世界に飛んでいってしまうことなのです。

 

 

 

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人間関係008:追い求めるほど苦しくなる他人の評価001

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共依存と子育て

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心理療法003:共依存と子育て001

共依存(共生関係)についての解説。
親子関係から、子育ての姿勢など。

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◆共依存(共生関係)とは

共依存(共生関係)とは、お互いが相手に依存することで成り立つ関係のことです。

 

生まれたばかりの赤ちゃんが、親に依存しないと生きていけないというような関係は健全な依存といえますが、その後成長するにつれて赤ちゃんも、依存から抜け出して自立していくようになります。

 

しかしその成長過程において、不適切な育児を受ける環境に育った場合には、正常に自立することが難しいという場合がでてきます。

 

この自立を妨げるのが、依存から抜け出せない関係、共依存の関係です。

 

では親子の場合の共依存とはどのような関係でしょうか。

 

まず親の方は、「子どもを養育する」ということに依存しています。

つまり、このような親は子どもとの関係を通じて、「子どもに何かをしてやれること」によってようやく自分の存在価値を見いだすという依存があるわけです。

 

 

依存する親の多くは子供に対して「甘やかし」をします。

子供に依存した親は、子供が成長していくにつれ、だんだん自分がしてやれることが、少なくなってくることに不安を感じます。

 

そのために、子どもに自分でやらせた方が良いことまで、親の方から先に手伝ってやってしまおうとするのです。

 

一見子供を心配しての行動に見えますが、過度の干渉になってしまうのは、子供のためと言うよりも、親自身の不安から来る行動だと言えます。

 

一方で、子供の方は依存した親に育てられると、「自分でやるからいいよ」という一言がいえないまま、自分も親に依存するという関係を強いられることになります。

 

このような子供は、大人になってからもお互いで依存するような関係をもてる相手を探し出そうとします。自分の親との関係を再現するような関係です。

 

自分で出来ることも相手にしてもらうことを求めたがったりする関係や、あるいは逆に自分が親の立場で、相手を甘やかして依存させる関係を築こうとするわけです。

 

そしてまた、将来的にも自分が甘やかす親となって、自分の子供に依存させるように接するというのも珍しくないわけです。

 

このような操作的な親と暮らしてきた人は、大人になっても適切な人間関係を持つのがとても困難なものです。

なぜなら、自分は不適切な人間関係の取り方ばかり見せられてきているので、それ以外の方法をとることを知らないからです。

 

 

共依存は、まずどちらかが自立したいと思うことが、その関係を断ち切るためのスタートになります。

 

片方が依存をやめようと思っても、相手は何とか今の依存関係を維持するための抵抗を示すでしょう。

 

今日取り上げた親子の関係の場合であれば、親は何とか自分の手助けというものが必要なのだと、説得しようとします。

それでも依存を拒否されれば、「こんなに子供のことを思っているのに、なんて親不孝な...」といったことを言い出すかも知れません。

 

共依存の場合、その中で依存されることにより自己愛や自尊心などが満たされるという関係であるため、それを捨てても他の方法で満たすという決心も必要になります。

 

なかなか簡単なことではないですが、まずは自分が共依存という関係にあることを認識し、またそれ以外の関係の持ち方があることを経験しながら、自分の依存している部分を他の方法で置き換えていく必要があります。

 

 

友人との関係や仕事での人間関係などを、新しいやり方で作り上げていくこと、またそのような関係が自分にもとれることを知ることです。

それによって、自立して自分の判断で決定することも可能なのだということに、自分をならしていくのがいいのではないでしょうか。

 

また自分だけでは手に負えないと感じるのであれば、新しい人間関係を作り上げる方法やそのための訓練を教えてくれるような専門家に相談してみることが必要な場合もあるでしょう。その場合もまずは決心してスタートを切ることです。



◆共依存から脱却するには

共依存で生きることを強いられてきた人が、そこから脱却するということ。

 

そのためには、他人からの感情の操作に抵抗できるだけの知識を持ち、信じ込んできた幻想から自由になる必要があります。

 

「そんなことは考えない方がいいよ」という他人の声に対して、従う必要があることなのかそうでないのか、それを自分で判断できるようにする訓練が必要です。

 

子どもの時に判断力も乏しく弱い立場にあるときに、親が操作的な人だったりするとその影響を受けることを拒否することなど出来なかったでしょう。

 

 

その結果、自発的な自分の考えや感情は間違っていると思い込まされて大人になります。

「自分の感情を信じてはいけない、自分が感じていいのは他の人も認めることだけだ。」

「相手の感情を傷つけたのは、全て自分の責任だ。」

 

そしてまた、裏返しで自分の側からも、他の人がそのように信じることを強要することにもなります。

 

大人になってからもその影響は続いているので、親以外からでも感情を操作するやり方には屈してしまうことになります。

 

「そんな考えを持つなんて、ひどい人間だよ、私は傷つけられた」

「なんで怒ってるかわかる?あなたのそのやり方はひどいことなんだよ。」

「そんな考えを持っていると、いつかひどい目に遭うよ、あとで後悔するよ」

 

 

自分の意志や判断をもつことに充分な信頼を持っていて、また他の人との関係においても負い目を感じずに接することが出来る、そんな人ならばこういう脅しには乗らずにいることが出来ます。

 

しかし、いままで共依存の環境で生きてきた人にとっては、他人からこのような感情操作を受けると、すぐに自分の判断がぐらついてしまいます。

 

「やっぱり自分のしようとしていることは、間違っているのではないだろうか?」と考えてしまうわけです。

 

そこで、これまでの幻想を打ち砕いて、新しい自分が持つべき指針は次の点です。

 

「私は他人の言ったことで感情をコントロールされたりしない」

「私の感情は私自身がコントロールできる」

「私の感情の責任は私だけにある」

「相手の感情の責任は私にはない」

 

相手の感情は、その人が責任を持つことです。

あなたの自分の何かがその人の感情を傷つけたという脅しには乗らないことです。

 

あなたは自分の自発的な感情を信じることも許可されているのです。

「そんな風に感じるなんてダメだよ」と他人から言われる必要はないと言うことです。

 

 

これを頭に置いて、相手が自分の罪悪感に訴えて感情を操作しようとしてきても、きっぱりと自分の判断でそれが自分に必要かどうかを判断できるように訓練していくことです。

 

またその時には、共依存の関係にある人からは、抵抗に遭うことも覚悟する必要があります。

あるいはまた、自分自身の内側からも、「こんなやり方はよくないよ。今までのままの方が平和でいいんだよ。」といった抵抗が出てくるかもしれません。

 

しかし、自分の魂を売り渡したまま生きるのがいやなら、それは取り組む価値のあることです。

自分を取り戻せるまで、少しずつ繰り返して自分のものにしていくことです。


◆3つの家庭『レンガ壁・クラゲ・背骨』

バーバラ コロローソさんは、子育てにおける家庭には3つのタイプがあると言います。

 

「レンガ壁タイプ」は、変えようのない枠組みが頑として出来上がっていて、しかもそれはすべて親の権限に委ねられています。子どもが自分の自主性を発揮する隙はありません。

 

「クラゲタイプ」は、その名前のように背骨になるはっきりした基準がありません。

レンガ壁タイプとは対照的に、すべて行き当たりばったりで、一貫性のないしつけになってしまいます。

 

「背骨タイプ」は、上記の2つのタイプに欠けている「背骨」がしっかりしています。

「背骨」とは、子どもが自分のことを大事な存在であると確信できる拠り所を持たせてくれるものです。

「背骨」が育っていれば、自分も他人もそれぞれが大事な存在であることを認識しますから、どちらに対しても傷つける様な行動を取らずに、それぞれがかけがえのない存在であることを見いだします。

 

 

「レンガ壁タイプ」の問題は、親子の間で上下関係が一方的に存在するため、命令は有無を言わせないものとなり、そのような親に育てられた子どもは、自分自身で判断するという能力を育てられないままになってしまうことです。

 

単に命令する態度だけを受け継ぐのなら、まだ救いはありますが、自分で考える能力を奪われ、自分の要求を持つことは出来ないこと(やってはいけないこと)だと信じ込まされますから、大人になってからも自分の判断や感情を表現することが出来なくなります。

 

その時、その場面で自分の判断する力を押さえつけていますから、やれることは親が見せてきた、一方的な押しつけや、反抗に対して力で押さえつけようとするやりかたばかりになってしまいます。

 

このようなやり方でそだてられると、「考えるな」とか「感じるな」という禁止令を背負い込んでいくことになります。

 

この結果大人になっても、自分の考えや感じ方を人前で表現することを、無意識にさけるようになります。

 

たとえば、自分が意見を言えないのは、充分な知識がないからだと言い聞かせているかもしれません。

 

しかし、自分の禁止令に気がつかないと、いくら知識や情報を与えられても、なぜか自分の意見が思い浮かばないという状態になるかも知れません。

 

あるいは、自分は感情を表現しないタイプだとか、感受性が乏しいと思い込んでいるかもしれませんが、何かのきっかけで火が付いたような感情の表出が起こって、自分でも戸惑うかもしれません。

 

また、「レンガ壁タイプ」に育った子どもは、親のような一方的な力で押さえつけるやり方を嫌い、自分が親になったらそのようなやり方を子どもにはしないようにしようと思う場合もあります。

 

しかし、そこで親とは違った、自分のやり方、考えを持とうとしたときに、自分の中でそのモデルになるものが育っていなかったことに直面することになります。

 

 

そのような経緯から出来上がった家庭は、「クラゲタイプ」になる可能性が在ります。

 

親は子どもに自分が受けたような、強制的な力関係を持たないようにしようと思いますが、その一方で子どもにどのように見本を示して良いのかわからないことが多いからです。

 

その結果、子どもに対しては自由にやらせてあげようとする一方で、急に親に教えられたような高圧的な禁止命令を与えたりすることになります。

 

子どもの自主性をはぐくむ場面と、圧力を掛けても矯正すべき場面を見分けて、やり方を変えるというモデルになる親像が、自分の中にないからです。

 

あるいは、自分自身もどう動いて良いかがわからないのかもしれません。

 

また、上記のタイプと重なる部分もあるかもしれませんが、「クラゲタイプ」には、自分の面倒を見たり、困難を処理するのに精一杯であるために、子どもへの対応が「クラゲ」のように背骨なしになってしまう場合もあります。

 

たとえば、自分の自尊心をうまく育てられなくて、子どものことを考えるだけの余裕が無かったり、アルコール依存や仕事依存のために家庭を顧みる余裕がもてないといった理由で、子どもを相手にしている時間を持つことが出来ません。

 

子どもにしてみれば、拠り所にするものを親から期待できないので、何でも自分で処理しなければならないと思うしかありません。

 

しかし、子どもには充分な判断力は期待できませんから、でたらめをやることになったり、また人を信用するという心を育てられません。

 

そんななかで、どうにか生きていくためには、表面上は大丈夫を装ったりしますが、いつも不安でたまらないでしょう。

 

嘘をついたりして、何とか人を利用する方法を編み出そうとするかもしれません。

 

 

当然「クラゲタイプ」の場合も、「レンガ壁タイプ」に育てられた子どもと同様に、自分や他人の面倒を見るというモデルが育ちませんし、自分を大切にすることや、自分に価値があると信じることが難しくなってしまいます。

 

「レンガ壁タイプ」や「クラゲタイプ」というのは、別にすべての面でそうなるというわけではないわけで、だれしも部分的には、自分にもそういう所があると思うことでしょう。

 

どれだけ、親から影響を受けたかは人それぞれ違いますが、親自身もやりたくてそうしたわけではないという点をわすれてはならないでしょう。

 

自分の側も、充分に育たなかった部分は、そのような事情もあって仕方がなかったんだと認識すれば、今度は自分で自分の中に、新しい親のモデルを作り上げていくという選択も出来るわけです。

 

「背骨タイプ」の特徴として、バーバラさんが上げていることを引用してみます。

 

●子どもを無条件に愛し、受け入れ、はげますことによって、子どもを尊重する。人生において大切な意味をもつ次のようなメッセージを日々与える。

 

「わたしはあなたを信頼している」

「あなたはちゃんと取り組めると思う」

「わたしはあなたの言葉を聞いている」

「あなたは大事にされている」

「あなたはわたしにとって大切な存在だ」

 

●子どものあるがままの姿を受け入れ、やる気をうながす。

 

●失敗しても、きちんと「次のチャンス」が与えられる。

 

●自分の感情を受け入れ、責任を持ってその感情を表現する方法を学ぶ。

 

●しっかりした自尊心を育み、トラブルや危険から身を守れるようになる。

 

●経験によって、他人の意見を尊重することを覚える。

 

●ルールは、はっきりとわかりやすく言葉にされる。

 

●子どもの尊厳を保ちながら、問題解決の方法を考えさせる。

 

 

「自分ならもっと他のやり方を知っているのに」と親が思っても、成功にしろ失敗にしろ自分自身で経験させなければ自分のものになりませんから、時には言葉を呑み込む必要も有るでしょう。

 

経験のある大人と違って、子どもははっきりしたルールを示されないと、自分で判断する力がないかもしれません。

 

「自分の役割を果たさなかったら、あした学校に行かせません」と言えば、子どもは朝になってもベッドから出ようとしないかも知れません。「出来なかった分は、学校から帰ったら遊びに行くまでに済ませること」というようにはっきり示さないとなりません。

 

 

子どもの問題行動を叱るには、まず、何がいけない事だったのかをはっきりさせておくことが必要です。

 

親がただ、「なんてことをしてくれたんだ」と怖い顔をしていただけでは、子どもは何を問題にしているのかわかっていないかもしれません。

 

また、問題が明らかになった所で、子どもがどのようにそれに関わっていて、どの部分に自分が責任を負わなくてはいけなかったのかをはっきりさせる必要があります。

 

そうしないと、同じ事態が起きるたびに、自分が係わっていなくても、また叱られるのではないかと脅えるようになってしまうでしょう。

 

それと、子どもに解決能力があるようになったら、できるだけ解決する方法を考える事に参加させて上げるのが良いでしょう。

 

自分も後始末に参加出来ることで、子どもは自信を持つことができますし、失敗の記憶よりも自分の解決能力を発揮出来たことに夢中になるかもしれません。

 

逃げようのない無条件の非難で子どもの自尊心を傷つけることを避け、また、安易な賞罰で問題ある行動をやめさせるのは必要最低限に留めた方が良いでしょう。

 

アメで言うことを聞かせれば、次もアメがないと動かなくなるし、ムチで力任せに従わせていると、そのうち子どもが力を持ったら仕返しやるぞと思うかも知れません。

 

そして、では自分も「背骨タイプ」になろうと決心しても、自分の持っていないことまで急に出来る様になるわけではありません。

 

親だからというだけで、失敗や欠点を免れるわけではありませんから、まずは親自身が自分自身と折り合いをつけられるようになる必要があることは言うまでもないでしょう。

 

 

【参考文献】

子どもに変化を起こす簡単な習慣―豊かで楽しいシンプル子育てのすすめ (PHP文庫)

バーバラ コロローソ / PHP研究所 / 2003-11 /  

 

 




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気がついていない自分を探そう!

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◆腑に落ちない

「ふにおちない」という感覚をいい加減に扱わないようにしたいと思います。

 

腑に落ちないと感じるのは、トータルで見たときに気がつくものです。

 

そうなる前には、部分部分では納得してやっていると思い込んでいる行動が、先行しているものです。

 

しかし、少し長いスパンで振り返って見ると、何か納得がいかないで、不快で居心地が悪い状態に陥ってしまうのです。

 

たとえば、「過剰適応」といわれる状態があります。

 

人との関係を良好に保つために、適度に相手に合わせてみるというのは、スムーズな関係を生み出すのに有効です。

 

しかし、「過剰適応」というのは、その適応が過剰になってしまう。

 

たとえば、誰かにめんどうなことを頼まれたとします。

 

「えー、そんなことやってられない」と本音では思っても、「いいわよ、それくらい何でもないから」「私そういうのが好きだから、喜んでやらせてもらいます。」「人の為になることをするのって気持ちいいものね。」というように、無理をして引き受けてしまいます。

 

腑に落ちていない自分を納得させるために、どんどん理屈を追加していくのです。

 

めんどうなことを頼まれて、「私はそう言うことが好きな人間だ」と言い聞かせてみる。

 

さらには「人間は助け合って生きていかないといけない」という理屈でだめ押しをするのです。

 

しかし、困ることを引き受ければ、困るのは当たり前、あとから「何でこんなこと引き受けたのだろう」と後悔しだします。

 

過剰適応につきものなのは、エリック・バーンのいうところのゲームです。

 

やっかいなことを引き受けたのは自分ですが、やがて、「こんなにやってあげているのに、何であの人は感謝してくれないのかしら」と思い出す。

 

自分が嫌な役目を引き受けているんだから、相手もこちらのためにお返しをすべきだ。

 

それが出来ない人間は、ダメな人間、間違っている、ちょっと教えてやらないといけないようだ。

 

というように、相手への批判、反撃、復讐へとエスカレートしていきます。

 

「ひとは~すべきだ」という言い方が問題を起こすのは、このような状態から発生するケースなのです。

 

言っていることは、もっともで、反論のしようがないのだけれど、それだけにやっかいなのです。

 

そもそも、「相手を批判し、追い込んでやり込めたくなる終わり方」に行き着くところが問題なのです。

 

エリック・バーンは、こういった結末が予測出来る、「腑に落ちない」やりとりをがゲームと呼んだわけです。

 

このタイプのゲームをやりたがる人は、やたらと「正しい」ことを振りかざす傾向があります。

 

しかし直接的にいってくる人は、まだわかりやすいのですが、やっかいなのは、笑顔で皮肉を込めてくる人(笑)。

 

通常の「適応」ならこのような嫌な結末には行き着かないし、腑に落ちない状態には陥らないのです。

 

日本語には、せっかく「腑に落ちない」という微妙なこころの状態を指す言葉があるのですから、それを感じ取れる感性も失わないようにしていきたいものです。

 

腑に落ちないことがあったら、何が起きているのかを探ってみる。

 

そのときには、さきほどの「ひとは~すべきだ」というような理屈が入り込んでくることを、注意して避けないとなりません。

 

言っていることはわかるけれど、納得がいかないと思ったら、腑に落ちるまで正直に自分を振り返ってみる。

 

自分がわからない状態に陥らないためには、大事なことだと思います。

 

 



◆困ることは人によって違うんです


以前紹介した養護学校の生徒さんのお話から一つ紹介します。

 

あっくんは、物事がはっきり決まっていないと、いたたまれないくらいに困ってしまいます。

 

「何時何分から夕方ですか? 何月何日から秋ですか?」

 

きちんと決まっていないと、あっくんにとっては大問題なのです。

 

「お日さまが沈みかけたときが夕方ではどう?」

 

そういわれて、いったん納得しかけたあっくんですが、あとで困ったことに遭遇します。

 

「曇り空で、お日さまが沈みません。夕方はどうなるのですか?困ります!」

 

 

ひとそれぞれ、困ることは違うものです。

 

そしてそれは、その人にとっては大問題なのです。

 

私たちは「そんなことはわかっている」と思っています。

 

そして、あっくんのように普通とは違う行動は、問題がなければその人の個性だくらいで受け入れます。

 

 

しかし、その人の困ることが社会のメジャーな規範から外れていれば、どうなるでしょう。

 

個性を認めるどころか、そんな考えは社会にとって悪であるというレッテルを貼って、弾劾しようとし始めます。

 

どれだけ良識のある人でも、社会全体が偏っていると、その常識を外れて考えるのは難しくなります。

 

だけど、「だから、合わせればいいことだ」と当たり前のように言って、

それが出来ない人間を排斥しようとするのは私には納得がいきません。

 

 

人と協調するのがいいと考えると徹底して合わせようとする、

個性が重要だと考えると人と同じことをしているのを軽蔑してみせる。

 

こんな2元論に陥ることは避けたいと思うのです。

 

合わせることも必要だし、重要なことだけれど、自分は違うと思うことは捨てるわけにはいかない。

 

人と違っていても、それを諦めて捨てなければならないわけではない。

 

あくまで、自分がその気にならないあいだは、その人のやりたいことが真実なのです。

 

何がいいたいのかというと、自分の感じ方が人と違っていたとき、どうするのがいいかという話です。

 

そんなとき、わたしたちはどちらが正しいのかを究明して、結論が出た方に合わせるべきだと考えてしまいます。

 

やはり、2元論になってしまうのです。

 

ですが、いまの自分にとっての感じ方を否定する必要は無い、

社会がそれをよしとしなくても、両方が併存してればいいだけのことだと思うのです。

 

すごく当たり前のことだと思われますか?

 

ですが、私たちは気が付けば、白黒つける思考に走ってしまい、

その結果自分の感じ方を諦められないと悩んだり、

自分はどこかおかしいのだろうかと自分を責めたりしているのです。

 

「すっきりしない、白黒つけられない」ということは、むしろ自然なのだと私は思います。

 

あいまいさに絶えられないと思うのは、思考に頼りすぎてしまった結果です。

 

今も絶えず変化を続けている私たちの身体と同様に、感じ方も絶えず変化するのが自然なことだと忘れてしまっているのです。

 

強固な意志は、立派に見えますが、どこか不自然さや、やせ我慢を感じてしまいます。

 

わたしは、社会から見て困った人にされても、自分の感じ方を犠牲にしてまであわせようとは思いません。

 

それならば、むしろ孤独を選びたい。

 

このように言い切ってスッキリしました。

 

何を言っているか、わからないという人もいらっしゃるかもしれませんが、結構大事なことだと思うのです。



◆どうして敵が現れるんだろう

私たちは、敵が存在すると思うと、せっせとその敵の問題を掘り起こしたり非難することで、余計に敵の存在を確固たるものにしてしまいがちです。

何もいま、敵が攻めてきているわけではないのに、相手は敵であると決めてしまいたかのようです。

 

しかしここでいままでの「敵」という言葉の引き起こす感情を静かにさせて、敵がなんのために存在するのかをもう一度考えなおしてみてください。

 

 

「敵が存在することで、あなたが隠してしまっている意識の一部を、もう一度取り戻すきっかけとして利用出来る」という考え方を聞いてどう思うでしょう。

 

あなたが敵を作り出している時、そこにはあなたの独自の感じ方がその裏に隠れているはずです。

他の人がそれほどなんとも思っていないのに、あなただけがその人を敵だと感じるなら、それは誰もが思うことではないものをあなたが抱えているからです。

 

それは長い間埋もれてしまっていたために、あなた自身意識出来ていないかもしれません。

しかし、そこからあなたは何かのエネルギーを引き出そうとしています。

敵を創りだすことは、肯定的ではないにしてもエネルギーを作り出します。

 

それも他のことよりも、強いエネルギーを生み出すことが多いのです。

 

ですから、そこにはあなたが解放させるのを待っている、強い感情を創りだす原因が埋もれたままになっているのです。

 

実は、敵に向けて感じる強いエネルギーとは、深い部分ではあなた自身に対して向けられているエネルギーを反映しているのです。

 

 

それは、どんな起源を持っているのでしょうか。

 

あなたは、その人のどんな性質に対して戦おうとしているのでしょう。

その人に対して見ている、敵だと見えるその性質は、あなた自身のものとして当てはめてみたら、どんなふうに感じますか?

 

あなた自身が、そのようにふるまっていたことはありませんか?

 

あなたは、いまは敵対するその人の行動をみると、嫌悪感を持つのでしょう。

そんなふるまいが許せないと感じる。

そのふるまいを見て感じること、その時の感情、その感情、その感情、。。。

 

見知らぬものではないと感じられてきたら、それが誰のもちものだったのか思い起こしてみましょう。

 

もちろんぼんやりとしているのが普通でしょう。

ですが、他人のその人が持っている、あなたとは関係ない性質だと思っていたものが、あなたと関係ないどころか、かつては自分の一部分だったのかもしれないと思えてこないでしょうか。

 

 

少し、見る方向を入れ替えて考えてみましょうか。

 

自分が以前によくやっていたことで、いまはそれが嫌なことに思えてやめていることはないでしょうか。

あるいは、かつては好きだったのに、いまは嫌いになっているものや人はどうですか。

 

じつは、そのようなかつては自分のものだった性質を、ふと他の人の中に見つけたとき、なぜかあなたはそれを必要以上に嫌ってしまうのです。

 

その結果、あなたはなんとなく、かつて自分のものだったことを表現するその人そのものを嫌いになり、敵対するようにさえなってしまうのです。

 

そのような敵対意識は、具体的な利害関係から来る敵対関係よりも、むしろ強力な場合もあります。

 

しかし、そのような「敵」も先ほど述べたように、あなたの一部を取り戻すきっかけとして役立てようと思うなら、あなたの分裂してしまった自分を統合するのに一役買ってくれるのです。

 

そして「敵」という言葉ですぐに反応して、それを遠ざけ、非難する存在にしていたいままでの自分と違って、かつての自分をそこに見つけることができるかもしれません。

 

なぜ嫌うようになってしまったのかは、いまはもうどちらでもいいことです。

それを自分の中に取り入れて、統合してしまえば、もはや敵ではなく、大事なあなたの一部として蘇るのです。


◆自分の知らない自分を知る方法

『他の人に見る自分が気にさわる部分をチェックする』

 

たとえば 「あの人のあのやり方が気に入らない」と感じるときに自分を振り返ってみます。

 

それが気に入らないと判定しているのは、他ならぬ自分の基準だということを認めるのです。

 

つまり、もし自分がその人と同じことをしたら、自分は自分を責めて、そんなことはやめろといいたくなる。

その姿を相手の中に見ているということです。

 

それはあなたに、例えば、怒りだったり、羞恥心だったり、自分の悲しい感情を呼び起こすものだったりするのでしょう。

 

自分ならそんなことは許さない。

その思いが相手の行為に対して、あなたをイライラさせたり、落ち着かなくさせるのです

 

何が原因でそう思うようになったかは、その時にはわからなくてもかまいません。

 

肝心なのは、いまの自分にそのように反応する自分がいることに気がつき認めること。

 

そして、それは目の前にいる相手が、あなたにその反応をさせているのではなく、自分の中にそう感じている自分がいるのだということです。

 

 

『他の人の言葉に反応して、自分を守ろうとしてることに気づく』

 

いつもと違う自分の反応には、自分自身では気がつきにくいものです。

 

むしろ他の人から見ていた方が、その変化に気づきやすいでしょう。

 

ですが、あえてそれを指摘してくれることを期待するより、自分で気がつけば他の人に不必要に依存しなくてもすみます。

 

たとえば、このような変化に気がつかないでしょうか?

 

◇ある言葉を聞いた途端に、話し方のペースが変わってくる。あせったように早口になる。

 

◇ いつもなら口をはさまないところで、ひとこと言いたくなってしまう。

 

◇自分の気になっていることから、他の話題に話をそらされそうになるとイライラしてくる。

 

◇この話には参加出来ないと感じて、無力感を感じてしまう。

 

 

自分で気がつかないでいた自分を発見することは、次のようなメリットがあるはずです。

 

●わけもわからず不安になったり、イライラする自分から解放されます。

 

●一見マイナスに見える面を発見したとしても、その裏返しで思わぬ自分の才能を発見するかもしれません。

 

●マイナスだと思い込んで、押さえ込んでいたかもしれない自分の特性は、別の面から見ればプラスの働きをするものです。それらは、いままで自分でどうにも出来ない部分だと感じていたはずですから、自分を取り戻すことで自分を好きになり、自信が出てきます。

 

●抑え込んでいた感情を解放することは、一時的に戸惑いや居心地の悪さを感じさせるかも知れませんが、それはやがて自分の本来の感情であったことを発見するでしょう。もうその感情が表に出ないように見張りをしなくてもいいのです。

 

● さまざまな自分に課していた制限から解放されて、行動することが軽く感じられるようになってきます。

 

他の人から指摘されたのでは、なかなか素直に受け入れられないものです。

それらは大抵、ほかの人に知られたくないと思っていることだからです。

 

だからこそ、自分で少々気が重くてもやってみることです。

その見返りは十分すぎるほどあります。



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