人間関係007:気がついていない自分を探そう!001

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◆腑に落ちない

「ふにおちない」という感覚をいい加減に扱わないようにしたいと思います。

 

腑に落ちないと感じるのは、トータルで見たときに気がつくものです。

 

そうなる前には、部分部分では納得してやっていると思い込んでいる行動が、先行しているものです。

 

しかし、少し長いスパンで振り返って見ると、何か納得がいかないで、不快で居心地が悪い状態に陥ってしまうのです。

 

たとえば、「過剰適応」といわれる状態があります。

 

人との関係を良好に保つために、適度に相手に合わせてみるというのは、スムーズな関係を生み出すのに有効です。

 

しかし、「過剰適応」というのは、その適応が過剰になってしまう。

 

たとえば、誰かにめんどうなことを頼まれたとします。

 

「えー、そんなことやってられない」と本音では思っても、「いいわよ、それくらい何でもないから」「私そういうのが好きだから、喜んでやらせてもらいます。」「人の為になることをするのって気持ちいいものね。」というように、無理をして引き受けてしまいます。

 

腑に落ちていない自分を納得させるために、どんどん理屈を追加していくのです。

 

めんどうなことを頼まれて、「私はそう言うことが好きな人間だ」と言い聞かせてみる。

 

さらには「人間は助け合って生きていかないといけない」という理屈でだめ押しをするのです。

 

しかし、困ることを引き受ければ、困るのは当たり前、あとから「何でこんなこと引き受けたのだろう」と後悔しだします。

 

過剰適応につきものなのは、エリック・バーンのいうところのゲームです。

 

やっかいなことを引き受けたのは自分ですが、やがて、「こんなにやってあげているのに、何であの人は感謝してくれないのかしら」と思い出す。

 

自分が嫌な役目を引き受けているんだから、相手もこちらのためにお返しをすべきだ。

 

それが出来ない人間は、ダメな人間、間違っている、ちょっと教えてやらないといけないようだ。

 

というように、相手への批判、反撃、復讐へとエスカレートしていきます。

 

「ひとは~すべきだ」という言い方が問題を起こすのは、このような状態から発生するケースなのです。

 

言っていることは、もっともで、反論のしようがないのだけれど、それだけにやっかいなのです。

 

そもそも、「相手を批判し、追い込んでやり込めたくなる終わり方」に行き着くところが問題なのです。

 

エリック・バーンは、こういった結末が予測出来る、「腑に落ちない」やりとりをがゲームと呼んだわけです。

 

このタイプのゲームをやりたがる人は、やたらと「正しい」ことを振りかざす傾向があります。

 

しかし直接的にいってくる人は、まだわかりやすいのですが、やっかいなのは、笑顔で皮肉を込めてくる人(笑)。

 

通常の「適応」ならこのような嫌な結末には行き着かないし、腑に落ちない状態には陥らないのです。

 

日本語には、せっかく「腑に落ちない」という微妙なこころの状態を指す言葉があるのですから、それを感じ取れる感性も失わないようにしていきたいものです。

 

腑に落ちないことがあったら、何が起きているのかを探ってみる。

 

そのときには、さきほどの「ひとは~すべきだ」というような理屈が入り込んでくることを、注意して避けないとなりません。

 

言っていることはわかるけれど、納得がいかないと思ったら、腑に落ちるまで正直に自分を振り返ってみる。

 

自分がわからない状態に陥らないためには、大事なことだと思います。

 

 



◆困ることは人によって違うんです


以前紹介した養護学校の生徒さんのお話から一つ紹介します。

 

あっくんは、物事がはっきり決まっていないと、いたたまれないくらいに困ってしまいます。

 

「何時何分から夕方ですか? 何月何日から秋ですか?」

 

きちんと決まっていないと、あっくんにとっては大問題なのです。

 

「お日さまが沈みかけたときが夕方ではどう?」

 

そういわれて、いったん納得しかけたあっくんですが、あとで困ったことに遭遇します。

 

「曇り空で、お日さまが沈みません。夕方はどうなるのですか?困ります!」

 

 

ひとそれぞれ、困ることは違うものです。

 

そしてそれは、その人にとっては大問題なのです。

 

私たちは「そんなことはわかっている」と思っています。

 

そして、あっくんのように普通とは違う行動は、問題がなければその人の個性だくらいで受け入れます。

 

 

しかし、その人の困ることが社会のメジャーな規範から外れていれば、どうなるでしょう。

 

個性を認めるどころか、そんな考えは社会にとって悪であるというレッテルを貼って、弾劾しようとし始めます。

 

どれだけ良識のある人でも、社会全体が偏っていると、その常識を外れて考えるのは難しくなります。

 

だけど、「だから、合わせればいいことだ」と当たり前のように言って、

それが出来ない人間を排斥しようとするのは私には納得がいきません。

 

 

人と協調するのがいいと考えると徹底して合わせようとする、

個性が重要だと考えると人と同じことをしているのを軽蔑してみせる。

 

こんな2元論に陥ることは避けたいと思うのです。

 

合わせることも必要だし、重要なことだけれど、自分は違うと思うことは捨てるわけにはいかない。

 

人と違っていても、それを諦めて捨てなければならないわけではない。

 

あくまで、自分がその気にならないあいだは、その人のやりたいことが真実なのです。

 

何がいいたいのかというと、自分の感じ方が人と違っていたとき、どうするのがいいかという話です。

 

そんなとき、わたしたちはどちらが正しいのかを究明して、結論が出た方に合わせるべきだと考えてしまいます。

 

やはり、2元論になってしまうのです。

 

ですが、いまの自分にとっての感じ方を否定する必要は無い、

社会がそれをよしとしなくても、両方が併存してればいいだけのことだと思うのです。

 

すごく当たり前のことだと思われますか?

 

ですが、私たちは気が付けば、白黒つける思考に走ってしまい、

その結果自分の感じ方を諦められないと悩んだり、

自分はどこかおかしいのだろうかと自分を責めたりしているのです。

 

「すっきりしない、白黒つけられない」ということは、むしろ自然なのだと私は思います。

 

あいまいさに絶えられないと思うのは、思考に頼りすぎてしまった結果です。

 

今も絶えず変化を続けている私たちの身体と同様に、感じ方も絶えず変化するのが自然なことだと忘れてしまっているのです。

 

強固な意志は、立派に見えますが、どこか不自然さや、やせ我慢を感じてしまいます。

 

わたしは、社会から見て困った人にされても、自分の感じ方を犠牲にしてまであわせようとは思いません。

 

それならば、むしろ孤独を選びたい。

 

このように言い切ってスッキリしました。

 

何を言っているか、わからないという人もいらっしゃるかもしれませんが、結構大事なことだと思うのです。



◆どうして敵が現れるんだろう

私たちは、敵が存在すると思うと、せっせとその敵の問題を掘り起こしたり非難することで、余計に敵の存在を確固たるものにしてしまいがちです。

何もいま、敵が攻めてきているわけではないのに、相手は敵であると決めてしまいたかのようです。

 

しかしここでいままでの「敵」という言葉の引き起こす感情を静かにさせて、敵がなんのために存在するのかをもう一度考えなおしてみてください。

 

 

「敵が存在することで、あなたが隠してしまっている意識の一部を、もう一度取り戻すきっかけとして利用出来る」という考え方を聞いてどう思うでしょう。

 

あなたが敵を作り出している時、そこにはあなたの独自の感じ方がその裏に隠れているはずです。

他の人がそれほどなんとも思っていないのに、あなただけがその人を敵だと感じるなら、それは誰もが思うことではないものをあなたが抱えているからです。

 

それは長い間埋もれてしまっていたために、あなた自身意識出来ていないかもしれません。

しかし、そこからあなたは何かのエネルギーを引き出そうとしています。

敵を創りだすことは、肯定的ではないにしてもエネルギーを作り出します。

 

それも他のことよりも、強いエネルギーを生み出すことが多いのです。

 

ですから、そこにはあなたが解放させるのを待っている、強い感情を創りだす原因が埋もれたままになっているのです。

 

実は、敵に向けて感じる強いエネルギーとは、深い部分ではあなた自身に対して向けられているエネルギーを反映しているのです。

 

 

それは、どんな起源を持っているのでしょうか。

 

あなたは、その人のどんな性質に対して戦おうとしているのでしょう。

その人に対して見ている、敵だと見えるその性質は、あなた自身のものとして当てはめてみたら、どんなふうに感じますか?

 

あなた自身が、そのようにふるまっていたことはありませんか?

 

あなたは、いまは敵対するその人の行動をみると、嫌悪感を持つのでしょう。

そんなふるまいが許せないと感じる。

そのふるまいを見て感じること、その時の感情、その感情、その感情、。。。

 

見知らぬものではないと感じられてきたら、それが誰のもちものだったのか思い起こしてみましょう。

 

もちろんぼんやりとしているのが普通でしょう。

ですが、他人のその人が持っている、あなたとは関係ない性質だと思っていたものが、あなたと関係ないどころか、かつては自分の一部分だったのかもしれないと思えてこないでしょうか。

 

 

少し、見る方向を入れ替えて考えてみましょうか。

 

自分が以前によくやっていたことで、いまはそれが嫌なことに思えてやめていることはないでしょうか。

あるいは、かつては好きだったのに、いまは嫌いになっているものや人はどうですか。

 

じつは、そのようなかつては自分のものだった性質を、ふと他の人の中に見つけたとき、なぜかあなたはそれを必要以上に嫌ってしまうのです。

 

その結果、あなたはなんとなく、かつて自分のものだったことを表現するその人そのものを嫌いになり、敵対するようにさえなってしまうのです。

 

そのような敵対意識は、具体的な利害関係から来る敵対関係よりも、むしろ強力な場合もあります。

 

しかし、そのような「敵」も先ほど述べたように、あなたの一部を取り戻すきっかけとして役立てようと思うなら、あなたの分裂してしまった自分を統合するのに一役買ってくれるのです。

 

そして「敵」という言葉ですぐに反応して、それを遠ざけ、非難する存在にしていたいままでの自分と違って、かつての自分をそこに見つけることができるかもしれません。

 

なぜ嫌うようになってしまったのかは、いまはもうどちらでもいいことです。

それを自分の中に取り入れて、統合してしまえば、もはや敵ではなく、大事なあなたの一部として蘇るのです。


◆自分の知らない自分を知る方法

『他の人に見る自分が気にさわる部分をチェックする』

 

たとえば 「あの人のあのやり方が気に入らない」と感じるときに自分を振り返ってみます。

 

それが気に入らないと判定しているのは、他ならぬ自分の基準だということを認めるのです。

 

つまり、もし自分がその人と同じことをしたら、自分は自分を責めて、そんなことはやめろといいたくなる。

その姿を相手の中に見ているということです。

 

それはあなたに、例えば、怒りだったり、羞恥心だったり、自分の悲しい感情を呼び起こすものだったりするのでしょう。

 

自分ならそんなことは許さない。

その思いが相手の行為に対して、あなたをイライラさせたり、落ち着かなくさせるのです

 

何が原因でそう思うようになったかは、その時にはわからなくてもかまいません。

 

肝心なのは、いまの自分にそのように反応する自分がいることに気がつき認めること。

 

そして、それは目の前にいる相手が、あなたにその反応をさせているのではなく、自分の中にそう感じている自分がいるのだということです。

 

 

『他の人の言葉に反応して、自分を守ろうとしてることに気づく』

 

いつもと違う自分の反応には、自分自身では気がつきにくいものです。

 

むしろ他の人から見ていた方が、その変化に気づきやすいでしょう。

 

ですが、あえてそれを指摘してくれることを期待するより、自分で気がつけば他の人に不必要に依存しなくてもすみます。

 

たとえば、このような変化に気がつかないでしょうか?

 

◇ある言葉を聞いた途端に、話し方のペースが変わってくる。あせったように早口になる。

 

◇ いつもなら口をはさまないところで、ひとこと言いたくなってしまう。

 

◇自分の気になっていることから、他の話題に話をそらされそうになるとイライラしてくる。

 

◇この話には参加出来ないと感じて、無力感を感じてしまう。

 

 

自分で気がつかないでいた自分を発見することは、次のようなメリットがあるはずです。

 

●わけもわからず不安になったり、イライラする自分から解放されます。

 

●一見マイナスに見える面を発見したとしても、その裏返しで思わぬ自分の才能を発見するかもしれません。

 

●マイナスだと思い込んで、押さえ込んでいたかもしれない自分の特性は、別の面から見ればプラスの働きをするものです。それらは、いままで自分でどうにも出来ない部分だと感じていたはずですから、自分を取り戻すことで自分を好きになり、自信が出てきます。

 

●抑え込んでいた感情を解放することは、一時的に戸惑いや居心地の悪さを感じさせるかも知れませんが、それはやがて自分の本来の感情であったことを発見するでしょう。もうその感情が表に出ないように見張りをしなくてもいいのです。

 

● さまざまな自分に課していた制限から解放されて、行動することが軽く感じられるようになってきます。

 

他の人から指摘されたのでは、なかなか素直に受け入れられないものです。

それらは大抵、ほかの人に知られたくないと思っていることだからです。

 

だからこそ、自分で少々気が重くてもやってみることです。

その見返りは十分すぎるほどあります。



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