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2012年07月

いい加減を考えてみよう!

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自己の心理008:いい加減を考えてみよう!001

欲しがっている自分に気がついたら、「いい加減」という言葉を思い出してみる。
本当は「いつもいつも求め続けることから解放されたい!」と叫んでいる自分がいるのです。

「もっともっと」と欲しがる我にまかせていれば、成り行きとして、他人よりも多く強くなることを目指すようになってしまうのです。
自然界においても競争とみられることはあるでしょう。
しかし「いい加減」を超えてまで争うことをエスカレートさせるのは、おそらく人間だけでしょう。
人間の争いは、どこかで限度を超えてしまって何が目的だったかももはやわからない、競争のための競争になってしまうのです。

2012-07-27_213321


◆どちらを選ぶか迷うとき

 

『選択とはすなわちこれ取捨の義なり』  法然

 

 

私たちは、どちらにしようかと迷う時、どちらが得かという点ばかりに目がいってしまいがちではないでしょうか。

 

こっちはこの部分が優れているが、あっちは別の捨てがたい特色を持っている。

 

どちらも手放せない。なのに片方を選ばないといけない。

 

どうすればいいんだろう?

 

選ぶ方にとらわれていれば、選ばなかった方には未練が残ります。

 

あとになって、あの時むこうを選んでいればと思い出すと、未練は後悔を生み出すのです。

 

さきほどの法然の言葉は、「一つのものを選ぶとは、他のものを捨てるという選択なのだ」ということを言っています。

 

選択する行為は、選ぶだけでなく、むしろ何を手放すかを選ぶことであるというのです。

 

この観点から見ると、私たちは選択するというときに、後者の何を手放すかという点を忘れてしまうようですね。

 

 

 

「何を手放すか」という視点から考えるのに、以下3つほど注意したい点を挙げてみたいと思います。

 

 

ひとつは、それを選んだ場合に、どんなマイナスをもたらすかという面もしっかり見極めるということです。

 

いいことばかりを探して迷っていた状態から抜け出すために、なんとなく直面するのを避けていたマイナス面に正面から向き合いましょう。

 

どれほど優秀な面があるとしても、マイナス面を正当に評価してみれば、「そのままそちらを選び続けると困った状態に陥る可能性がある」ということがはっきりわかるかもしれません。

 

それが避けるべき理由になるとはっきり理解すれば、いまの迷いから一気に違った見え方ができるようになるかもしれません。

 

 

 

2つ目は、「この選択を機に、いままで捨てられずにいたことを思い切って手放そう」と新たな決心するということです。

 

ものごとには、両方を立てるわけにはいかないことがあります。

 

どちらも魅力があるから、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしていたわけですが、この機会にその迷いからお別れしようと決心するのです。

 

手放すというと、なにか失う方ばかりが目立ちますが、何かを手放せばそこには新しいものが入ってくるスペースが生まれるのです。

 

また、手放せないでいることは、思っているよりもずっと、あなたの負担になっているかもしれません。

 

失いたくはないけれど、「これを維持することの煩わしさから逃れたい」という気持ちもどこかにあって、ずっとそれを願っていたかもしれないのです。

 

おもいきって手放せば、こんなにせいせいするのなら早く捨てればよかったと思うかもしれません。

 

それは、過去においては大切な意味があったのかもしれませんが、いまはもう役目を終えて退いてもらうのがいいものになっていたのでしょう。

 

何かを手放すという選択は、時には何を取り入れるかというよりも重要な選択にもなるのです。

 

 

 

最後に3つ目ですが、何かを選択するときには、かならずそれを選んだ時の自己イメージを思い描いています。

 

こちらを選べばこんなイメージ、あちらを選べばこんなイメージというように、ここでも新しく取り入れたことからばかりイメージする傾向があります。

 

今回は、そうではなく、手放したらどうなるかという観点からも自分をイメージしてみましょう

 

うまくフィットすれば、手放したときの自分をイメージしただけで、「これだ!」と迷いが断ち切れるかもしれません。

 

いまの状態に満足できないために、あれこれ新しいものを探し求めていたのですが、実はいままで抱え込んでいた何かを手放すことが本当の望みだったということもあるわけです。

 

このように「捨てる」「手放す」という選択は、何かを取り込むことよりもずっと積極的な行為にもなりうるのです。

 

そして、手放してできた空間には、いままで想像もしなかった新しいものが、入ってくれるかもしれないのです。

 

『選択とはすなわちこれ取捨の義なり』

 

もう一度考えてみたいものです。

 

 



◆いい加減を知るということ

 

智恵とは

いゝ加減を

知る

ことです

 

いゝ加減

とは

争わぬ

ことです

 

Wisdom is to understand

moderation;

moderation is to prevent

from fighting.

 

 

羅漢さんの絵説法〈2〉般若心経―空即是色 花ざかり

著者: 荒 了寛 里文出版 / 2001-05

 

 

 

「智恵とはいい加減を知ること」

 

「いい加減」とは、これでもう十分だと見極められること。

 

実は、私たちはもともと必要なことを必要なだけ手に入れたら、これで十分だと感じてそれ以上ほしがらないものではないでしょうか。

 

しかし、いろんな経験から知識を刷り込まれて、いつのまにか「もっともっと」と手に入るだけ手に入れようと考えるようになってしまいます。

 

蓄えておけば、いざという時に困らないという発想から来るのかもしれません。

 

しかし、最初はそうであっても、気がつくと果てしなく求め続けるようになってしまう。

それは時間の問題のようです。

 

「もっと」という言葉はいくらでも繰り返して使えますが、このような言葉や思考が持つ性質は、自然を離れて人間の思考の対象を果てしないものにしてしまうのです。

 

本当はどこかで「もうこんなにいっぱい欲しくない」と思う自分がいるのだと感じていませんか?

 

しかしその一方で「もっと」手に入れろと主張する「我」が存在するのです。

 

仏教的には「諸法無我」というように我は実際には存在しない仮のものと捉えます。

 

我の主張する要求に騙されない様に、「いい加減」の限度を超えないことが智恵なのです。

 

 

 

「いい加減とは争わぬこと」

 

争うというのは、その本質は「私の方が上である」と主張したがることでしょう。

 

「もっともっと」と欲しがる我にまかせていれば、成り行きとして、他人よりも多く強くなることを目指すようになってしまうのです。

 

自然界においても競争とみられることはあるでしょう。

 

しかし「いい加減」を超えてまで争うことをエスカレートさせるのは、おそらく人間だけでしょう。

 

人間の争いは、どこかで限度を超えてしまって何が目的だったかももはやわからない、競争のための競争になってしまうのです。

 

ややもすると「いい加減」を忘れてしまう私たちですが、それを思い出させてくれるのが「智恵」というものです。

 

欲しがっている自分に気がついたら、「いい加減」という言葉を思い出してみる。

 

本当は「いつもいつも求め続けることから解放されたい!」と叫んでいる自分がいるのです。

 

このことに気がついて欲しがる自分を放り出してみるのです。

 

そうすれば、ほっとする自分がそこにいたことを思い出すのではないですか?



◆難儀があるので有難い

 

世の中は

難儀が

あるので

有難い

 

We are thankful for the difficulties in our lives.

 

能除一切苦(のうじょいっさいく)

 

能く一切の苦を除き、

 

羅漢さんの絵説法〈2〉般若心経―空即是色 花ざかり

著者: 荒 了寛 里文出版 / 2001-05

 

 

 

「有難い」とは「有ることが難しい」、「有ることがまれ」だからこそ感謝の念を抱くという意味ですね。

 

世の中が難儀に満ちていることは、だからこそ、その中から「有難い」ことを見つけ出すこともできるわけです。

 

もし世の中が「有易い」ことばかりで出来ていたら、そんな中から「有難い」ことを見つけ出すのは難しくなります。

 

同じことを経験しても、「こんなことは当たり前にそこら中にあることだ」と思っていたのでは、ちっとも有難いとは感じられませんね。

 

 

 

 

たとえば、24時間営業のコンビニ、今は当たり前のようにどこでも存在しますが、そんなものがなかった時代ではどうだったでしょう。

 

夜になってから、必要なものが足りないことに気がついても、「もうお店は閉まっているから明日買いに行くしかないわね。」というのが常識でした。

 

あるいは、昼間であっても今日は日曜日だからお休み、月曜日まで辛抱するしかないわねといったこともあるでしょう。

 

次の日になってから、ようやく欲しいものが手に入った時の「有り難さ」は、今の時代とは比較にならないものがあったわけです。

 

しかし、いったんコンビニが当たり前の時代になってしまえば、世の中の難儀がその分少なくなったわけですが、すぐにその状態にも慣れてしまいます。

 

コンビニ時代に「有難い」ことを探すとしたら、たとえば今まで15分歩いていたところを、もっと近くにコンビニができたので、これは「有難い」と感じるのです。

 

さらには、サービスの内容でしょうか。

 

コンビニAで新商品がスタートしたと知りますが、「家の近くにはコンビニBしかないなあ、コンビニAができてくれれば有難いのだけど。」と感じたりします。

 

しかし便利になればなるほど、ありがたさの基準はレベルアップしてしまい、それまでありがたかったことは、大したことではなくなってしまうわけです。

 

これは、一概に喜ぶことばかりではないと感じ取ります。

 

この教訓は、欲望にはキリがないという話にも取れますが、「有ることが難しい」から「有難い」という意味を考えて見れば、その本質は「相対性」ということにあると考えるべきでしょう。

 

仏教では「縁起」という考え方がありますが、私たちの存在は自分だけ独立してあるのではなく、その周りの環境に「依って立つ」ことを忘れてはなりません。

 

わたしが「有難い」と感じるのは、わたし個人の存在が単独で感じているのではなくて、

 

周りのものごと、周りの人々に依存して成り立つわけであり、

 

さらに言えば、この国、この時代の社会で、たまたま生きていることもその要因になっているのです。

 

「そのような様々な要因(縁)があってこそ、今の自分も存在している」

 

このことを思い起こせば、今のわたしがありがたいと感じたり、苦しいと感じたりすることも、すべて相対的なものであることに気がつくでしょう。

 

 

いまのわたしが「ありがたい」と感じているのは、思いもしなかった「難儀」があってこそ、それを成り立たせているのかもしれません。

 

あなたは「この厄介ごとさえなければ、もっと幸せだったのに」と自分の不運を嘆いているかも知れません。

 

しかし、自分の環境、成り立ちを振り返るならば、「そのことがなければいまの喜びは存在しなかっただろう」という方向からも見てみるのが公平というものでしょう。

 

今の自分から見ていれば「いいことばかり起きてくれれば、もっと幸せなのに」と思ったりするかもしれませんが、その状態になればなったで、それなりのあたらしい「難儀」も登場することも忘れてはなりません。

 

むしろ今の自分を成り立たせている「縁起」を振り返ってみれば、この一見嫌な要因があってこそ、いまの自分が成り立っているのだと発見するかもしれません。

 

たとえば、その困難を経験してこそ獲得できたあなたの能力、他の人は羨むかもしれませんが、あなたは嫌な思いをして強制的に経験させられたのです。

 

それは二度と起きてほしくないという経験だったのかもしれません。

 

歓迎する気には到底なりません。

 

とても自分からは望まない経験だった。

 

しかし、あなたのいまの能力をもたらしたのは、その経験があればこそでした。

 

それがあったおかげで今の自分がある。

 

そう思えば、その「難儀」も必要なもの、かけがえのないものだったのだ。

 

そのようにも思えてきませんか。

 

単に嫌な経験、起きてほしくなかった出来事とみて排除しようとするのは、いまの自分も否定してしまうことになります。

 

いまの自分を創り上げてくれた、貴重な経験だったのだとみてみれば、むしろ歓迎するべきことだったのかもしれません。

 

 

世の中は

難儀が

あるので

有難い

 

 



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自己の心理008:いい加減を考えてみよう!001

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苦痛を抱える自分はほんものだろうか?

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自己の心理007:苦痛を抱える自分はほんものだろうか?001

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??自分は苦しんでいる。それは本物の人生を生きているからだ。??
人生は辛く、苦痛に満ちていないと本物だと感じられないというのは、
刺激的な出来事こそが生きる実感だと感じられるという、感覚の麻痺を起こしているのかもしれません。
ほんとうに、いつまでもそうしていたいのですか?
穏やかでいて、しかもほんものの人生というのは、あり得ないのでしょうか?

??自分が苦しんでいるのは、まわりには自分を苦しめる敵がいっぱいいるからだ。??
これも、前述の他の人を悪人に仕立てることで、状況をありのままに見ようとしないやり方かもしれません。
敵がいるから仕方ないのではなく、自分が敵を作り出して、自分の問題と向き合うことを避けている可能性はないでしょうか。

??自分は苦しんでいるのだから、他の人よりも重要な人間なのだ。??
「心穏やかでいる他の人と違って、自分のこの惨めさをみてくれ。」と言っていませんか?
同情を受けたり、自分を特別扱いして欲しいという逃げ口上になっていないでしょうか。

・・・など


★苦痛を抱える自分はほんものだろうか?

困難な状況にあるとき、人はさまざまな回避策を試みます。

 

たとえば、困難の原因を、誰か他人のせいだと考えて、その人を恨んだり攻撃することで、現在の自分の問題から目をそらそうと考えます。

 

またそれが出来ない場合には、自分自身を苦しめることで、少なくとも自分はいま罰を受けているのだから、と考えてそれを免罪符にしようと考える人もいるでしょう。

 

このようないいわけ、特に後者のやり方に慣れてしまうと、自分を苦しい状態にしていることが習慣になり、ちょっとしたきっかけで苦痛の中に浸ってしまう状態に入り込んでしまいます。

 

 

 

もしこのような状態を繰り返していると感じるなら、苦痛を感じて何かを回避しようとしている自分がいないかをチェックしてみるといいでしょう。

 

それは誰もが避けようのない苦痛なのか、それとも自分がわざわざ作り出してしまっている苦痛なのか区別するのです。そして、それが後者であれば抜け出す方法がないか考えてみることです。

 

中には、そのようなやり方に慣れきってしまって、自分から苦痛や問題を取り去ってしまうと空虚に感じてしまい、再び元の苦痛を感じる状態に戻りたくなってしまう人もいます。

 

しかし、たとえそうだとしても、粘り強くその習慣から抜けようと試みれば、その状態が本来自分が望んでいる状態ではないということに気づけるようになるはずです。

 

ちょうど、大人になってから、子どもの頃の悩みがなんでもなく思い出されるように、あの頃いつも苦しんでいたのは何だったんだろうと思えるようになるでしょう。

 

苦痛を感じている自分に気づいたら、以下の項目をチェックして何か役立てないかを考えて見て下さい。

 

人によって、とりやすい態度は違うものですが、何か思い当たるところはないでしょうか。

 

 

 

◆自分は苦しんでいる。それは本物の人生を生きているからだ。

 

人生は辛く、苦痛に満ちていないと本物だと感じられないというのは、

 

刺激的な出来事こそが生きる実感だと感じられるという、感覚の麻痺を起こしているのかもしれません。

 

ほんとうに、いつまでもそうしていたいのですか?

穏やかでいて、しかもほんものの人生というのは、あり得ないのでしょうか?

 

◆自分が苦しんでいるのは、まわりには自分を苦しめる敵がいっぱいいるからだ。

 

これも、前述の他の人を悪人に仕立てることで、状況をありのままに見ようとしないやり方かもしれません。

 

敵がいるから仕方ないのではなく、自分が敵を作り出して、自分の問題と向き合うことを避けている可能性はないでしょうか。

 

◆自分は苦しんでいるのだから、他の人よりも重要な人間なのだ。

 

「心穏やかでいる他の人と違って、自分のこの惨めさをみてくれ。」と言っていませんか?

 

同情を受けたり、自分を特別扱いして欲しいという逃げ口上になっていないでしょうか。

 

◆自分は苦しんでいるのだから、何も気にしない他の人よりも、それだけ責任感が強いのだ。

 

責任感とは、別に自分を苦しめることではないでしょう。

 

それに自分を責めて苦しめるのは、自分自身への責任を放棄していることにならないでしょうか。

 

◆自分は苦しんでいるのだから、自分の方が正しいのだ。

 

こんな理由は成り立ちませんね。

 

正しさとは何かが本当には判断できずに、無理矢理主張しているだけでしょう。

 

「正しさ」という言葉で、何にとらわれているのかを考えて見たらどうでしょうか。

 

◆自分は苦しんでいるのだから、それだけ他の人より思いやりがある人間なんだ。

 

そんなことがいえるのでしょうか?

 

むしろ、自分自身を苦しめるという、自分への思いやりのなさを忘れていないでしょうか。

 

自分への思いやりを果たせない人は、なかなか他人への思いやりも持つ余裕が持てないのではないでしょうか。

 

最後にもうひとつ、

 

◆自分は苦しさを終わらせたいと本当に願っているんだ。だからこんなに苦しんでいるんだ。

 

本当に苦しさを終わらせたいと思っているかどうか、もう一度考え直してみましょう。

 

実は、苦痛がなくなってしまうのを恐れている自分がそこにいないでしょうか?

 

おなじみの苦痛を抱えていることでバランスを保っている今までのやり方をやめて、苦痛なしでもやっていけないかどうか試して見ましょう。

 

 



★退屈・不満・落ち込み


退屈だと感じるとき、そこには本当はもっとやりたいことがあると訴えている自分がいるのでしょう。

 

やりたいことがあるのに、現実はそうでないことをやらされていると感じるから、それは退屈でしかない。

 

しかし、それを放棄して、本当にやりたいことへ踏み出すのは恐い。

 

このジレンマが、退屈でも今のままを我慢するしかないと思わせる。

 

しかし、見方を変えれば、退屈は他にやりたいことがあると告げている警告だと考えることができる。

 

結果どうなるかわからなくても、いい加減そこから一歩踏み出そうと決心すれば自由が待っています。

 

それは恐いけれど、どうやっても出来ないと言うものではない。

 

思いっきり退屈を極めてみれば、そこから抜け出す踏ん切りが付くかもしれない。

 

もし誰かが、その考えは正しい、やってみれば必ずうまくいくと応援してくれるならそれを実行するだろう、

 

そう思えるなら、やはり今いったことが当たっているということでしょう。

 

そういってくれる人が、現れそうにもないのなら、その許可を自分で出すしかないのです。

 

他人を巻き込んだら、うまくいかないと他人のせいにして事態を複雑にしてしまう。

 

一番いいのは、自分で許可を与えること。

 

 

不満は、自分がやったことが自分の基準に合っていなかったといって、自分を責めようとしている状態。

 

自分が決めた成果にたどり着かなかったら、無駄に過ごしたせいだと思い不満を感じる。

 

もっとうまくできたはずだと、果てしない改善を求める指令が出される。

 

基準に達したら、その瞬間に次の目標が登場する。

 

終わりはいつまでも来ない、果てしない要求のシャワー。

 

不満は消えることがない。

 

無駄だったと感じないために、いつもどこかへ向かっている自分を確認したいと思ってしまう。

 

目標がないと不安になり、他の人にまで目標がないことを責めたくなる。

 

自分への要求が、相手に投射されて相手を責めるのは、要求を出す相手が自分であることを隠したいからかも。

 

だから、自分にないものほど、相手にそれを持つべきだと唱えたくなるときがある。

 

これも、退屈と同じように、惰性のうちに不安から来た縛りの中に住むのを拒否するしかない。

 

それを自分で選択する。他の人には言わせずに、自分で断行する。

 

今の課題を本当にやりたいのか問い直し、もしそうでないとわかったら

 

いままで無駄だと思ってやらずにいたことに思い切って切り替えてみる。

 

そうすれば、不満は消えて本当は今までが無駄をやっていたのだと感じる様になるでしょう。

 

どうしてもやらないといけない事など、もともと何もありはしないのです。

 

 

 

ちょっとしたことでも落ち込みを感じるとき、あるべきことを満たせなかった自分を責めている。

 

それは「あるべきこと」であって「あるがまま」ではない。

 

「あるべきこと」が、当たり前の自然な真実であると勘違いしているのです。

 

「あるべきこと」は過去のどこかで作られたもの、今あるものに合っているかどうかは目をそらしてしまう。

 

そのずれが大きいときの違和感を無視しないで、大切にしたい。

 

落ち込みは、過去によってしか作られない。

 

いつだって「あるべきこと」は書き換えられる可能性がある。

 

一見過去に縛られていないと思わせるが、それが気分をやんわりと滅入らせるなら、いまあるものを本当に見ることで取り戻したい。

 

気分を手がかりに、いま自分がどこにいるかを振り返れば、いつまでも引きずられることをストップできる。

 

いま目の前に見ている巨大に見えるひとは、あなたの過去が作り上げた幻想にすぎない。

 

複数のひとが同じ意見を持っていると思うのは、あなたの過去が作り上げた幻想にすぎない。

 

いまに照らしてみれば、ひとりひとりは正当な大きさにしか見えないことがわかる。

 

手がかりにしているものを、別のものに変えてみよう。

 

言葉にとらわれているのなら、話している相手をよく見てみよう。

相手も同じく過去に縛られているのが見えて来る。

 

いまできることを完璧なものにしようなどと考えないこと。

 

いつでも本番で練習ではない代わりに、いつだって「いまは練習」のつもりで望むことは出来る。

 

いまやっていることが、いまできる最善のことだと信じればいい。

実際その通りなのだから。


★怒りの有効活用

 怒りという感情はやっかいなものですね。

 

うまく扱わないと、あなたやまわりに被害を及ぼします。

それは、心理的にも、物理的にもです。

 

怒りを感じると、わたしたちは何とかそれを発散したくなります。

 

誰かを殴ったり、物を壊してみたり、かんしゃくを爆発させたり、壁を殴りたくなるのです。

あるいは、身近な人に対して悪口を浴びせてみたくなり、叫んでみたくなるのです。

 

しかし、普通は余程のことがなければ、怒りを爆発させることなく、何とかこれにフタをして押さえ込もうとします。

 

怒りの感情を無視したり、そんなものはないと否定したり、何でもない表情を作ろうとします。

 

それでも、怒りというのはあなたへの訴えです。

 

痛みや熱さを感じることで、あなたの身体を危険から守るのと同じように、それはあなたへ何かを訴えようとしています。

痛みと同じように、それに耳を傾ける必要があるはずなのです。

 

怒りを否定して押さえ込んでしまわずに有効に活用する方法はないのでしょうか。

 

怒りの内容を調べて見れば、もうすこし明らかになるでしょう。

 

「くそ、俺ならもっとうまくやれるのに、何であいつだけが成功するんだ!」

 

「先を越された、このアイデアはわたしはずっと前に考えていたのに!」

 

ここには、他の人が何かをうまくやり遂げた事実への嫉妬が含まれています。

そして、もう一つ忘れてはいけないのが、あなたも同じようにそれをうまくやり遂げたいという衝動が含まれている点なのです。

 

嫉妬の方はあなたに苦痛をもたらします。だから見たくないという気にもなるのです。

 

しかしそちらではなく、あなたにはそれをやってみたいという衝動があったという貴重な発見に目を向けましょう。

 

それを無かったことにしてしまうのは、非情にもったいないわけです。

そんなものは無かったことにしても、いずれその衝動が蘇ってくる可能性があります。

 

こちらにも、それを見ようとしない原因が何かあるはずですね。

なにもなければ、あなたはとっくにそれをやり遂げているはずですから。

 

◆自分にはそれをやり遂げる技術も才能もないと考えている。

 

自分には才能がないと本気で思っているのなら、いつまでもその衝動を引きずっているとは考えにくいのです。

あなたに衝動があるのは、自分にもそれをやれるという気持ちが隠れているからではないでしょうか。

そう思うのは根拠のない衝動からだけとは考えにくいのです。

 

◆いつかやりたいという気持ちはあるが、それを発揮する機会に出会えないことにして先延ばししている。

 

デビューのきっかけというのは、意欲さえあれば全てうまくいくとは限りません。

しかし、何もしないでいるより、なにか一歩を踏み出す方法は見つかるはずです。

 

怠惰の仮面で隠してしまわずに、動いてみようと思うなら情報はいくらでも手に入るでしょう。

ここ10年ほどのネット社会の発展は、それ以前とは比較にならない可能性を与えてくれているはずです。

 

◆過去にやろうとして失敗した苦い思い出があって、それが尾を引いている。

 

過去の失敗が痛手になっているなら、あなたはそれを何度も繰り返して思い起こしているということです。

それは、なんとか名誉挽回を狙っているあなたがいる証拠かも知れません。

その気持ちに、耳を傾けてあげましょう。

 

「怒り」は、品のいい友達ではありませんし、あなたに親切な態度で情報をくれる友達でもありません。それでも貴重な「あなた」を、見捨てるわけにいかない「あなた」を律儀に知らせ続けてくれる友達なのです。

 

否定的な面だけで嫌わずに、貴重な情報に耳を傾けてあげましょう。

友達になれば、きっと強力なモチベーションとエネルギーをあなたにもたらしてくれるはずなのです。

 

 



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答えを探すこと自体を疑ってみる

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生き方003:答えを探すこと自体を疑ってみる001

説明のつかないことを恐れずに、ありのままを受け入れること、まかせてしまうことが私たちに自由を取り戻します。
古い思い込みを捨てて、手放してしまうことです。
自分の力では、自分自身から自由にはなれないとあきらめることです。

未来を予言したいのは、今の自分で押し通したいからであり、逆に今の自分にしがみつくことが、未来を予測可能にするしかないという悪循環に陥っているのです。

・自分の正しさを主張したいがために苦痛を作り出さないこと。
あなたの正しさが否定されてもあなた自身が否定されるわけではありません。
・他人への思いやりのために自分が苦しいのは、何かが間違っています。
あなた自身への思いやりを忘れていないでしょうか。
・こんなことを考えたらきっと反対するだろうと、反対者を自分で作り出さないこと。
人に話せば反対される確率はせいぜい5分5分、黙っていれば0です。
・他人はケチではありません。あなたがハッキリ欲しいと言っていないだけです。
自分の望みをたいしたことじゃないなどと思わずに大事にし表明してみましょう。
・・・・

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◆野の花の装い - 苦しめるのは誰でしょう

 6:28 あなた方はなぜ衣服のことで思い煩うのか。野のユリがどのように育つかをよく考えなさい。労したり,紡いだりしない。 6:29 だが,あなた方に告げるが,栄光を極めたときのソロモンでさえ,それらの一つほどにも装っていなかった。 6:30 では,神が,今日生えていて明日かまどに投げ込まれる野の草にこのように衣服を与えておられるのであれば,あなた方にはなおのこと衣服を与えてくださらな いだろうか,信仰の少ない者たちよ。

 

6:31 「だから,『何を食べようか』,『何を飲もうか』,『何を着ようか』と言って思い煩ってはいけない。 6:32 こうしたものすべては,異邦人たちが追い求めているものだからだ。あなた方の天の父は,あなた方がこうしたものすべてを必要としていることをご存じなの だ。 6:33 むしろ,神の王国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば,こうしたものすべてもあなた方に与えられるだろう。 6:34 だから,明日のことで思い煩ってはいけない。明日のことは明日が思い煩うからだ。その日の悪いことだけで十分だ。

 

マタイによる福音書六章

 

書籍名:新約聖書 マタイによる福音書 訳者名:CozoH

『電網聖書』ホームページ

 

 

自然は努力せずとも、その生命を開花させます。

自然環境が劣悪でも、それなりに出来る限り自分を表現し尽くしているように思います。

 

なのになぜ、私たちはこんなにいつも悩んでいるのでしょうか。

 

自然に考えれば、私たちが余計なことをしているからと考えるのが妥当だと思えてきます。

 

ギリシャの哲学者達は、神話の世界から人間中心の世界を作りあげました。

アリストテレスは、自然を分類し分類し、今日の科学的な思考方法の基礎を築きました。

 

科学は私たちに、わからないもの、不思議なものを消し去るかに思えました。

 

しかし、心の問題に関しては、残念ながら古代からほとんど本質的に進歩していないようです。

 

いくら科学的な思考方法を使える人でも、自分のこころの問題となると、思い込みから自由にはなれないようです。

 

物理的な世界では、「なぜ」とか「どうやって」という問いかけが有効で重要なことです。

 

しかし、私たちの心の問題となると、理由を知ったり説明できたりすることが必ずしも解決をもたらしません。

 

頭で考える限り、理解できないものは恐ろしいものになってしまいます。

 

頭で考える限り、答えを求め続けないと解決は望めないと思い込みます。

 

頭で考える限り、過去の経験が道しるべであり、未来がどうなるかを絶えず気にすることになります。

 

頭で考える限り、自分の正しさが自分を支えると思い込み、間違いを認めることを怖がります。

 

このように「なぜ」と「どうやって」で生きるだけでは解決できないことがあるようです。

それをやめて、理由を考えずに今のありのままを受け入れないかぎり解決しないことがあるものです。

 

昔から賢人達は、分からないものをそのまま受け入れることを説いてきました。

 

老子はタオは人間にはわからないものだがそれに従うのだと言い切ります。

仏陀はすべては空と見抜き、はかないものにしがみつくことの愚かさを説きました。

かつては日本人は、もののあわれやはかなさを尊び、無粋な扱いを嫌いました。

イエスは、前掲のように頭で思い煩うことが無駄であることを教えました。

 

説明のつかないことを恐れずに、ありのままを受け入れること、まかせてしまうことが私たちに自由を取り戻します。

 

古い思い込みを捨てて、手放してしまうことです。

 

自分の力では、自分自身から自由にはなれないとあきらめることです。

 

 

まわりの世界は誰にとっても平等です、

それが苦痛に満ちていると思うのは、あなた自身が苦痛を作り出しているにすぎません。

 

・自分の正しさを主張したいがために苦痛を作り出さないこと。

あなたの正しさが否定されてもあなた自身が否定されるわけではありません。

 

・他人への思いやりのために自分が苦しいのは、何かが間違っています。

あなた自身への思いやりを忘れていないでしょうか。

 

・こんなことを考えたらきっと反対するだろうと、反対者を自分で作り出さないこと。

人に話せば反対される確率はせいぜい5分5分、黙っていれば0です。

 

・他人はケチではありません。あなたがハッキリ欲しいと言っていないだけです。

自分の望みをたいしたことじゃないなどと思わずに大事にし表明してみましょう。

 

・責任感という名の下に自分を苦しめないことです。

「責任」とは言葉であって、それに従う限りどこまでもあなたを許してはくれません。自分を許せるかどうかは、責任を果たすこととは別のことです。

 

・苦しいのは自分が「高尚な人間」だからだと思わないこと。

苦しい「高尚な人」ではなく、苦しまない「ただの人」になりましょう。

 

・恐怖は逃げ道のあるときだけ存在します。

回避策はもはやないと認めれば、新しい見方が出来る様になります。

 

・まわりが敵ばかりに見えるのは、あなたが自分自身と敵対しているからです。

自分自身を許せば、敵もいつの間にかいなくなります。

 

・まわりの人が間違っていると思うのは、自分の正しさへしがみついていることの現れです。

あなたも間違えることはあると認めれば、ゆったりした生活が戻ってきます。

 

・自分はこういう人間だと説明しようと思わないこと。

次の瞬間にも自分は変わるかも知れないと認めてしまえばいいのです。わかっている人はそんなあなたを責めたりしません。

 

・苦しいのが当たり前と思い込まないこと。

たんに苦しさのない世界になじみがないので恐れているだけです。苦痛の終わりは自分の終わりだと勘違いしないこと。


◆変容がなければ成長しない

「しまった!やってしまった。」

そう思ったとき、私たちの取る態度は2通りあるでしょう。

 

たいていは、今の自分を何とか守ろうとします。

要するに仕方がなかったんだという理由を探し求めて、今までの自分を弁護しようとするのです。

 

もう一つの道は、その失敗を試練と受け止めて、今までの自分から変容するきっかけにするというやり方です。

 

複雑に見える人間の心理も、突き詰めて考えればこういった小さな選択の繰り返しに過ぎないのです。

 

さっさと負けを認めて、次々起こってくる新しい出来事を受け止めることに、エネルギーを使おうと決めれば、無駄などうどう巡りで貴重な時間を潰さなくても済むでしょう。

 

無駄などうどう巡りとは、こういうことです。

 

『とげがささっちゃった!』

 

ライナス:

イテッ!

ライナス:

とげがささっちゃった!

ルーシー:

どうかしたの?

ライナス:

指にとげがささっちゃった...

ルーシー:

あらそう!それは何かの罰があたったのよ!

ルーシー:

最近どんな悪いことしたの?

ライナス:

悪いことなんて何もしてないよ!

ルーシー:

とげがささってるんでしょ?

それが不幸の兆候なのよ。そうでしょ?

悪いコだったから罰せられて不幸になるのよ!

チャーリー・ブラウン:

ちょっと待ってよ...

ルーシー:

あんたに何がわかるのチャーリー・ブラウン?

これは兆候よ!ハッキリとした天罰の兆候なのよ!

ライナスはとっても悪いことをしたんだわ。

それで彼は不幸な目にあうのよ!

ルーシー:

私、こういうことはよく知ってるのよ!

私は何でも...

ライナス:

あっ、抜けた!

とげがたった今抜けちゃったよ!

ライナス:

かくて今日の神学の講義は終わりね。

 

とげが刺さったらその痛みを感じ、

とげが抜けたら素直に喜ぶとき、

そこには説明はいらないのです。

 

【参考】

いいことから始めよう―スヌーピーと仲間たちからの生きるヒント

エイブラハム・J. ツワルスキー 新潮社 / 1995-02

 

 

ルーシーは何とかこのとげが刺さったという出来事で、今の自分を権威づけたり役に立つ存在として自分を見せようとします。

 

しかし、「あっ、抜けた!」という一言で、もろくもその企みは崩れ去り、何も言えなくなってしまいます。

 

ライナスは幸い「とげ」を大事にしようとは考えていません。

 

ただとげが刺さったという出来事が起こり、やがてそれが抜けて事件?は何事もなかったように過ぎ去っていきます。

 

とげが刺さって大さわぎを続け、同情を求めたり、「悪いコだったから罰せられる」ゲームに参加することもできます。

 

しかしライナスはとげは抜いてしまえばそれで終わり、そんなことよりも他の楽しいことに出会うことを選んだわけです。

 

ルーシーは起きたことに必要以上に意味を持たせて、時間をストップし、その中に生きようとしたのです。

 

今自分が持っている才能を発揮するのは重要なことです。

ルーシーがとげの抜き方を教えようとしたのなら、それは有用なことであり、とげを終わりにして変容へ向かう成長の可能性があります。

 

しかしルーシーの言葉は、もっともらしく見えても、いまの自分にとどまり変化を受け入れない巧妙な罠になりかねません。

 

ルーシーの「神学講義」にどれほどの意味があるのかはわかりませんが、未来を保証する予言に生きるのは、常に現実を先取りして失敗を怖がりながら生きることに繋がります。

 

それは同時に依存する対象を持ち続けると言うことです。

つまり、誰かを、何かを信じてしがみつく必要があるのです。

 

それを外れてしまうことを怖れ、そのような気配を感じると、そんな自分は無視して否認しなければなりません。

 

「お先真っ暗」という言葉がありますが、先は誰にも見えないものです。

 

先のことを明るく見せかけようとする工作が、変容を拒否し、いまのありのままの自分すら受け入れられなくしてしまいます。

 

無理やり明るく見せかけなくても、暗くても明るくても、未来は未知のものだと受け入れてしまえば、新しい挑戦でしかないのです。

 

未来を予言したいのは、今の自分で押し通したいからであり、逆に今の自分にしがみつくことが、未来を予測可能にするしかないという悪循環に陥っているのです。

 

そもそも、自分の言ったことは二度と訂正できない生き方なんて、窮屈で仕方ないでしょう。

 

とげがささったら、とりあえず抜くことに集中して、それを終わらせてしまいましょう。

 


◆確かさに依存しない

「天気予報が100%当たるようになったら信じよう。それまでは信じない。」

 

こんなことを思う人はあまりいないでしょう。

 

それなりの確率があれば、有用なものだと思って利用するのが普通ですね。

そして「100%なんてどだい無理だよ」と思うのにも抵抗はありません。

 

もしかすると実現するかも知れませんが、それには膨大なコストがかかりそうですし、そこまでする必要があるかどうかを考えるでしょう。

 

しかしそう思っている人が、意外なことで100%信じられないと困るという罠にはまっているのです。

 

 

私たちは確かなものをほしくて、正しくありたいと思い、安定した地位に就きたくて、いつも何かを探し求めています。

 

そういうものを手に入れたら安泰だと信じているからです。

 

そのことは容易に、今自分の持っているもの、今自分が所属しているグループ、今自分が信じている観念が絶対正しい、と信じたい欲求を作り出します。

 

人は客観的な真実よりも、自分が信じたいことを信じるものです。

 

「信じたいことを信じる」というのは、一見自由に選んでいるように見えますが、その実体は、確かなものを手に入れて、安心したいという気持ちから来ています。

 

言い換えれば、確かなものが見えないことが不安でたまらないという恐れがもとになっている選択であるわけです。

 

その根底に怖れがあるかどうかは、容易にわかります。

 

その考えが正しくないという脅威にさらされるとき、つまり他人の異なる意見や批判を耳にしたときなどに、自分がどう反応するかを見てみればいいのです。

 

本当に信じていることなら、それと異なる考えを聞いても平然として、不安な気持ちや自分への脅威を感じたりはしないはずでしょう。

 

ちょっとでも批判じみた声を聞いた途端に、不安が表れ動揺したり、憂鬱な気分になるというのは、自分が必死で「その考えが正しくあって欲しい」としがみついているからです。

 

しかし、それでは本当に信じられるものを見つければいいのか、というとそういうわけにもいきません。

 

なぜなら、ものごとは常に変化するもの、自分自身だって常に揺れ動いている存在です。

 

そのことから考えれば、固定した絶対と言える正しさは存在できないということになります。

 

どんなに権威があろうと、時代や国が違えば全くのたわごとになってしまうかも知れません。

 

つまり、「どうやっても揺るがない確かさを手に入れることは不可能である」と認めてしまうのが正解でしょう。

 

確かなものにしがみつきたいという恐れからの行動を続けていれば、いつになっても不安から逃れることはできません。

 

それは、本来不可能なことを「これだけは間違いない」と信じたくて信じているということです。

 

「これが正しくなくては、自分はどうしていいのかわからない。だから信じるしかない。」というのがその実体なのです。

 

そして、本来根拠のないことを信じようとしているわけですから、いつか自分を騙して信じていることに気がついて、安心感はもろくも崩れ去っていきます。

 

1つの確信が揺らいでくると、すかさず他の権威を探して、またしばらく空しい安心感の時期を過ごそうとします。

 

そして、しがみつく度合い、恐れの強さがあるほど反対するものへの反発は大きくなり、他者を攻撃したくなるのです。

 

実際に人にあって話を聞かなくても、ネットの様々な考えを目にしているみなさんなら、自分と同じ考え、違う考えを目にしたときに、自分がどのように無意識的に、意識的に反応しているかを考えれば、以上のことはお分かりになると思います。

 

さて、何かを信じたいと思ってもダメで、しかし無条件に信じられるものなどないと言われたら、お先真っ暗ではないかと思われるでしょうか。

 

そう思うことが、まさに何かの権威にしがみつきたいという心理そのものがもたらす怖れであり、失望感なのです。

 

ですから「確かなものに依存したい」という衝動を理解して、その存在を表に引っ張り出してしまえば、「確かなものがないと生きられない」という思い込みから解放されます。

 

実は自分を怖がらせている原因は、怖さへの防止策と思って取っている行動にこそその源があったと言うことです。

 

確かさを求めたい気持ちを理解して、それを超えることを考えるなら、何かにしがみつこうとするときの怖れが見えるようになってくるでしょう。

 

こんな伝統や慣習になぜ縛られなくてはいけないのかと感じることがあると思います。

それでも、それから自由になれないのはなぜかを追求していけば、自分の中の怖れが発見できるでしょう。

 

「この権威があるから自分は安心だ」と信じたい気持ちこそが、延々と続く不安定な権威への渡り歩きをもたらすのです。

 

「確かさなどなくても平気」と思えたとき、無条件の自由が得られます。

 

何かにしがみついていることで得られる偽物の安心感は、常に「これであっているだろうか」という問いかけや確認を自分に強いてくるのです。

 

この安心感は、どこから来るのかと考えなくてもすむものこそが、本当の安心だといえるでしょう。

 

それは皮肉にも、確かなものを求めるのをやめることで得られるのです。

 

何かの信念をたえず言い聞かせていることも、多くの場合同様の恐れからの行動です。

そのとき必要な投資だと思っている不安との戦いも、実はなくてもいいもののはずなのです。

 

不安というのは何かしら必要があって備わっている感情でしょうから、それを根絶やしにしようと言うことではありません。

 

しかし、逆にそれに様々なもっともらしい名前をつけて自分を駆り立てるモチベーションにしようとするやり方は、長続きするとは思えません。

 

そして、そのようなやり方の裏には、その報償としての「権威」や「確かなものを保証する」というごまかしが隠れているのです。

 

威勢が良かった人も、守りに入ってしまうと途端に弱くなります。

 

それは、何かにしがみつこうとし始めてしまうからです。

それまでは、不安定ながらも特定のものに依存しない強さがあったのです。

その時起きた変化に、怖れの正体を探る秘密が隠されているでしょう。

 

期待しないものは最強です。

どんな誘惑も、権威も歯が立ちません。

 

 

 




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生き方003:答えを探すこと自体を疑ってみる001

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認められることを少し忘れてみよう

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人間関係006:認められることを少し忘れてみよう001

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◆「見返りを求めない」もっとわかりやすくならない?

この文章は次の記事を読んで思ったことを書いたものです。

文字数制限などもあるので、ノートにしてみました。

 

『ばかばかしい。感謝するの、やーめた!:日経ビジネスオンライン』

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110725/221663/

 

この記事では、夫婦間のコミュニケーションから始まって、相手の反応にどう対処すべきかというテーマが書かれています。

 

夫婦間の交流というのは、相手を目の前にした情報量の多い関係です。

 

実際この記事でも、多すぎるほどの情報をどのように処理しようかということが問題になっています。

 

ここで「私」の側で実際にやっていることは、どんなことでしょうか。

 

相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」から見た相手の人物イメージを作り上げているのです。

 

「あの人は~な人である」という記述があります。

 

ごく当たり前に使われる表現です。

 

そしてこの記述から私たちは「あの人は客観的にみて~な人である」と受け取るのです。

 

ですが先ほど述べたように、この文は『相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」が作り上げた相手の人物イメージ』だと言うことです。

 

実はとても客観的といえる代物ではないのです。

 

そのまま信じると、言葉は、簡単に私たちを騙し混乱させてしまいます。

 

ところで、私たちがネットの上で人と交流する場合、実際に会ったことのある人だと事情は大きく違いますが、ネットだけでの知り合いの場合は、どのように相手のイメージを作り上げているのでしょう。

 

Facebookのように相手の情報が多めのSNSもありますが、それにしたところで、相手のことは、写真と文字情報だけを頼りに作り上げています。

 

先ほどの、夫婦間の情報は多すぎるほど多かったわけですが、今度は逆に相手のイメージを作り上げるのに充分とは言えない情報量です。

 

足りない情報はどうしているかと言えば、「それはわからない」として扱っていればいいのですが。。。

 

私たちが実際にやりがちなのは、「私」の知っている人物イメージで相手の不足した情報を補ってしまうということです。

 

ネット上の関係でも、やはり最終的には、『相手の情報を「私」が解釈して、取捨選択し、「私」が作り上げた相手の人物イメージ』を使っているのです。

 

「あの人は~な人である」という表現を、簡単に客観的な判断だと勘違いしないことです。

 

これは、「私」が主観的に作り上げた人物像であると思っているくらいでちょうどいいのです。

 

 

さて、以上をふまえて、相手の人物像を出来るだけ「はずれ」のないように、現実と大きくずれないように描くにはどうすればいいのか?を考えて見ましょう。

 

◆まずは、「あの人は~な人である」という表現を客観的な判断だと勘違いしないこと。

 

あくまで「私」の人間観で補って作り上げたものであると認識しておくこと。

 

◆「わかっていない情報」がたくさんあることを認めること。

 

隙間があると、私たちはすぐに自分の側で補ってしまうものです。

 

そうしないと、相手をひとりの人間としてイメージできないからです。

 

当然、人の数だけひとりの人に対する人物イメージが存在するものであるというのが現実です。

 

◆前項をふまえて「わかっていない情報」をブラックボックスとして扱うこと。

 

ブラックボックスとは中身が見えない箱です。

 

中身は見えないけれど、インプットすれば、それに対して出てきたアウトプットは知ることが出来るというものです。

 

ですから、「ブラックボックスとして扱う」という姿勢は、見えない中身を自分の知っていることに置き換えないでブラックのまま扱うということです。

 

あくまで、あてにできるのは、インプットに対するアウトプットであるという態度です。

 

つまり相手が描き出してくる人物像を、わかってくるにつれて描いていくという姿勢ですね。

 

◆情報が多くても、少なくても、私たちは「私」の作ったイメージで相手を見がちであるという傾向をいつも忘れずに、できるだけブラックボックスとして扱う。

 

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。

 

ここでいわれているのは、親しくなるとすぐにわかっているつもりになって、ブラックボックスをただちに「私」のイメージに置き換えてしまう傾向が強くなることを言っているのでしょう。

 

 

以上述べたやり方は、最初は違和感があるかもしれません。

 

どこか冷たく相手を観察していると思うかもしれません。

 

ですが、勝手に「私」のイメージで相手を扱うことが、どれだけトラブルを巻き起こしているかを知れば、どちらがいいかということです。

 

ところで「見返りを求めない」という言葉は、わかった気にはなりますが、一段階抽象度が上がる感じなので、実際に行動しているとすぐに忘れてしまいます。

 

相手のイメージを描く、まさにその段階で「私」を入れないようにする姿勢、見えないことを見えた気にならない姿勢をを心がければ、人間関係はずっとスムーズになります。

 

また、相手が親しい人なのかどうか、目上の人かどうかなど、複雑に相手によってルールを考えるのではなく、シンプルに共通して持てる姿勢でもあるのです。

 

おそらくこの姿勢でいれば、はじめて会う人に対しても、緊張感も少なくなる効果もあるでしょう。

 

わかってもいないことを「私」の解釈で補うことが問題を作り出す。

これは、人間関係だけでなく当てはまるのではないでしょうか。

 

 


◆認められることを求めているから解放されない

私があなたから認められたいと願っていると、

あなたの答えが「イエス」か「ノー」かだけ気になって、他の事が見えなくなる。

 

他の話題にそれたりすれば、私は答えばかり気になってイライラし出すことになる。

 

期待する見方で人と接すれば、自分は相手に依存して、あなた次第で振り回されることになる。

 

それは、たとえほめ言葉であっても同じこと。

 

相手の言葉に一喜一憂するようになれば、相手次第で自分の気分をあずけてしまうことになる。

 

 

 

自分がどう振る舞うか、ということも同じようなことが言える。

 

「誰が見ても好ましいと思う自分を作り出そうとする。」

 

このやり方は、誰しも良さそうに思って無意識に従ってしまう。

 

嫌われるようなことをしていないから、自分は好かれるだろうという論理だ。

 

しかしこれは、思っているほど役には立たない。

 

害にはならない人間を作り出すけれど、みんなが同じになって面白くも何ともない人間を量産することになってしまう。

 

「誰が見ても好ましいと思う」ということを表面的に捉えてしまうから役に立たない。

 

他の人に認められたいと思う人が多い社会ほど、嫌われることを怖がる度合いを高めて、それがみんなに伝染する。

 

その結果、だれもが素直に自分を表現することを躊躇して、「誰が見ても好ましいと思う」ことを装うことに夢中になる。

 

出会う人、出会う人、みんな危険はないけれど、またかと思う反応を返す人ばかりになる。

 

 

本当に出会いたいのは、自分を仮面で隠していない人だ。

 

ありのままに自分を表現している人を見れば、その正直さに自分もうれしくなり、ほっとしてしまう。

 

「誰が見ても好ましいと思う人」よりも、そういう人と一緒にいたくなる。

 

一緒にいれば、自分もそうなれるかもしれないと思うからだ。

 

つまり、自分もありのままでいたい、解放されたいと常々思っているということ。

 

だれも「誰が見ても好ましいと思う人」になどなりたいと思っていない。

 

そうしないと、周りから受け入れられなくなるのを怖がっているだけだ。

 

だとすれば、外側にそういう人を探すよりも、自分がそういう人になればいいのだ。

 

それは、奇抜なことをして目立とうということとは違う。

 

目立ちたいのも、自分を作っていることに変わりなく、そこにあるのは、別のやり方で自分を注目して欲しいという欲求に過ぎない。

 

最初は人の気を惹いても、やがてそれはその人本人ではないとわかってきて、作りものはばれてしまう。

 

不自然な奇抜さは、すぐにあきられて、だんだん見るのも嫌になってくる。

 

 

もちろん、自分らしさは人から教わるものではない。

 

教わったやり方を使うのは、誰かのコピーになろうとするだけだから。

 

あまりそういうやり方を教えますという誘惑には乗らない方がいい。

 

 

無条件に自分らしさを出すのを怖がる時、そこには自分への信頼とか、自己評価がからんでいる。

 

自分自身に対して、自分を隠して見ようとしないでいる部分が、その不信感を作りだしている。

 

この人は何か隠していると感じるとき、その人を信用しないものだ。

これと同じ理由で、自分を欺いている部分が、自分自身を信頼することを阻害している。

 

隠しているのは、これがばれたら人から嫌われるだろうと思っているからだ。

 

しかし、皮肉にもそれがほかの人に対して拒絶する部分を作りだしている。

 

実は、その部分を見せれば、その正直さに人はあなたを好きになるというのに。

 

つまり、行き着くところは、自分自身へ正直に向き合うことだ。

 

ここから出発しない限り、「誰が見ても好ましいと思う人」を装い続けて、自分も周りも満足出来ない関係を作り続けることになる。

 

外側に解決があるなどと騙されて探し回るのは、いい加減やめた方がいい。

 

それよりも、素直に自分を表現したときの、ほっとする満足感を大事にするだけでいいのだ。

 

あなたがまずそういう人になればいい、周りにそれを望む人が集まってくる。

 


◆社会の期待だけで生きようとしない

頑張ってしまう人ほど、社会やまわりの人への期待に応えなければと、ついつい無理をしてしまいがちです。

 

他の人の役にたつことを目指すのはいいのですが、それが前面に出すぎると、自分自身の欲求を無視したり、押さえ込んでしまうことが強くなりすぎてしまいます。

 

それがあまりに高じると、「他の人の期待することが自分の願いでもある」と信じ込むようになってきます。

 

そして、自分は期待に応えられる人間であることを証明することが、自分の日々の活動のすべてになってしまうので、自分の奥底からの声に耳を傾けることが、だんだんおろそかになります。

 

これを続けていれば、残念ながらバランスをくずしてしまって、いつもなにかもの足りない、どこか苦しいと感じながら、それを抑えつけてしまう生活を耐えきれなくなるまで続けてしまうことになるのです。

 

それは、体の不調や、すぐ疲れるといった症状、あるいは「うつ」の症状を招くかもしれません。

 

 

そんな無理をしながらも、こんなことではダメだと思って、もっと自分を奮い立たせるような方法はないだろうかと探し求め、見当違いのハウツーを信じたのでは、症状をより悪化させてしまうかもしれません。

 

元気がでないのは、自分が怠けているからだと思って、一時的にから元気を出すような訓練をしても、いっこうに改善されるはずはないのです。

 

元気がでないのは、自分の中で認められない自分が悲鳴をあげているのに気づかないからであり、これ以上耐えられないと無言の抵抗をしてくるからなのです。

 

そんな状態から抜け出すためには、今の自分が忘れている、押さえつけてしまった自分の欲求を外に出られるようにしなければなりません。

 

本当に望んでいるのは、自由になりたい自分を解放することにあるからです。

 

ところで、無理を重ねてしまうと、外に向けていい顔をしながらも、時おり見せる一貫しない態度にほかの人は気づき始めるかも知れません。

 

いつもにこやかだった人が時々覗かせる不自然な行動に、不審に思いだす人が出てくるでしょう。

 

ですが、そんな無理をしすぎて他の人のことを考える余裕がなくなった人を、自分のことしか考えない自分勝手な人というように、道徳的な目で決めつけるのは早計です。

 

その人は、自分を守ることに手一杯で、他の人のことを考える余裕がない状態なのです。

 

その人が関心があるのは、まわりの期待(実は自分で作り上げてしまった期待なのですが)に答えることです。

 

ですから、それが必要だと言い聞かせて、期待に応えるように他人の手助けもするのですが、自分のことをうまく制御できなくなっているので、なかなか一貫して続けることができなくなってきます。

 

他の人から見た場合、一貫しない態度を不思議に思い、このあいだはあんなに親切にしてくれたのに、今度は冷たくあしらわれた、どういう人だかよくわからないという印象を持たれてしまうかもしれません。

 

 

そこまで自分が無理を重ねてしまったことに気がついたら、なんとか押さえつける一方だった自分を解放することを目指すべきです。

 

それには、いままでの関心の向け方を変えることが必要です。

 

いままでどうすればよく思われるか、どうすればまわりが喜んだり、自分に関心を示してくれるかばかりに注意を向けていました。

 

寛大であることがいいことだと教えられ、自分の寛大さを証明しようとして、やりたくもないことばかりやって、不満を感じながらもこれが正しいやり方だと言い聞かせようとしてきたのです。

 

それを一旦ストップして、自分の望みの方に関心を向けるようにしてみましょう。

 

苦しい思いをして相手に合わせるのではなく、自分の要求を表に出してみる練習をするのです。

 

もしかすると、自分の要求を口にだすことが非常に難しく感じるようになっているのに気づくかもしれません。

 

頭では、こんなちょっとしたこと何でもないと思っているのに、実際に誰かに頼もうとすると声にならず、なにか頼まなくてもいい方法を探しだそうとしてみたりするのです。

 

何でこんな簡単なことが頼めないのか不思議に思いながらも、実際にできなくなっている自分がそこにいるのを正直に認めることです。

 

これがまずはバランスを取り戻すための第一歩です。

 

ごまかしていないで、自分には人に頼みたいことがいっぱいあるのを、正直に認めてしまいましょう。

 

そして、人にしてあげることばかりでなく、それとは逆に、人にものを頼むことを増やしていくのです。

 

頼みたいと感じている自分を、理屈をつけて見ないようにしようとしてはいけません。

 

少しずつ気がつくたびに、軽く人に求めることができるようにするのです。

 

こんなことをしてもらっては悪いなどと気にせずに、気楽にものを頼んでみるのです。

 

そうすれば、人は思っている以上に何かを頼まれることに好意的であることを発見するでしょう。

 

そのうち、人に求めることに抵抗を感じなくなってくると、不思議なもので、自分が頼んでばかりいないで、自然に他の人になにかを与えたくなってくると感じ始めます。

 

以前のように、人から認められたいがために、無理して相手に与えるのではなく、そうしたいから思わず行動してしまうようになるのです。

 

無理をしないで、ただそうしたくて、人のために動いている自分を発見するでしょう。

 

今までは人に喜んでもらえるためだと頭では思っても、なんでこんなに苦しい思いをするんだろうとなんとなく感じていました。

 

そしてそんなことを感じてはいけないという自分と葛藤を起こしては、一人相撲をとっていた自分がいたのです。

 

そんな自分から脱却すれば、今度は自然に与えたいと思って与えることができるようになります。

 

求めることと与えること、ギブとテイクのバランスが正常に戻ったということです。

 

もはや、義務感から与えないといけないと苦しむことはなくなってくるでしょう。

 

すぐに疲れて気力が出なくなることも少なくなってくるはずです。

 

そして、今までよりも何でも自分で望んでやっているという実感が、本当の満足感をもたらしてくれるはずです。

 

「今までやってきたのは、何だったんだろう?」といえるようになれば、社会は苦痛を与えるばかりの存在ではないと思えてきます。

 

社会が先にあって、自分が従うのではなく、自分が社会を作り出せる存在であることを目指すようになるのです。


◆自分の判断に不安を感じるのはなぜだろう

誰かに対して自信ありげに見せている自分。

 

しかし、ひとりになってから自分だけと向き合って、それでも自信は揺らぎませんか?

 

ふとしたときに「これでいいのだろうか?」と不安になってくる。

 

これはどこからくるのでしょう?

 

そこで、実際には自分は何を頼っているのかを振り返ってみましょう。

 

◆自分の人生を生きるつもりなら、最後は内側から出てくる指針に従おう。

 

外側の方針に従ったら、どこまでも自分ひとりでは何も出来なくなってしまう。

決断を下す存在が外側にあるのでは、自分で判断するたびにストップがかかるのは当然である。

 

◆自分が自然に選択したことは、いちいち振り返らずに進んでいくもの。

 

正しいかどうか不安になるとしたら、なにかが自然の流れから外れている。

どこかが間違っていると思って他のやり方を考えよう。

 

◆自分でよくわかっていない権威に従うと、いつまで経ってもわからない存在に引きずられることになる。

 

自分で考える権利はいつになっても巡ってこないだろう。

 

◆そうではなく、自分を成長させればもっと視界が広がって自分で判断できるようになることを信じる。

 

いまの自分だけで判断して、自分では決められないと判断したり、誰かに頼ろうとするのはやめておこう。

 

◆社会の常識だからといって人を手助けしようとしないこと。

 

自分が本当に助けたいと思えることに限って、相手に親切にしてあげよう。

相手が自分で判断できるように手助けするのが、一番の親切だと忘れないこと。

またそれは、裏返しで自分も不必要に人に頼ることになるのを防げる。

 

◆「いまは、これなしでは生きられない」というものを作らない。

 

多少の不都合はあっても、依存と引き替えに何かを手に入れようとするのを極力避けたい。

そうしないといつまでも頼るものを作り出す生き方になってしまう。

 

◆弱気になっているのは、まだ外側の手近なものに頼ろうとしているから。

 

頼りにする何かを持つのをやめたら、不安や弱気は消えてしまうもの。

それは意志の力の強さでもないし、強がってみせることでもない。

それらを手放して自分の弱さを認めたときにあらわれてくるもの。

 

◆今の生き方で疲れを感じるとしたら、上記の何かをやっている兆しだと思って見よう。

 

「疲れた」とため息をついたら、何が原因かを探ってみよう。

 

◆自分の内側から来る自信だけが本物だと考える。

 

外側の何かに頼った自信はかんたんに崩れ去る一時的なものでしかない。

 

◆自分に頼って生きるのか、だましだまし何かに頼りながら生きるのか、どちらかはっきりさせよう。

 

いまの自分に自信が持てないという理由で後者を選べば、いつまでも充実感は得られない。

 



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もう少し自分に優しくしてみようか

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自己の心理006:もう少し自分に優しくしてみようか001

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◆自己批判というもの

私たちは、まわりの人から批判されることを恐れています。
そして怖いのは他人からの批判であって、自分自身による批判のことなど重要ではないと思いがちです。
しかし、現実に自分を傷つけるのは自己批判なのです。
いくらまわりの人から批判されようと、自分自身が批判を受け入れない人は傷つくことはありません。
またそれとは逆に、まわりの人は別に何も批判していないのに、自分が批判されているに違いないと感じる人もいます。
その人を批判しているのは、自己批判そのものなのです。
自己批判とは、批判がまずあると言うよりも、自分自身に価値があることを認められないことが先にあるのです。
自分のことが好きで、自分の存在に価値があることを実感できる人にとっては、他の人が自分を好いているか嫌っているかは、大した問題ではなくなります。
当然まわりからの批判も、自分の信じる価値と対等に客観的に比較できますから、それを恐れる必要などありません。
またそれよりも、他人から認められるかどうかが、自分の幸福を左右する度合いが低いので、批判されることを恐れる必要もないのです。

◆結果の予測があなたを苦しめる


人はいつでも、いま行動しなければならない。
準備する時間など、もともとないのです。
結果のことなどわからないまま、ただ行動するしかない。
しかし、この当たり前の事実はいつしか歪められ、忘れられていきます。
準備してうまくやりさえすれば、もっといい結果をだせるに違いないと信じ込んでいきます。
実際そうなることもあるでしょうが、そうでないことも同じように起こります。
その思い込みは、どんな結果になるのかを意識させ、いつしか実際に今何をするかということよりも、結果こそが大事なものになってしまいます。
行動するのが心配で、どんどん負担になっていくのは、ひとえに結果を気にしているからです。
それが証拠に、結果が見えにくいときほど不安は大きくなり、結果が出るまで他の事が目に入らなくなるほど気にしてしまうのです。

◆ありのままの自分をすきになる

ありのままの自分に満足出来るようにならないと、
いつまでたっても、満たされたと感じられません。
肝心なのは、外側の問題が解決することではなくて、
自分自身と折り合いをつけること。
自分自身を好きになることです。
自分自身の中に自分に敵対する部分を抱えていたのでは
いつまでたっても外側にも敵が現れます。
まわりを見回してみましょう。
そこに、自分の苦手な人はいますか?
そして、自分に危害を与えるかもしれない人がみえますか?
その人が好きになれないのはなぜだろう?
それを正直に考えて見ることです。
それは、あなたの中にある敵対する自分がそのように見せているのではないでしょうか?
自分自身と仲良くなれるほど、外側の問題は消えていきます。

◆自分を責めるとは

自分を責めることはどんな意味があるのでしょう。
自分を責めるのは、なにか改善の努力をしているように勘違いするかもしれません。
しかし問題点がわかったら、それ以上責めることには何の意味もないこと。
責めて立ち止まっていても、何も変わらない。
そんなことよりも、さっさと許して出来ることに目を向ける方がずっとましです。
一歩先に進むのが、許すということ。
そこにとどまって動けなくなるのが罪悪感。
自分の過ちを認められずに、とどまっていては、自分のいいところも認められない。
だから自信が持てないのなら、一つでも自分を許すことを探した方がいい。
自分を責めている人間に、人を褒めることなど出来ない。
無理に人を褒めようとしているのなら、自分の中の小さな子どもを抱きしめてあげよう。
それに、誰の責任かなどいつまで経っても、わかるものではないのです。

◆新しいことに挑戦するときの試練

新しいことに挑戦するときには、「それを断念したくなるような誘惑にであうもの」という声をよく聞きます。
そのことは、課題に挑戦しようという人にとっては、試練と言えるものになります。
なぜそんなことを言うのか、明確な理由はわかりませんが、経験上そういったことが起こるものだという人は少なくないようです。
そこで起こることは、おそらく、こういったことではないでしょうか?
まずあなたは自信を持つまでいかないけれど、何かに挑戦してみたいという気になります。
いままでもやりたいという気があったのかもしれませんが、そんなことは無理だろうという自分に打ち消されて、その欲求は抑えられてきたのかもしれません。
しかし、いまは、恐れよりもやってみたいという気持ちのほうが優位になってきて、挑戦してみるという可能性を考え始めたわけです。
何しろ自信はなかなか維持できないものですから、ちょっと他の人の意見を聞いてみたくなります。
はじめは、ごく親しい人に恐る恐る話してみて、相手の反応を確かめてみたい気になります。
あなたの熱意が感じられて、駄目だと否定するほどのものがなければ、挑戦してみることを応援してくれるかもしれません。


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